在外研究雑感

ロンドン大学バークベック・カレッジのメイン・ビルディング前

早稲田大学在外研究制度を取得し、1999年4月から英国ロンドン大学Birkbeck Collegeを受け入れ機関として2年間滞在しました。以下は、『社会科学部報』No.41(2002年春号)に寄稿した「海外研修報告」の字数オーバーの元原稿です。

Mind the Gap

GAPのロゴを見かけると、ロンドンの地下鉄ノーザン・ラインの車内アナウスを思い出す。あれから早や1年が過ぎようとしているのに、未だにGapに戸惑っているのに気づく。玉手箱を開けもしないのに、周りが茶髪になったのに似て。
ここキャンパスに限っても、ドアを支えていると、前から後ろから次々と無言で通り抜ける。エレベータや廊下で目があっても無表情、目礼など望むべくもなし。教室脇で携帯で大声で話し、廊下にジベタリアンで通行を邪魔する。仲間以外は石ころか。歩きタバコも平然。
グローバルなんてのたまう前に、礼節を教えるべし。他人を思いやる心なくして、なんの学問かと公共政策を講ずる身として思うが、皆が利己的でも秩序が可能というのが社会科学のご宣託。

百聞は一見に如かず

なにも英国社会に強い思い入れや期待感があった訳ではない。
初めてBirkbeck Collegeの学部スタッフに会いにGower St.10番を訪問した時のこと。
インターフォンで名乗ると自動で開錠する音。それっと、日本式に手前に引き、開かずにタイムアウト。何度も同じ間違いをして赤面した。譬えると、そんな英国経験が多かった。
だが、諺は正しかったとも思う。
銀行口座を開くのに苦労したが、口座を持たない人を郵便局やスーパーでよく見かけた。
週一回発行の地元紙に、地区の冬の老人死数の統計を発見して驚いた。調べたら、断熱材の無い住宅で死ぬのだと。ビンゴ仲間が訪ねてゴミに埋もれて孤独死していたのを発見し、その事後処理をする地区の行政職員の姿をテレビで映していた。政府も老人に冬の暖房費補助を増額する。
白にブルーで低速の電気自動車によるミルク配達は牧歌的。だが、ドアの牛乳瓶数は無事の合図とか。
地区の一般医に予約しても診察は10日後、症状が改善しないと専門医への紹介状をもらい予約を更に待つ。手術にも何ヶ月もWaiting Listがある。何度もキャンセルされたり、待つ間に心臓病で死亡した例が報道されたりと、国民保険制度は悪評。
米国の制度の模倣や私企業参入で注目される教育制度も、私立と公立の格差は無論、一部の成功例の陰にその他大勢の構図。建物や名前を変えて「悪い」生徒を放校し厄介払いする。
製造業は衰退し、ロンドンばかり好景気という「南北格差」。地方には箱モノばかり。
鉄道は毎年大事故。難民虐めと人種差別に若者の犯罪。繁華街には監視カメラが一杯。
踊るはニュー・レイバーの「言語」ばかり(ノーマン・フェアクロフ)。

無論、だから日本の方がましというのでは毛頭ない。文脈から切り離して一面だけを論ずる事ほど我が社学の伝統から遠いものはない。

カレッジのこと

社学のもう一つの伝統である社会人教育で、Birkbeck Collegeはロンドン大学の中で、また英国全体でも有名なカレッジである。
バークベック・カレッジのエムブレム 冒頭の地下鉄ではGoodge St.が最寄駅だが、H・ポッターで有名な北部へのターミナル、King's Cross駅から歩くことが出来る。目と鼻の先にSt.Pancras駅。入口にパブ、Shireがある。地名の語尾について県を表わすが、ここでは看板に描かれた荷役農耕馬の意。序に、同名の出版社刊行の『ロンドン・プラーク探し』を携帯するとよい。湾曲したレンガ造りのG.Scott作の壮麗な旧駅ホテルに圧倒される。真向かいがこの地区Camdenの市庁舎。隣が96年に移築された大英図書館。中庭にはW.Blakeのイメージに拠る「ニュートン像」。そこから少し歩くとEuston駅に出る。
セント・パンクラス駅と旧駅ホテル その真向いにFrends' House(クウェーカー教本部)があり、裏手からロンドン大学のキャンパスが広がる。
この地区カムデンは昔から移民を迎えて来た。
初期にはユグノーやアイルランド人。特に後者は、運河と鉄道の建設夫としてスラム街を形成。19世紀にはイタリア人が、1930年代にはドイツからユダヤ人が、近年ではキプロス、バングラディッシュ、カリブ海地域や中国からの移民、と続く。地区の学校で使われる言語は140。
カレッジのメインビルディング内のレリーフ 1823年、ヨークシャーのQuaker教徒の息子George Birkbeckが仲間達とStrand St.の居酒屋に集まって、ロンドン初の労働者教育機関を設立したのが今日のカレッジの前身(ストランド通りは、トラファルガー広場へ通じ、テムズ川沿いに走る。半円のAldwych通りが交わる辺りにKing's Collegeが、半円の弧に垂直なKingswayにLSEがある)。
ストランド通りのキングス・カレッジとサマセット・ハウス 28年には彼等は、Oxbridge以外では初の、また国教反対者、カソリック、ユダヤ人、無神論者を受け入れる大学UCLを創立。これに貴族階級や教会が対抗してKing's Collegeを創り、英国議会が間に入ってロンドン大学を設けて入試や学位発行を公平に管理させた。 UCLのGower通りの壁面には、R.Trevithickによる蒸気機関車初運転の地を示すプラークや、近くにはB.Shaw、Darwin、Keynes、Bloomsburyグループのプラークが一杯目に留まる。ハムステッドヒース麓にあるオーウェルの旧住居お世話になった学部は、G.オーウェル伝の著者B.Clickが創設した。

