上沼 正明 96.2.25 ゼミ論文集に寄せて
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物ニ問フ もう百年も昔のこと、明治25(1892)年8月8日の炎暑の中、前田正名(1850―1921)は、これまでの挫折で味わった失意の深さを凌ぐ決意であったのだろう、麻布の自邸など財産の殆どを処分して芝公園増上寺山内の一院を連絡先とし家族を鎌倉に移り住まわせ、全国行脚の旅に出た。その出で立ちは、「脚絆に股引、わらじがけに尻からげ、簑と小さな行李を背負い蝙蝠傘という異様な風態であった」という(1)。 前田、43歳の時であった。 前田は、薩摩藩士で代々漢方医だった貧しい家に生まれ、長じて洋行を夢みるが、果たせず、藩費により長崎で語学と貿易実務を学び、また薩長密約に関わったりした後、「英和辞典」の編纂、販売で得た金でやっとフランスに留学する。そこで前田は、農業問題の専門家チッスランに師事し、「保護主義的立場、農業団体と農業教育の整備、農事改良」等の教えをうけ、またパリ万博出品に奔走し、大久保利通の引きで7年ぶりに帰国、大隈重信を補佐して頭角を現すが、大隈の後を襲った松方正義大蔵卿の所謂「松方財政」(紙幣整理と増税による超均衡財政、日銀設立)及び、地方産業からの税収でインフラを整備し移植近代工業を官営により育成しようとする「殖産興業策」によって、資本蓄積と市場を制約され自主的近代化を阻まれ長期停滞を余儀なくされることになった農村や在来産業の疲弊の実態(松方デフレ)を告発して、明治17(1884)年に農村や在来産業(前田の言う「町村経済」「固有工業」)の実態調査と組織化、及び低利融資によるそれらの再建策を第一とする「興業意見」構想を発表、しかし、容れられることなく非職となる。やがて農商務省次官に返り咲き、先の構想を具体化しようと「府県農事調査」を開始するが、その途中で今度は幼なじみの陸奥宗光農商務相に追われ辞任、部下も追放されて冒頭の全国行脚を決意したのであった。 前田は、まず全国各地の有力茶業者をくまなく訪ね茶業団体の結成を呼びかけたが、次第に地方産業全般にわたる農工商諸団体の組織運動を展開し、明治26〜28年には終に、日本茶業会、大日本農会、五二会(織物、陶器、銅器、漆器、製紙と彫刻、敷物の伝統的輸出工業品七業者の団体)、日本蚕糸会、日本貿易協会、大日本商工会、九州石炭同盟会、日本マッチ燐寸義会、大日本木蝋会、全国酒造業組合連合会、大日本畜産会の12団体を創設、発足させたのである。 なぜ前田は、かくも団体の組織運動に傾倒したのか?その理由は、例えば、茶業団体について前田は「居留地外商の思いのままに日本の輸出物産が買いたたかれている現状、十段階近い複雑な国内の仲買流通機構の不備を語り、ただちに全国の茶業者120万人の団結のもとに、海外需要の動向を見きわめて、製品を改良統一し、流通機構を近代化し、直輸出方式の確立によって正価を回復し、他方、政府に迫って各種機関・設備、法規を充実し、茶業を振興し茶業者の利益を守らねばならないと説い」ている。「そして、いま日本経済力の充実に寄与しているものは茶と生糸であって、この振興はひとり当業者の利益となるのみならず、列強先進国にせまる地歩を築くことになる」(2)と。事実、当時の日本の粗生産額や国家財政収入に占める在来産業の比重は大きく、就業人口でみても、明治期を通じて農林業を除くと9割が在来産業で、また、生糸と茶だけで輸出総額の4割に及んだ。 かくして、前田の地方産業組織運動は、一旦は実を結び、各種の法整備も実現させる力となったのだが、歴史の基底では、結局、明治政府の政策過程から帰結した移植近代産業育成策が、地方産業を支配・系列下に置く所謂「経済の二重構造」という「日本資本主義の型」を形成・定着させ、加えて、諸団体の内紛や前田の借財もあって、三たび四たびの失意の時を迎えることになる。