上沼ゼミ卒業生の皆さんへ

OG・OB会創設を祝して

つい最近まで、奇妙な夢を繰り返し見た。
建替えを理由に立ち退きを求められ、契約が切れたにも拘わらず家賃も払わないでアパートに居続ける。隣の大家が郵便物をドアの隙間から入れに時々来ては様子を伺っているが、面と向かって何か言うことはない。アパートの住人は次々と入れ替わる。相変わらずの安普請と汚い共同トイレには閉口だ。
―なぜ、繰り返し同じ場面の夢を見続けるのか。ずっと、不思議だった。

早稲田に入学して11年間、東武東上線の「ときわ台」駅を最寄り駅とするアパートに住んだ。入学直後は隣町、前野町の兄のアパートに居候をし、落ち着いてから常盤台町に越した。確か近所の花屋のリヤカー(荷車)を借りた。

階下がパンや菓子、飲み物など売る住居付きの店で、2階に数部屋があり、裏の路地(画像左手、手前の建物が嘗ての魚屋裏)に面した玄関(魚屋の植物に壁伝いに接する当時を残す唯一のモノ)から入って階段を上った木造アパートの廊下の先の一番手前の6畳一間に半畳の台所付き、月一万二千円の部屋であった。但し、トイレは共用で、外階段を上った靴脱ぎ場の作りが悪く戸をしめられずに開け放たれているせいでそれに続く廊下は埃だらけ、友人も土足のまま廊下を歩いてくる始末。それに物干し台が靴脱ぎ場から外に広がっていたが、いつもパン屋の洗濯物で占領されていた。或る朝、隣の東洋大生の山岳部部員仲間連中が寝袋でこの物干し台一面に寝ているのに驚愕したこともあった。
風呂は歩いて10分程の銭湯に通い、コインランドリーで洗濯をし、乾燥させ、銭湯前の果物屋でいつも八朔や夏蜜柑を買ってはその日のうちに半ネット分を平らげた。
アパートの両隣は魚屋と靴屋で、靴屋さんの親仁さんが大家の親戚とかで大家代わり、毎月の家賃を届ける代わりに、郵便物を部屋のドアの隙間から投げ入れたり電話を取り次いでもらった。表通りに面した店先はパッとしないが、行き来は裏庭伝いだった。靴屋の親仁さんには若夫婦と二人の可愛い孫娘の家族が同居していた。
表通りの並びに細貝というスーパーがあり、そこの閉店時間間近で値引きされるお惣菜や、アパート隣の魚屋のシメサバや干物を買って、アパートの廊下に充満する煙を気にしつつ調理した。キャベツの千切りにマヨネーズと醤油をかけて、よく食べた。週一の家庭教師宅での食事がご馳走で滅法美味かった年もあった。塾の講師も経験し、奨学金も成績が良かったせいで十分もらえたが、末期とはいえ過激派集団による内ゲバの時期でもありサークルにも入らず本を読むだけの日々だった。

ここで、学部から大学院、そして社学の助手までの11年間。助手の途中から職住接近とばかりに大学近くの神田川沿いに立つコンクリート造りの2部屋に台所、ユニットバス付アパートに越した。謂わば出世である。なのに何故こんな夢を見続けるのか。

この11年間に階下のパン屋は夜逃げをして娘の家庭教師月謝代を貰い損ね、隣部屋の東洋大生は山で遭難死し、奥の母子家庭の男の子は障害児で歩行が大変だった。突き当たりの部屋には近くの印刷会社に勤務する男性が住んでいて時々恋人が訪ねて来ていたが、ある日親が現れ修羅場。そして、田園調布を模して駅から扇型状に設計されたというお屋敷街や駅前の銀行周辺で何度か警察に職務質問を受けたり、夜中じゅう起きて窓を開け放ってジャズをかけながら勉強しては、朝方に駅に向かい反対に通学してくる某女子大やその付属女子校生の群れを過剰に意識していたこの私。人生の多くをこのアパートで経験したからなのか。

この7月12日のこと、学部教務の「営業」の仕事として、前野町にあるS高校で模擬講義をすることになり、これを機に25年ぶりにしてこのアパートを訪ねた。
夢にも出てくる駅やそのロータリーもそこからの道順も正確に記憶していた。アパート付近には郵便局も病院もあった。自意識過剰の私が朝の光のなかでカチカチになり駅に向かった大通りもそのままだ。その通りからアパートの(裏)玄関がある路地に回って目にしたのは玄関だけが残る更地(画像、赤いコーン。奥に路地から入る玄関が見える。隣は当時魚屋だったビル)だった。
表通り右隣のビルは嘗ての魚屋さん、働き物で親切な魚屋夫婦は健在だろうか。左隣の建物は嘗ての靴屋さんと、多分、呉服屋さん。コンクリート製のアパートのようだ。あの大家代わりの親仁さん家族は他所に移り住んだのだろうか。通りの先端にあったスーパーは別な名前に変わっていた。小さなロータリーと信用金庫だけが残っている。
その日以降、もう常盤台の夢を見ていない。諸君は、完成しないゼミ論文を夢みるのだろうか。

