K2頂上

御父上様

ご子息、厚史君のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申しあげますとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。

厚史君は、社会科学部の小生担当の専門演習に3年生から足掛け4年間在籍しました。従って、ゼミの卒業生の中で最も長く私が接した学生であり、最も多くの先輩と同期と後輩に巡り合った学生でした。

特に、私には忘れ難い想い出があります。あれは私が学部の教務の一員であった時ですから、もう4年程前のあの北アルプスでの早大山岳部の事故は、椎名君に痛恨の出来事であった筈です。生き残った者の勤めとはいえ、事故調査書を書き進める頃の厚史君の落ち込みは、見ていられない程でした。キャンパスで偶然出会うことが何度かあり、その度に立ったまま、脇を怪訝そうに行き交う人の目も気にせず、長いこといつも同じ話をしたものです。私の話に決して納得しない風で別れましたが、厚史君はゼミに顔を出すと心が和むと言ってくれましたし、実際、無論わずかな回数でしたが後輩の発表を聞きにゼミに出てくれました。彼の心には、山岳部の存続のこと、失った仲間達のことしかなく、自分のことは全くなかった、そうとしか思えず、その心に抱え込んだものの重さに、私の言葉は空しいだけでした。私も人の親なんだ、という言葉が。

卒業してからは、海外遠征に出かける度に研究室を訪ねてくれました。そして、遠征先やベースキャンプからも大きな字で絵葉書をくれ、帰国するとTシャツなどのお土産を持って真黒い顔で現れました。2年程前から奥多摩や奥秩父をハイキングし南アルプスの山に登るようになった私の話を、笑顔で聞いてくれていましたのに....。

私の家が入間市で川越に近かったせいで厚史君は、3、4年生の頃のこと、車で大学に来たゼミの日には、送ってくれました。「マタイ受難曲」を聞きながらずっと話をしながら、深夜の関越道を所沢で降り行政道路を走る。その曲にいつもあの頃を思い出します。

厚史君のゼミの卒業論文は、「累積債務問題」でした。国連や南北問題をテーマにしたいと言ってゼミに入って来ましたが、当時重大局面にあった南米やアジアの累積債務問題の解決策に関心を持ち、研究したものです。同じ関心を持つ後輩の面倒もよみてくれました。今から思えば、後に海外遠征で行く南の国々の社会や人々や自然に親近感を感じていたのでしょう。

そんな椎名君のゼミ合宿、先輩の卒業式、そして彼自身の卒業直前の拙宅でのパーティーでのスナップ写真を同封しました。彼に出会う幸わせを得た大勢の人間の一部がここに、早稲田大学社会科学部に居たことを示すものです。ご冥福をお祈りします。

1998.6.13
早稲田大学教授 上沼 正明

M.K様

去る6月13日、椎名厚史君の28歳の誕生日の日にご実家の川越市熊野町近くの集会所で葬儀が執り行われました。これまでクルマでしか行ったことのない川越市に西武線で行き、東武線に乗り換え上福岡駅から式場へ歩きました。何度となく池袋まで帰りが一緒になり西武線と東武線に別れましたが、きっと椎名君はこの上福岡駅で降りたのでしょう。朝から雨が降る日でしたが、恐らく早大か他大の山岳部員と思われる人が何人も道案内に立つ中、式場が近づくにつれ、バッハの「マタイ受難曲」が聞こえてきて、驚きました。

式場の入り口の上方の壁に早大山岳部が用意した椎名君の登山のスチール写真が飾られ、祭壇中央に笑顔の写真と、最後を看取った隊長が持ち帰ったという遺品のヘルメットが置かれていました。お父様は昼に体調を崩されて、代りにお兄さんと椎名君がよく似たお母様が忙しく応対されていました。やっとの機会を得て、お悔やみをしっかり申し上げねばと思いつつ声につまり、涙が止まりませんでした。是非にと促されて山岳部関係者と親族関係者が座る席の末席に加わりました。仏式の葬儀が進み、我がゼミの彼の同期生と後輩が多数参列しお焼香をあげるのを背後からずっと見ていました。本当に長い長い焼香の列でした。雨足が強まったのにも拘わらず、大半の参列者は外で傘をさしながら最後まで立って待っていました。