「春去リ秋過ギテ、時我レヲ待タズ」。無論、それにもめげることなく、前田は各地の町村是運動(農村計画運動)に力を注ぎ、支持者を得、また指導者を育てたのである。前田は、生涯、「物ニ問ヒ物ニ言ハスル手段」を講ずることを主張して実行し、大正10(1921)年、72歳で没した。 ところで、嗚呼、この私にスタイルといえるものがあるのだろうか?不惑の歳に決めた立ち襟の木綿のシャツとコーデュロイのジャケット、それとあの大風呂敷と水筒と手拭いのほかに…。
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モーニング・ティーの味 住専国会が連日メディアを賑わせている。要するに、「母」体銀行が住専という「子」を自分の不良債権のゴミ箱として利用して切り捨てておいて、これに農協系金融機関を世話したのが真相で、銀行も官僚も政治家もみな無能・無責任ぶりを露呈した。そして、金融のみならず年金、介護、命の安全といった暮らしの基本的な分野でも同じことがいえる。こんな状況にあって一体どんなスタイルが、どうすれば可能だというのだろうか?バブル前、「日本的経営」を讃美していた同じ経営学者・評論家が今度は米国式のリストラやリエンジニアリングを喧伝する。かくして、7、80年代のオイルや円高の危機に流行した「英国衰退論」のように日本の長期衰退論がいま囁かれ現実味を増していく。 だが、川北稔が主張するように、真の問題は、衰退や没落なんかではなく「成熟期以降の経済」のあり方と我々の生き方にこそある(3)。 川北が紹介しているイギリス経済史家W.D.ルービンステインの議論によれば、イギリスは、工業を最大のよりどころにしたことは一度もなく、19cの半ばまでは、伝統的な大地主で経済的・社会的に圧倒的な支配階級となった「ジェントルマン」階級が、次いで、やはり「ジェントルマン」としての生活様式(不労所得、地代・金利生活者、反工業的価値観、教養や趣味の重視、アマチュアリズムの誇り、家父長的情緒主義)を維持し、その価値観を引き継いだシティの金融資本家と、医師や弁護士のほか、帝国各地に展開した軍人・官僚などの「プロフェッション」が社会の中核となっていったのであり、この19c末〜20c初頭における第三次産業及び帝国植民地への重点移行現象が、近代のイギリス経済を「工業経済」と捉え、また「鉱・工業生産」統計をもって一国の経済状態の指標とする二重の過ちによって、「イギリス衰退」論という過大評価を招いたのだという。そして、ルービンステインの議論を通して川北は、最近もある週刊誌が特集を組んでいるごとく、乗馬、ゴルフ、テニスなどのスポーツに、庭園作りに、旅行に、と生活をエンジョイする(4)「ジェントルマンの理想」を持たない日本人には、工業生産の「衰退」を甘受し得る、どのような理念があるのかと反問する。 これを「ジェントルマン資本主義」論と呼ぶのだが、この議論の背景にはI.ウオーラステインの「近代世界システム」論があると川北はいう。「近代世界システム」とは、16cに西ヨーロッパを中核として成立したグローバルな分業体制で、「中核」西ヨーロッパは、自由な賃労働を基礎として、工業生産に重点をおき、従属的な「周辺」ラテンアメリカ・東ヨーロッパから、銀や砂糖や穀物、材木などの食糧・原材料を輸入するかたちで、世界を構造化し、他方、「周辺」地域は、食糧・原材料の生産にあたって、黒人奴隷や農奴のような「非自由」労働力の利用を余儀なくされた。そして、16c以降の近代史は、このシステムが、ロシアやトルコ、その他アジア、内陸アフリカなど世界の残りの地域を次々と自己の内部に取り込んでいく過程だとする。この議論からすれば、先のイギリス経済史観は以下のように補強される。 