この9月半ばで2年間の学部教務主任の任期を終えます。
ご存知の通り、大学は昨年の6月に学生不祥事事件が発覚し、社会からの指弾を浴びることとなり、卒業生の皆さんにも大変な心配を掛けました。事件で逮捕された社学生はいませんでしたが、学生担当教務主任の役職上、大学の不祥事調査検討委員会の一員となり原因追求と対応策の立案に1年間会議漬けの日々を送りました。
従来、大学は学生の自由を最大限認めて、例えば8年間掛けて卒業するのもよしとしてきました。慶応義塾が成績不振学生は進級させず、即刻親を呼び出し、問題があれば付属関係機関を案内するのと対照的です。早稲田は、親にすら成績を通知しませんでした。学生の判断を信じ、互いに学びあい成長するのを見守る、と言えば聞こえは良いのですが、1学部で700人から1,000人の新入生を迎える中で肌理細やかな対応は不可能だったのでしょう。
確かに勉強には強くないけれど義理人情に厚く、不正を黙って見過ごせず、嫌がる仕事や交渉も早稲田のヤツに任せればやってくれる、という評判が世間の通り相場でしょう。入試で挫折した者達が、全国から集った多様な者達から知らずに学んで意気に感じる中庸の大人に成長した、と私も早稲田OBとして友人たちを観てきました。

しかし、昨年の不祥事は学生の自由放任が最近ではとんでもない行動を招くことを見せつけるものでした。
学部でも、以前から仕掛けられていた(10年前にやはり教務にあった私が発案したのですが当時は否決された)「2年生からのゼミ」に加え、専任教員によるオフィス・アワーやクラス担任の実質化、例えば1年必修語学クラス長期欠席者や成績不振学生との面談対応、全学生の学費支払い者への成績通知、社学OBを招いての就職支援のためのキャリア講座、教職員に対するセクハラや心の悩み相談に関する講習会、などを次々と企画し実施してきました。

いまにして思えば、こうした他の学部にも引けをとらぬ取り組みの源泉は、私自身が早稲田で学び、社学のスタッフとなり、このゼミで諸君を指導しながら着想してきた経験にこそあります。
あなた方とゼミで過ごした経験が源泉でした。
無論、以前からも「ハマリ」との評判はありましたが、英国での2年間の留守でゼミ応募者数は激減し、学生の人気は低く、この二年間は教務優先でゼミ生には寂しい思いをさせてきましたので、大きなことは言えません。卒業生の諸君が研究室を訪ねてくれても、役職室に居て留守ばかりでもありました。2年間の留守を許してくれた学部、大学にはこの2年間で十分報いた、少なくとも学部の代表として胸を張れる仕事をしたと言えます。

いま、再び一教員として教育・研究の現場に復帰する日を間近にして、学生諸君、卒業生諸君と新たな次元で交わる機会をこうしてOG・OB会を通して持てることを、心より感謝し、新たにエネルギーを高めようと決意します。
ありがとう、皆さん。そして、特に本会設立に貢献してくれた諸氏との10回近い会合は今日の晴れ舞台までの久しぶりに楽しい助走でした。

2004年8月28日

上沼正明


ゼミ卒業生・現役生の諸君へ

ゼミOG・OB会(仮称)設立総会開催について

今年2月5日に開催したゼミ第15期生卒論発表会に、丁度出張で上京中の第6期宮本君が参加して就職活動心得を講演してくれました。彼の同期生達数人も集まり、発表会に続く馬場での打ち上げコンパに付き合ってくれて、現役ゼミ生との懇談から今回の総会準備会が設置されることになりました。一時は、その勢いをかって春に総会という案内も先行しましたが、「段取り9分」論の小生のストップで延期となり混乱を招いたようです。

元来、顔以外は地味で控えめな小生は、自身の政経学部生時代のOB会イメージから、OB会を敬遠していましたし、小生のゼミを選んでくれた学生を指導し社会に送り出すという、自分の分をわきまえた教師生活を過ごして来ました。
映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の映写技師のように、教え子には過去を振り返ることなく、各々の道で明日を夢みて進んでもらいたい、と思っていました。ただ「心の故郷」であれば良いのだ、と。

手探りで始まったゼミも第9期生の卒論が小野梓記念学術賞を授与され、ゼミ生指導法に自信を持ちました。そんな絶頂期にあって、今年(04年)5月16日に7回忌法要を営まれた、第7期生の椎名厚史君の突然の訃報は、痛恨の極みで、99年からの渡英も傷心を癒す旅だったとも今では思えます。