喪主のお父様に代って挨拶されたお兄様が、椎名君は山に登る時にはいつも「マタイ受難曲」をベースキャンプでも聞いていたこと、早大山岳部の事故で同僚を失った時、山で死ねたから本望だなんてないんだと言っていたことを披露されました。理屈っぽくて納得するまで論戦する気難しい男との初印象が情熱的で努力家で責任感の在るヤツに直ぐに代ったと出会いを偲んで、病院からの弔辞(代読)で語った隊長は、今回の登頂で椎名が最も情熱的にリードしたと明らかにしてくれました。そのことは、「山と渓谷」7月号の「非情の8、586メートル−日本山岳会青年部カンチェンジュンガ登山隊の5月15日−」に詳しく出ています。

葬儀の後、残ってくれたゼミ生と上福岡駅へと歩き、椎名君の同期生達と近くの喫茶店で話が出来ました。卒業後、殆ど会っていない者もいて、これも椎名君が連れて来てくれたのでしょう。一人ひとりの近況を聞くことが出来ました。この政策不況下、大変な話ばかりでしたが、我々の学生時代を共にした椎名君が最後の山で恐れることなく積極的に責任を果たし、自分の可能性を極限まで生き抜こうとしたことを忘れないでいて欲しい。それが、供養なのだと思う。

同封した文は、葬儀の当日に写真をご遺族にお渡しするのに添付したものです(前掲)。我が家での卒業祝いのパーティーで写真に収まる白いワイシャツ姿で日焼けした真黒い顔は山男のそれですが、そこにはゼミでは山岳部の事をおくびにも出さず「累積債務問題」の研究に励んだ社学生の椎名君がいます。私の大学の個人ホームページに追悼コーナーを設けました。もし、お許し頂けるなら、このあなたへの私信も掲載したいと思います。

末筆ながら、ご健康をお祈りします。

6月20日
上沼正明

卒業生の諸君へ。椎名君への追悼文を以下に掲載する。字数200字前後。メールか葉書で研究室に寄せて欲しい。公開する時の匿名も可。
椎名君

 突然のご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 早大山岳部の事故のことは、君の頭の中から消え去ることはきっと一瞬たりとも なかったのでしょう。今回の登頂でも、遭難した仲間の写真を山頂に埋めていたそ うですね。4年前、ゼミ合宿で飲んだとき、事故のことに話が及んで、「何だか踏 ん切りがつかなくてね」と、登り続ける使命感のような心情を聞かせてくれたこと が思い出されます。

 K2登頂の後、年賀状の返事をくれましたね。「いづれ酒でも飲みたいものです 」という言葉を信じ、転勤で来た北アルプスの玄関口・松本で君を待っていたので すが……。西に連なるアルプスを眺め、いまは君の気持ち、生き方に思いをはせつ つ日々を送っています。椎名君、どうぞ、安らかに。

6月19日 大矢理太郎


日本山岳会主催追悼集会


カンチェンジュンガでの休憩

椎名君の葬儀から約一月後の7月11日(土)午前11時より、JR四谷駅前の施設のホールで、(社)日本山岳会主催の「赤坂謙三・椎名厚史君報告・追悼会」が行われ、厚史君のお兄様からわざわざ電話を頂き、ゼミOBの高木君と列席しました。珍しく晴れた暑い日でしたが、隣の上智大学の緑のせいか微風が心地良く吹いていました。上の写真は、その時のものですが、この他にも登山中の写真や登頂証明書が飾られ、報告会でのスライドや成田から始まる登山の準備のビデオ上映に、高木君は涙を堪えることが出来ませんでした。次に掲載する手紙は、当日ご列席になられた椎名家の関係者から、後日頂いたもので、掲載のお許しを得ています。続く私の返信と併せて、この「追悼会」や椎名家のご様子を、物語るものです。