16、17cのエリザベス一世時代に、人口が増加し、食糧・原料・エネルギーのすべてが依存した国内の植物性生産物が枯渇してエコロジカルな「全般的危機」を招いたが、そこからの脱出に断然効果があったのは、「商業革命」であり大英帝国の成立であった。即ち、アジア、アフリカ、アメリカ、との取引の開始である。そして、その後に「産業革命」による素材転換(草地、穀物、木材、馬→鉄、蒸気機関)が、あるいは、非ヨーロッパ世界からの輸入品を国内で生産する輸入代替産業の確立としての「産業革命」が、起きたのである。つまり、大英帝国は工業化の産物ではなく、大英帝国こそが産業革命の前提であった。そして、非ヨーロッパ世界からの砂糖、タバコ、綿布こそがイギリス人の生活を一変させ、我々日本人が幕末より憧れ続ける近代イギリスの生活文化を成立せしめたのであった。そうなのだ。宗教が説く禁欲などではなく、温かい紅茶と砂糖の朝食が、工場労働者の生産性を高めたのだ。無論、ロンドンの憧れの生活を「ロンドン製」として田舎に普及させ、交通基盤やインフラへの膨大な出費を惜しむことなく行い工業化を助けたのも、ルービンスタインのいうジェントルマンが果たした役割であった。また、17、18cの英仏の世界商業主導権をめぐる争いでイギリスが勝ちそのヘゲモニーが確立したのも、わが国の戦後史学が説いてきた両国の毛織物工業の「生産力」「生産関係」の差なんかではなく、大量の戦費調達力を可能にしたイギリス「財政革命」(国債引受機関としての東インド会社、南海会社、イングランド銀行の設立)や、国債の買い手としての、産業資本家(毛織物製造業者)ではなくてジェントルマン、プロフェッション、カリブ海砂糖プランテーションの不在プランター及び嘗てのヘゲモンで余剰資本の投資先を探していたオランダ人らの存在があったからこそとなる。 だからこそ、J.M.ケインズは、プロフェションに味方して、金利生活者の安楽死を説き、そして、資本の社会化、共同体化を構想し、金やドルにリンクしない、従ってドルを持たない貧乏国もIMFによって配分される権利を持つ人工的世界通貨「バンコール」を作ることを主張したのである(5)。そして、不確実で不可逆的な時間の相の下、「期待」に基づいて創造的決断を行う行為を重視し、従って新古典派総合の「均衡」概念と政策論へと回収されるのを断固拒否するケインズ・ファンダメンタリストの一人に、若き院生の頃の私が研究したG.L.S.シャックルがいた。 川北の書に戻れば、彼はその最後を次のように結んでいる。驚異的な経済成長率だけで「アジアの世紀」を言うのであれば、それは、「近代世界システム」の中心がアジアへ移動したという点でシステムの拡大と一層の完成を意味するに過ぎない。だから、欧米とは異なる固有の価値観や生き方の現出(例えば、自然への眼差し)を可能にする経済社会を目指さなければ駄目なのだ、と。
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人生は映画よりもっと困難なものだ 前田が農工商の調和的発展を目指していたフランスでチッスランに出会ったことが、「物ニ問ヒ物ニ言ハスル手段」を講じることを彼の生涯の信念とさせ、イギリスが非ヨーロッパ世界と出会ったことが、イギリスの世界に「輸出」し得る生活文化を成立せしめたように、「外部」や「他者」との出会いがスタイルを生み出す。 そういえば、生誕100年を迎えた映画こそ、出会いがなくては始まらない。私の好きなジュゼッペ・トルナトーレ監督、エンニオ・モリコーネ音楽の「ニュー・シネマ・パラダイス」にも、出会いと再会がある。兵役で金曜にローマへ発つトトにエレナは、「木曜に映画館で待って。5時のバスで行くわ。愛しているわ」と約束するが、二階の映写室から臨む広場の停留所にエレナは姿を見せない。一年後、兵役を解かれ除隊して村に戻ったトトは海岸で、再会したアルフレード(フィリップ・ノワレ)に語る。