こうした歴史は学問の世界を等身大に感じさせてくれる。

ヴォランタリー・アソシエーション

英国には至る所に有志や慈善運動家達が始めたアソシエーションがある。
大手ガス会社に身売りしたが、自動車運転者の団体AAはその典型で、道路の安全対策や宿泊施設網で活躍した会員の互助的な組織だった。
ヒース・エクステンションからガーデン・サバーブを望む ロンドンで住んだフラットの近くには、膨大なHampstead Heath公園の北辺地を鉄道敷設に伴う開発から守り労働者に質の良い住宅を供給しようと1907年にH.Barnettが創めたGarden Suburbの組織があり、 UnwinやParkerが設計建設した建物と街並みを保護しコミュニティを運営している。
雪景色のハムステッド・ガーデン・サバーブ 子供達の通った日本人学校があるEaling地区には、BrenthamというHowerdやMorrisの影響を受けて建設された、1901年から続く六百世帯の民主的コミュニティが存続する。
前出のHampstead Heathでは、Kenwood House周辺をthe National Trustが管理するが、この運動はイングランド北部のCumbria地方でB.Potterが始めたもの。TrustとYouth Hostelの会員となって、夏休みに彼の地を訪問し、芸術と労働運動の父、J.Ruskinの館から湖一帯の眺望を楽しんだ。
クロイド川沿いのニュー・ラナーク村を背後に 更に北上し、産業革命と生協運動の発祥の地の一つであるNew Lanark村のR.Owenの世界に浸り、帰路にIron BridgeやQuater Bank Millで当時の労働者の生活を想像した。
産業革命発祥のセバン渓谷に架かるアイアン・ブリッジ その年のクリスマス前に、何十年かの大洪水の被害を受けたヨークを僅かな小康状態の間に訪ね、廃墟の僧院や城壁、鉄道博物館などを訪れたが、泊まったY.Hostelの隣りが、ココア貿易とチョコレート生産で財をなし労働者の住宅供給や福祉に力を注いだJ.Rowntreeの財団本部で、ホステルの敷地はこの一家が寄附したものと知って驚いた。ヨーク市内の洪水隣りの広大な庭園にポツンとこじんまりと建つ屋敷が、カレッジのPC教室からインターネットでいつも訪れ、また出版物を注文していたあの財団本部だったとは!Quaker教徒である為に、商工業者としてしか立身出世出来ない一族の歴史の地を踏み、ロンドンとヨークの遠くて近い因縁を感じた。
帰国直前のこと。民間資金を導入する公共部門改革が、宣伝される資金投入量の割りに成功しないのに気付いてか、労働党政権は「社会的資本」を唱導するR.Putnam教授を米国から招待した。
昔、トクヴィルは米国の民主主義の隆盛の秘密を、種々の自発的結社にみたが、パットナムはイタリアの地方分権後の政治的・経済的地域格差を、結社が醸成する社会的資本の多寡に求める実証研究を経て、近年の米国社会での社会資本の凋落を示し注目を集めたのである。
わがカレッジのP.Hirstは英国のアソシエーションの伝統を重んじ、もっと過激な権限と財源の地方分権を主張する。ここから、C.Croachなどの産業地域論(ローカルな集合的競争財)はすぐそこ。

帰国を告げると友人は、洪水、列車事故、口蹄疫病のない生活に戻るんだね、と言った。ところで、わがキャンパスに社会的資本はあるのだろうか。

ロンドン便り


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