上沼先生。
椎名厚史君の追悼会でお目にかかりました、Hと申します。
先生から戴いたホームページの文章を、椎名母も兄も何度も何度も読み返していました。二人とも、今まで断腸の思いの中、「葬儀だけは」「追悼会だけは」と気力を振り絞って準備してきましたが、追悼会が終わり、いよいよ彼の不在だけが以前と異なる日常が戻ってきて、「何をする気にもなれない」と力を落としています。以前、椎名兄は「厚史の書いた日記や文章をワープロにして、友人や支援してくれた方々に読んでもらいたい」と言っていたので、その作業に気力を注いでくれたらと願っています。「いくつか上沼先生のHPに載せて戴いたら」と提案しました。厚史君の「登山日記」は事実を几帳面かつ淡々と積み重ねた独特の文章で、面白いです。
「生けるものと生けるものとの関係」はもう終わってしまったけれど、残された家族が「死せるものと生けるものとの関係」を受け入れ、育んで行けるよう、祈っています。突然お手紙を差し上げて失礼しました。
7月15日
K.H


K.H 様
拝復 こちらは、2ヶ月にも及ぶ史上2番目の長さの梅雨が8月1日に開けたと宣言されたと思いきや、相変わらずの雨と高温が続き、すっきりしません。先日は、日本海側や北陸地方に豪雨が降り被害も出ました。フランスに滞在する同僚からも、パリでは夏らしい日が殆ど無いとメールが来ました。世界各地が、異常気象の様です。そちらは如何でしょうか?

先日の日本山岳会の追悼会では、失礼しました。事前に厚史君のお兄様から電話を頂き、また、葬儀ではお目に掛れ無かったお父様に今度はお会いしお悔やみを申し上げられるのではと期待して、更に、ホームページでの追悼の許可をご家族に得るべく、場違いとは思いましたが出席致しました。

お父様の再びの不在の理由に一層胸を締め付けられましたが、隊長の報告の後で交わされた真摯な質疑応答ぶり(水分や食事は十分だったか、休息を何回取ったか、頂上での滞在時間が長すぎたのではないか、頂上アタック隊の人数は適切だったか、混成チームの難しさがあったのでは、など)や、厚史君の先輩・後輩の弔辞(椎名君は日頃から訓練を怠らず、急な誘いにも拘わらず皇居一周ラニングに付き合ってくれた頼れる男だった。今回も頂上に早大山岳部の今は亡き仲間の写真を埋めて来たと聞き、何故先輩が登り続けたのか、いま痛いほどその気持ちが解るけど、剣岳で死んでいった仲間の誰一人として最後まで椎名さんを悪く言う者は居なかったことを生還した自分が証言する。どうか、肩の荷を降ろして安らかに眠って欲しい。)、そしてお兄様のご挨拶(遺品の整理をし始めたら百名近い住所録が出てきて、いつも山に携行し葉書を出していた様で、厚史は自分一人の力では決してないことを良く解っていたようだ。また、高山病に倒れはしたが、高山病に関心を持ち研究をしていたノートが見つかった。是非、厚史の死を無駄にしない様、ノートを役立てて欲しい。)に、私どもが知り得なかった多くを垣間見ることが出来、出席して良かったと思いました。

お手紙にありましたが、お兄様から追悼ページにご寄稿願えれば、是非掲載させて頂きたいと思っております。何かの折りに、そうお兄様にお伝え下されば幸いです。 また、お兄様に限らず、貴方様とのやりとりもお許し下されば指示された範囲内で掲載させて頂きたく、お願い申し上げます。私事ながら、来年の2月末には在外研究で2年間程、渡英する予定で、それまでに我が教え子を始め多くの人達の想い出を形に残して置きたいと考えております。

この夏休みには、厚史君が映画「マークスの山」の撮影隊の手伝いをしたという南アルプスの北岳に、追悼登山をする予定です。天気に恵まれれば良いのですが...。

流行の「中高年の登山」だよと照れながら、しかし、青年の如く発見する登山の面白さをあれこれと語る指導教授を、登山計画書を持って研究室を訪れた厚史君は笑顔でコメントしてくれました。彼が抱え込んだ思いと情熱の深さと高さを想えば、その一瞬の時の共有だけでもう十分満足すべきなのだ、生きて帰ってくれたなら彼の案内で幾つかの山に登ろうなんて毛頭願ってはならないのだと、追悼会に出て強く思いました。

ご家族のお気持ちをお知らせ下さり、本当に有り難う御座いました。感謝申し上げます。 皆々様に宜しくお伝え下さいませ。
不順な天候が続きそうです。呉れぐれもご自愛下さい。