[トト]兵士と王女の話(バルコニーの下で100日待てば兵士のものになるとの約束)を覚えている?兵士が待たなかった訳が分かったよ。あと一晩で王女は彼のものだ。でも王女が約束を破ったら絶望的だ。彼は死ぬだろう。99日でやめれば王女は自分を待ってたと思い続けられる。 そして、ローマへ発つ日、ジャンカルド駅でトトにこう言う。「自分のすることを愛せ、子供の時、映写室を愛したように」。しかし、エレナはあの日、遅れたけれど、エレナを探しに出かけたトトと入れ違いに映画館に来て、アルフレードに伝言を頼み、更にフイルムの検査証の裏に連絡先を書き残していた。アルフレードの訃報を知らせる母親の電話で30年ぶりに戻ったトト(ジャック・ペラン)は、オリジナル版では街で偶然エレナそっくりの娘を見かけ母親のエレナ(ブリジッド・フォセー)を探し当て再会する。あの海岸で。
[エレナ]あなたにも明かさないつもりだったわ。翌日、トトは、取り壊されて街の駐車場となる映画館に舞い戻り、あられもない姿で探す。
…66年、67年、68年。どこだ?どこにある?「白鯨」、「引き出しの中の夢」、「挑戦」、「野生の道」、「妄執」、「さすらい」トトは、「さすらい」の埃だらけでひからびた30年前の検査証の裏にエレナのメモをやっと見つける。そうだった!あの日、広場に停まったバスからエレナが降りてこないシーンの次に、このミケランジェロ・アントニオーニ監督作品の「本日上映」のポスターが映しだされていた。劇場版ではテレビにおされたパラダイス館の客入りの悪さを物語るカットだと思っていた。
「サルヴァトーレ… ごめんなさい。事情はあとで話します。大変だったの、今夜母とトスカーナへ発ちます。引っ越します。あなただけを愛してます、他の人とは一緒になりません、誓います。友人の住所です、ここに手紙を下さい。私を捨てないで。さよなら。あなたのエレナ」 トルナトーレ監督は新作「明日を夢見て」を、トトのジャック・ペランは「リュミエールの子供たち」を制作した。そして、序でに、先日、「アジア映画の文体を作りたい」と母校でも講演した小栗康平は「眠る男」を撮った。
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ゼミのウィンドウ だから、そう、だから、スタイルとは、うれしくもあり、悲しくもある。他でもあり得たこの世界、予測しがたい別々の独立の流れが、偶然、出会い形をなし形を変えていく。やがて、うれしくもなし、悲しくもなし、となる。まるで、政策科学の今年度最終講義で触れたコーエンらの「ゴミ箱」モデル(「人々は、まず問題を定義し、可能な代替的解決案を列挙し、それらが問題をどれだけよく解決しうるかを評価し、最善の解決案を選択する、といったような合理的モデルに代表される論理的手順に従って進むわけではない。むしろ、解決案と問題とは選択状況における別々の流れとしてゴミ箱の中で同等な地位を占める。選択状況における問題、解決案、参加者の殆ど独立の流れが偶然に出会いそれらの特定の組み合わせから可能な場合にのみ、人々は問題の解決に取り組むのである。」(6) )や、それを発展させたキングダンの「政策の流れとそれらが合流する窓」のモデルのようだ、と気づいた君、するどいね。でも、スタイルは、戦略である。 さて、我々の出会いは、一体どんなスタイルをそれぞれにもたらしたのだろうか?それは、ここに収められた各々の文章や創意工夫にみちた表現が、余すところなく物語るのに相違あるまい。心して紐解かねばならない。
(1) 祖田修『前田正名』吉川弘文館、昭和48年、p.162。以下の議論はこの書に負っている。[ret.] |