在英2年間の留守の影響は思いの外大きく、ゼミ応募者は減少し、やっと最近復調の兆しが見えて来ました。そんな変化に気づいてか、近年、卒業生が何かと心配してくれてゼミにも顔を出して、嘗ての梁山泊とも言えるゼミ時代を語り現役生を大いに驚かせてくれました。
ちいさくまとまった小生と現役生が、小さな殻を破るには卒業生との交流が一番だと気付かされました。卒業生諸氏も上沼ゼミでの機縁を各々の人生に役立ててくれるならば、小生の望外の喜びです。

今回、別紙の通り、有志世話人の皆さんとは大隈会館の楠亭で会う度に昔話に及んで議事進行を妨げましたが、やっと設立総会開催の運びとなりました。世話人の厚意に深く感謝するとともに、卒業生諸氏のご理解とご協力をお願いする次第です。

2004年7月吉日
早稲田大学社会科学部教授
上沼 正明

「ときわ台の夢」加筆(2013/07/07)

水玉模様のワンピースと「錦繍」

 記憶は、いつもそうであるように、きれぎれに思い出される。ふと、それも瞬間、立ち現われて消える。思い出しては、その断片がまた、新たにかかった靄をはらそうとする。
 どちらを先に観たのか、「泥の河」と「伽や子のために」、小栗康平監督に惹かれていた(いまも鬼子母神の参道を通る度に、深夜に水道の漏れを点検するシーンを思い出す)。「泥の河」のなかで、男が不在となる場面があり、それが「錦繍」の話と繋がっている、そんなヒントで読む それが、宮本輝の小説との出会いであったのか。それとも・・・
 読者のレビューにあったけど、夜を徹して読み切った。今となっては、珍しい書簡体の小説であること、涙が涸れたことぐらい、しか覚えていない、 
 そこで、加筆するに際して、アマゾンで検索した(あの頃はパソコンを使っていなかった)。ストーリーが紹介されているが、主人公の名前も覚えていない、まして離婚して偶然再会して、というくだりも思い出せない ただ、そういえば、主人公だったか、部屋の片隅でネズミのように小さくなって怯えた描写があった気がする・・・「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれない」
 常盤台の6畳一間のアパートで同じようになっていた自分 あの時の自分・・・
アパートには電話が無論なく、隣の大家さんの親戚筋の靴屋の叔父さん(長身で細身、眼鏡を掛け、眉間に皺を寄せて滅多に笑わないけど、時折り見せる笑顔が良かった)がしゃがれた大声で電話だよと呼んでくれ、急いで電話口まで駆け付けたっけ 誰からの電話だったんだろう・・・
 電話するときには、外の公衆電話を使った アパートの裏玄関に通じる路地の入口付近、大きな病院の脇に電話ボックスがあったような記憶。否、それ以前に、歩いて行ける隣町の前野町に兄がいたアパートを週末に訪ねては、帰りにその裏手の、昔ながらの屋根に特徴がある工場が連なる一角との際に、電話ボックスがあった。そこから毎週のように電話し、一方的に語った、 その一週間の出来事を、 ただ黙って聞いてくれる「あなた」に・・・
 ただそれだけの日々。小説とは違い劇的なことなど何もなかった。高校3年の頃、「あなた」が進学の準備で忙しくなり、入学後は連絡さえ暫く途絶えていた。都内で大学生活を始めた同級生の集まりで再会したのだろうか? その時に電話番号を知ったのだろうか? 記憶がない。・・・
 週末の電話に不在が多くなって暫くして、婚約したからと、最初で最後のデートとなった。中央線沿いだったろうか。修士課程在学中で生活力も将来もなく、祝福する外に無かったけど、論文に集中しなければならないというのに落ち込んだ。そんな時に小説を読んだのか? 違うかも知れない。 ただ、どこにでもころがっている失恋と別れの絶望から、「あなた」が幸せで、この空の下でともに呼吸して生きているだけで良しとしようと思った心の変化は記憶にあり、それが小説と似ているからそうに違いないと断片を繋いで空白を埋めているのかも知れない。そういう慾が許せない、というほど若くはなく、慾で見えなくなるあの頃の細部が愛おしく思えるようになった、というだけかもしれない。

うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ (良寛)

 小津の「東京物語」は有名ですが、アメリカの批評家クリス・フジワラの次の見方は、この頃の私を捕らえて離しません:

 登場人物の生の本質的要素は、それを生きている途中の当人が把握できるものではなく、おそらくはそれを見ている私たちにも理解できないものなのです。
 本質とは事後に初めて決まるものなので、人の生涯に起きることは手遅れなのです。
 人生の決定的に大事な瞬間にそれと気づかず、いつも手遅れに了解する、それが人生だと。記憶の断片を少しなりとも鮮明にしたいというのは、そういうことなんだろうと。