敬具
1998.8.8
上沼 正明


大学を出て久しぶりに椎名さんの名前を聞いたのは5月17日深夜のテレビニュースからでした。 「ヒマラヤ登山中の椎名厚史さんの消息が途絶えた・・・・」と4年ぶりに聞く名前に「まさか・・・・」とは思いましたが 本当に本人であったとは未だに信じられません。

上沼ゼミに入った当初、椎名さんが「山登り」をしてると聞いた時は山を仰いで育った私としては非常に親近感を 持ったことを覚えています。しかし椎名さんのゼミでの言動は僕ら後輩にとっては恐怖でさえありました。 僕らのレジュメの研究不足、説明不足、資料の不備などがあると、一通りの質疑が終わった後、「あのーちょっと・・・・」 手が挙がらず大きな声で鋭い質問が始まるため、みんな静聴し、椎名さんに注目します。椎名さんはアドバイス というより、自分が納得するまで質問を辞めず、時には自分なりの価値観で発言することが多かったような気がします。 泣かされた僕らの同期もいたんじゃないでしょうか。椎名さんの出席していない日の発表は本当に助かったと 思いました。椎名さん曰く「去年のゼミはもっとすごくて未だにテーマとケースさえ決まってないのがいるんだ・・・・」 といった内容のことをゼミ合宿などで語っていたことをぼんやりと覚えています。

ゼミ以外では、気さくで話しかけやすく、相談した時には親身になって相談に乗ってくれる人でしたが、ゼミで見せる 椎名さんは、信念が強く、芯が通っていて妥協を許さない、僕らの世代では珍しい「堅物」という印象でした。

そんな椎名さんにとって4年生時の「山岳事故」はそれからの人生に大きな影響を与えたことは間違いないことだと思います。 本当に不幸であったとしか言いようがない。 そして今回の事故・・・・・・・・・・。

もう亡くなられて3ヶ月経ちましたが、過去に感じることなく、椎名さんの印象は私自身、上沼ゼミ生の記憶には いつも新鮮に蘇ります。2度と椎名さんのような方にめぐり会うことがないでしょうし、椎名さんにもう一度会うことができない ことは非常に悲しいことだと感じています。
本当に心からご冥福をお祈りいたします。

8月23日 95年3月卒

船坂


椎名へ
君の事故の知らせを聞いたのは、久し振りに先生や先輩、同期と顔を合わせて、アメリカから仕事で一時帰国したM先輩を馬場の栄通りの「鳥やす」で囲んだ日曜日の翌朝のことでした。つい数時間前に、あいつ今はどこに居るんだ、などと皆で話していたばかりだったのに.....。
このところ想い出されるのは、君が担いでいたやたらと重いザックのことや、二人とも今日は研究室に行きづらいな(笑い)という時に山岳部室で飲んだコーヒーの味などです。
どうか安らかに眠って下さい。
11月14日 95年3月卒

同期の 高木 晋


椎名へ
椎名、今、私はこの4月に竣工され後期から新しくなった14号館の最上階の先生の研究室に来ています。久し振りの休暇を利用しての、実に4年ぶりの上京です。私が頬に肉がついて太ったのに、先生は襟を立ててラフな格好で若返っていました。椎名、君が長く在学したせいで訪ねることがあった先生のお宅で会った先生のお子さん達が、埼玉県民の日で休みとあって丁度、研究室を見学に来ていました。

便りの無いのは良い知らせをモットーとする私は、卒業以来みなと連絡をとることも少なかったのですが、その久々にした東京の同期への連絡が君の事故のことになろうとは....とても残念でなりませんでした。今日、再会した先生も同期の連中も変わりなく5年前のままでした。皆、がんばっています。
遠い熊本で、椎名や皆のことを思い、がんばって行こうと今日改めて決意したところです。

11月14日 95年3月卒

同期 田代 智大


椎名へ
限りある生命を精一杯駆け抜けた君の生き様は、我々に「生きることとは何か」を語り掛けているような気がする。友よ、安らかに眠れ....。
11月14日 95年3月卒

同期の 徳永 憲之


椎名へ
同期の徳永君から突然の連絡をもらったのは、深夜の2時頃だったでしょうか。テレビでの消息不明の速報を観ての連絡でした。私は、直ぐに在学中の早稲田大学山岳部の悲劇のことを思い出し、言葉を失ってしまいました。
本当に、君は山が好きでした。いまでも思い出すのは、日に焼け、カサカサの顔をいつもしていた君が、埼玉の自宅からスーパーカブで大学に通っていた事です。
お線香を未だあげに行っていないことが、悔やまれますが、大好きな山で、どうぞ安らかに眠って下さい。
11月14日 95年3月卒

同期 加納 智


上沼正明先生

拝啓 暖かい秋晴れの日と冷たい風の日とが交差する日本の晩秋となりました。
ご無沙汰しております。留学のご準備でお忙しい頃と存じますが、椎名厚史のカンチェンジュンガ登山隊の報告・検討会が行われましたので、その資料を送らせていただきます。

報告に対して、現役又過去の登山家の経験や医学からの指摘が多く有り、8,500mでの無酸素での行動という試みは、まだまだ高所医学の現在から不明の点が多いのだと知りました。単独で登頂に成功した経験の有る登山家から「8,500m以上の山に無酸素で登るには、自分は常に「どこで引き返す決断をするか」を考えながら登っている」との意見が寄せられました。

厚史の遺品の中から作ったばかりの、まだ配っていない名刺の箱が見つかりましたので、一枚同封いたします。ネパールに出発する直前に電話の権利とFax機を購入したばかりで、これから登山関係の仕事をしていくつもりだったのでしょう。

最近、中公文庫から長谷川恒男「北壁からのメッセージ」が刊行されました。元は1984年に単行本で出たものが、今回文庫で出されたのですが、149頁に小学校六年生当時の厚史が書いた作文「やった!標高2899.2メートル」が載っています。厚史は長谷川さんが1982年に主催したジュニア・アルピニスト・スクールの出身でした。

このごろ日が短く寒くなって来るにしたがって「厚史、寒くないかなあ、と思うの。厚史がいる所は夏でも雪に覆われているはずなのに、変ね」と厚史母は言います。月日は瞬く間に確実に過ぎ去っていきます。長谷川恒男さんはカラコルムで亡くなり、厚史もまた山に死にました。生き残った者たちはどう生きていくのか?が問われているのだと思います。

風邪が流行している様です。お体に気を付けてお元気でご出発下さい。不一

1998年11月19日

K・H


K.H 様

拝復 不順な天気続きでしたが、漸く秋らしいこの頃です。
日本へ、お帰りなさい、と申し上げればよろしいのでしょうか。

さて、椎名厚史君のカンチェンジュンガ登山隊の報告・検討会の資 料を郵送して下さり、また、遺品より彼の名刺とまた故・長谷川恒 男氏とのエピソード等を教えて下さり、厚く御礼申し上げます。 報告・検討会の資料は夏の市ヶ谷での日本山岳会主催追悼会での報告と重なるものでしたが、しかし、やはり涙なくしては読めませんでした。
厚史君の死を無駄にしない事が何よりの供養かと思いますが、早大 山岳部の北アルプスでの事故の報告書を書く頃の厚史君の憔悴ぶり を思うと、生き残った仲間の辛さも伝わってきます。

名刺に込められたであろう彼の将来計画を知り、改めて我が身を切 られる思いです。お贈り下さり、有り難う御座いました。大切にし ます。
長谷川恒男氏の著作は知っていましたが、厚史君との関わりは初め て知りました。
今回も、戴いたお手紙を私のホームページの椎名君追悼ページに転 載したいのですが、お許し頂けないでしょうか?

この夏の中旬に、私の故郷の近くの中央アルプスの西駒ヶ岳に登り 、一泊した宝剣山荘で「マークスの山」の撮影隊が残した色紙を偶 然発見し、ひょっとして椎名君もこの宿に泊ったかも知れないと偶 然の巡り合わせに感謝しました。また、下旬には以前から計画して いました南アルプスの北岳に追悼登山を無事して来ました。 天候不順の中、登山前後だけ天気が回復し、肩の小屋ではご来光を 拝む事も出来ました。これも、椎名君が見守ってくれているお陰だ と感慨深く思われました。

先週末に、大学の学部の校舎が新築されたのを機にゼミのOB・O G会を開催し、卒業生に椎名君の追悼ページをスクリーンで観ても らいました。 敬具

1998年11月24日

上沼  正明


椎名厚史君

君が居ないのに年は新しくなります。この春には、私は在外研究で 英国のロンドン大学へ旅立ちます。幾つもの思いで迎えた新年の2日 の早朝、6時半からのテレビ朝日の番組「大谷映芳の続日本の名峰」 を偶然観ていたら、余りにも美しい冬の白神山地を縦断する番組の クルーの中に、椎名君、「あなたの声」を聞きその姿を観たのでし た。胸が騒ぎ熱くなりました。もう一度、あなたに会えるなんて。 2年間の予定で留守にします。どうぞ、お母様お父様、お兄様をお守 り下さい。

1999年3月23日

上沼  正明


予定通り、2001年3月末に2年間に及ぶ在外研究から帰国しました。
文字通り「浦島太郎」でこの一年を過ごしました。出合う人に感想を聞かれて、「雲の上を歩いているみたいです」とひょいっと口から出ました。
雲の上に立ち、幸運にも雲に自分達の影が映る時、しかもその雲が動くと、神秘的な気持ちになるものですが、そこに天国を昔の人は夢想したのかも知れません。
山から下り都心の夕方の帰宅列車に乗り合わせると、ほんの僅かな時間なのに「雲の上」気分になるのは、履いている登山靴のせいではないでしょう。
忙しさにことよせてページを更新せずにいましたら、突然、下記のメールを頂き、許しを得て掲載させてもらうことにしました。
(2002年5月1日 上沼)


突然のメールで失礼します。
早稲田大学 商学部四年の山岸成行と申します。

僕は、上沼先生のゼミ生であった椎名厚史さんの高校(埼玉県・松山高校)の後輩です。椎名さんの足跡を辿っていたら先生のホームページを知りました。

現在、僕は就職活動を行いながら自分の将来を模索しています。就職活動中は「君は大学時代に何をしてきたか」と問われます。そのとき私は「大学では登山をしました」と答えます。

きっかけは僕が高校生だったころに聞いた椎名さんの講演でした。
K2に登った体験とともに語られた登山は強く胸に迫り、自分のそれまで抱いていた「登山の何が楽しいのだろう」という気持ちはどこかに消えていました。
その中で今も記憶に焼きついている言葉があります。

「登山とは困難や問題を解決する連続である。それは人生と同じだ。 登山を通じて人生をより強く経験できる」

椎名さんのこの言葉がきっかけで大学で登山を始めました。
高校での素養が無かったので山岳部ではなくサークルでの登山でしたが、自分なりに真剣に取り組み、冬山も経験できるようになりました。

たった1度の講演でしたが、自分の大学時代を語る上で、また、将来を形成する上で椎名さんとの出会い無しには考えられなくなりました。

「追悼・椎名厚史君」のページは大学入学時に知りましたが、自分を振り返る大学4年生の今、改めて読んでみると事故の悔恨とあの講演の感動が入り混じり、涙をこらえられなくなります。

今までも何度かメールを出そうと思う時がありましたが、突然のメールははばかられ、今日まで追悼文などを読むだけにしていました。
でも自分の大学生活もわずかとなり、せっかく椎名さんの存在がつなげてくれたのだからと思い、突然で恐縮ですがメールを送らせていただきました。

とりとめの無い文になってしまいました・・・。
椎名さんの存在を大事にしている方がおられるのがただ嬉しくて、それを伝えたいと思いました。

P.S.追悼ページに椎名さんの「登山日記」があると書かれていました。どこかWEB上で読めるのでしょうか。可能ならばぜひ読みたいです・・・。

2002年4月15日

山岸 成行


【七回忌法要@妙昌寺】

椎名厚史君の七回忌法要への案内をお母様より電話で頂き、ゼミ同期生の高木君に連絡役を頼み徳永君、加納君、西島さんの5名で参加することになった。
車で「マタイ受難曲」を聞きながら駅に向かい、電車を乗り継いで川越駅に着く。お母様から頂いた地図を手に、朝方の小降りの雨もあがり薄日の差す天気の中、妙昌寺へと歩く。少し早めに到着し、境内を散策すると、本寺に小江戸川越七福神の一つ弁財天が祀られている案内を発見。花の季節にはさぞ見事であろう庭園と裏に水量豊かな清流があり、心が洗われた。

お兄様の案内で通された控え室で、着物姿のお母様と再会しご挨拶する内に胸が熱くなる。お母様から『日本山岳会青年部K2[南南東リブ]登山隊報告書』と『日本山岳会青年部カンチェンジュンガ登山隊1998』を頂戴した。後者の表紙には「赤坂謙三、椎名厚史へ捧ぐ」とある。ページをめくりながら、新たに涙を流す。研究室に置くので、いつか見て欲しい。やがて谷川隊長ほか日本山岳会青年部の方々が集まり、私の教え子も加わって、本堂で厳かに法要が営まれた。
その後、川越の中心街の由緒あるお店で席が用意されていて、お兄様の川越の街並み紹介を聞きながら寄せてもらった。
突然のお母様からの献杯発声指名を受けて、声を詰まらせながらお母様、お兄様をまた悲しませる話しをしてしまった。
この席で、事故後に電話やメールでやり取りをした早大山岳部の皆さんに初めてお目に掛かり、いろいろな事情をお聞きすることも出来た。また、隣りの席の青年部の後輩の方とも思い出話を交わすことも出来た。私も愛用している登山用品メーカー勤務だともお聞きし、椎名君にもガイドやこういう職業も開けていたのにと、言っても詮無いことを考える。
我が学生諸君は、お母様とお兄様に学生時代のことをつぶさに話している様子で、後でお兄様に山とは関係ない弟の知られざる面を一杯知ることができて幸せだったと感謝された。また、お母様からは、最近パソコンをするようになり、このホームページを読んでいる、その中に一文が寄せられている高校時代に厚史君の話しを聞いたという山岸成行さんと連絡がとりたいので連絡先を知りたいと仰っておられた。このページの更新を約束してお別れした。




2004年5月16日

上沼 正明


椎名厚史君 追悼

はじめまして、天沼健と申します。椎名君と高校時代を共有した者です。彼の足跡を 探していましたらこのサイトに辿りつきました。彼のことをいくらか知っているつもりでしたが、立山登山の後の彼の描写など、私のイメージでは及ばない部分が多々あります。松山高校での彼の活動はその後の飛躍へのプロローグだったこと、成長した彼を知りました。

彼とは北海道羊蹄山で行われた第40回高校総合体育大会に一緒に参加しました。この大会に向けて参加メンバー四人で練習することが多く、一見目立たない彼をよく知ることとなりました。

映画が好き(石原裕次郎いいって言うけどなんかクサイとは彼の言)。先輩に暴言をぶちかます(天然なのでまったくうらまれない)。山に打ち込み必要な費用は自分で稼ぎ出す(高階のコープでバイトをしていた)。お菓子を取り合う賭けトランプ(金銭は賭けていません)。チーフリーダーの私よりも体力があり、無理に五人用テントを持つように装備分担をお願いしたこと。山道を怒ったようにガシガシ歩き、山道で前が詰まって進めなくなるとバンバン地面をけり始める。などなど懐かしいことばかりです。

高校総体で、キャンプファイヤーが雨のため中止になれば、その夜は眠れなくなってしまう(今日のために催し物を用意してきた地元の方は今どんな気持ちなのだろうとヤキモキしていた)。北海道の写真に写る高校時代の彼の、笑顔がかわいいのとさわやかなのは松高山岳部の私たちしか知らないことでしょう。

彼が愛したであろう女性、築いたであろう家庭。彼の未来を想像しては変に目が潤みます。でもあれで完璧だったのだと、かれの人生は完璧だったのだと思うようにしています。

不覚にも去年が彼の七回忌だったことを知りました。遅ればせながら今年お墓に参ろうと考えています。彼の引き合わせか、あの葬式以来後輩や顧問の先生と毎年正月に集まっておりまして何人か集まれそうです。

ここにあげられた文章を読んで、椎名君が後輩への面倒を良く見ていたことなど新たな一面を知りました。このページを作ってくださった上沼教授に感謝します。ありが とうございました。

2005年4月21日

埼玉県立松山高等学校山岳部OB
天沼健(40回卒業生)


【松高記念館展示室を訪れて】


2002年に寄稿してくれた埼玉県立松山高等学校の後輩であった山岸さんからこの6月にメールが届いた。早稲田を卒業後、2008年暮れまで鹿児島に赴任し、今年から金沢市に異動になったが、忙しさにかまけてお母様が自分の連絡先を探しているとの記載に長年気付かず大変申し訳なく、今からでも間に合うならお母様に繋いで欲しい、とあった。「間もなく椎名さんの誕生日ですね。生きておられたらお幾つになられたのでしょうか。私は今年で31歳になります。いつの間にか椎名さんの歳を超えてしま」ったと追伸して。

直ぐ取り次ぐことを山岸さんに返信したものの、私も同様にお母様やお兄様に不義理を重ねて、お母様の現在の連絡先が出てこない。そうこうするうちにゼミ卒業生に聞き、メール受信箱を検索していて、松山高等学校記念館の展示を教えてくれた大野好司先生のメール(本ページに掲載)など読み返し、その展示室を訪れようと思い立った。週末に開催されるゼミ同窓会で紹介もしよう、と。

台風の影響で朝に一時雨が降ったがすぐ上がり、晴天となる。関越道を東松山ICで下り、丸広デパート、市役所、市民体育館を経て校舎に着いた。あと5日と掲示された校門では、生徒達が松高祭用の大掛かりな門を建設している最中だった。校舎の壁面に下がる幾つもの幕は文武不岐を物語る全国レベルの生徒達の活動成果を示していた。夏休み中の工事が完成していないせいか、工事車両が連なって構内に駐車。一角に場所を得て、記念館に入る。校舎の水色と前庭の緑に、脇の百日紅が鮮やかなワンポイントを添えていた。前の池には鯉が餌をあてにして水飛沫をあげる。

玄関ホールには、ホームページの記載通りに渋沢栄一の書が掛かっていた。

渋沢栄一(1840-1931)は武蔵野国榛沢郡血洗島(現深谷市)出身。号は青淵。幕末徳川慶喜に仕え、明治になってからは大隈重信の説得により大蔵省に出仕し国家財政の確立に取り組んだ。その後、実業界に身を転じ、第一国立銀行の創立を始め、電気・ガス・保険・運輸など様々な企業の育成を手がけ、日本資本主義の父と呼ばれた。
 渋沢は社会福祉事業にも力を入れ、本県出身学生の修学を奨励する埼玉学生誘掖会の活動にも尽力した。この書「為爾惜居諸」(爾が為に居諸を惜しむ*なんじのためにきょしょをおしむ)は同会に携わった渋沢が「巳巳孟春」つまり1929年の初春、90歳の時に本校生徒のために揮毫したものである。韓愈が長安の城南に住む息子符を励ますために作った詩「符、読書城南」の一句であり、時間を惜しんで勉学に励むことを勧めている。韓愈が我が子を励ましたように、最晩年の渋沢が本校生徒を我が子のように慈しみ、そして期待を込めて筆を運んだのだろう。「今ぞ我等若し いざ学べ友よ共に」「今ぞ我等若し いざ励めよ友よ共に」という校歌の一節に深く通じる書である。


2階の展示室へと、懐かしい木造の階段をあがる。大正12年建築の旧制松山中学校舎の本館一部を残した記念館とあるが、当時の周りは畑だけで他に何にもない土地に長い両翼を持った本館の写真が掲げられ、初代校長が好んだ「文武不岐」の由来が書かれている。


展示室2が「同窓生の広場」、ここに神田道夫氏(熱気球冒険家)のパネルと並んで椎名君のパネルが掲げられていた。当時の山岳部顧問で前出の大野好司先生が、椎名君が2年生の時に、北海道インターハイに引率したり、K2の登頂後に後輩への講演を企画し、そして80周年記念行事の一環として記念館を改修し資料室を設けた際に椎名君のパネルの文章や写真をレイアウトされた。大野先生や当時の山岳部仲間は大学のゼミ時代の椎名君のことを知って新たな面を知ったと感想を寄せられたが、私もパネルの写真に細くて愛らしく、掛けている眼鏡が大きく見える高校生の椎名君と彼の仲間に会え、また、当時の活動を知ることができた。


このパネルを作られた大野先生のご心情を想い、暫くの間、夏から秋に移り難き戸外の業者の工事や生徒達の松高祭の門作りの喧騒を忘れた。
君は、あの時のまま、ここに居る。

2009年9月8日(火)

上沼正明



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