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社学14号館
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号館の北側に位置する研究室から、赤い屋根組みの図書館越しに池袋方面を望む。真ん中の白い建物は、サンシャイン。
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東側のエレベーターホールの窓から望む。懐かしい1号館、3号館のエンジ色の屋根の上に大隈講堂の時計。画像にはないが、更に北側には、目白台の教会のカテドラルを見ることが出来る。時折、見物にきた学生カップルの嬌声がうるさい。
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水稲荷神社と甘泉園 江戸時代は徳川三卿の一つ清水家の下屋敷、そして奥州相馬家の邸となったところで、南斜面と湧水を巧みに取り入れた池泉回遊式庭園になっている。(『ブルーガイドニッポンα217 東京街歩きガイド』実業の日本社、2000年)
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甘泉園から水稲荷神社に戻る。神社の表参道入口の案内板に、大隈公が当時日々参拝したという「北野神社」への言及を見つけ、2004年新年に参拝した。護国寺と同様に、神社の奥の入口の一つに早稲田大学銘入りの鳥居がある道理に気付いた(北野神社の近くに富塚古墳があり、戸塚の町名の由来だとの案内板もある)。神社前には、太田道灌の駒繋ぎと伝承の木がある。
![]() 大隈公が日々参拝した北野神社
グランド坂下の海産物店
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面影橋と東京染ものがたり博物館
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面影橋を渡った川沿いの歩道を右手に数分歩くと富田染工芸の工房に出会う。「東京染めものがたり博物館」は、手前の近代的ビルの地下階。畳み部屋にパネルや染め道具、製品と展示され、詳しく説明を聞くことも出来る。 徳川家康によって幕府が開かれると、江戸は多くの人口を抱える世界的な大都市になりました。人々が日常着る着物は(ママ)、武士の裃に代表される小紋染や中近東から渡来した更紗などを染める染色業者が多数登場し、特に神田や浅草に居を定めたのでした。これは、当時染色に必要な良質の水が豊富に使えたためでした。助手時代に近辺の神田川沿いに住み、見上げる物干し台から布を干している風景を見た覚えがあり、博物館の人に今見かけなくなったがと聞くと、昭和34年の河川浄化法(条例)で川での洗いは禁止され、以降は浴衣屋さんが洗って干すのみで、そのお店も今年(2001年)8月に店じまいして残るは干し台のみと、教えてくれた。今はイベントとして川での洗い作業をやるが、落合浄水場の薬品のせいで洗うとゴワゴワになって商品にならない、のだとも。良きものは消え去るのみ。 工房の隣には、木造の趣のある二階家があり、いつもは門を閉じていて、「八雲荘」とだけ見える。3月末から4月始めの桜の時期に、門を開き、1階に着物など展示し、2階への急な階段を上がると、お茶を頂きながら神田川の桜を間近に鑑賞できるカフェとなる。
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山吹の里 新宿区山吹町から西方の甘泉園の一帯を通称。太田道灌が鷹狩に出かけて雨に会い農家の若い娘に蓑をかりようとした時ヤマブキをひとえだ差し出された故事に因む。のちになって「七重八重、花は咲けど山吹の、みの(実)ひとつだに無きぞ悲しき」という古歌に懸けたものと教えられ無学を恥じて和歌の勉強を始める。・・・江戸中期の18世紀前半に成立の伝承。無学を恥じて学ぶとは、この大学の地に良く似合う。
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南蔵院 梅やヤマブキの花が美しい寺だ。山吹ノ里弁財天の碑、彰義隊の首塚、ニ子山、花籠ら力士の墓もあるが、円朝の「乳房榎」ゆかりの寺でもある。(『ブルーガイドニッポンα217 東京街歩きガイド』実業の日本社、2000年)
高田砂利場村の金乗院 雑司ヶ谷音羽町の西側は、なだらかな大地が、江戸川に沿って長く伸びている。/古くは関口村と呼び、殆どが畑地であったが、やがて町屋が許されて、町方と代官の両支配になった。/武家屋敷も多く、大名の下屋敷もある。/が、総じて、閑静なものであった。/高台から見渡すと、早稲田の村や、高田の森を望み、春は菜の花に蓮華草の咲く一面の花畑が、夏は蛍見物、秋は虫の音を訊ね、紅葉を愛で、冬は枯野に積もる雪の風情と、四季それぞれの景望は、よく文人の筆になった。/その関口駒井町の西に、目白不動、新長谷寺の末寺で、寺地は千七百九十二坪、御本尊の不動明王は弘法大師の作といわれ、参詣人は少なくない。ここから、この地一帯が目白台と呼ばれる。大名屋敷の跡に、講談社や目白台の大学、山縣有朋の椿山荘が、そして川沿いの低地に染物業者や下請製紙会社、印刷会社が、そして、大隈の専門学校が配置される構図が良くわかる。閑話休題。しかし、目白不動堂は昭和時代に廃寺となって、御本尊がここ金乗院に移ってきた。当院から頂いた「しおり」から抜粋しよう。 目白不動堂は東豊山浄滝院新長谷寺と号し、金乗院より東へ約1キロメートルほどの早稲田方面を望む高台、文京区関口駒井町にあったが、昭和20年5月25日の戦災にて焼失したため、金乗院に合併し、本尊目白不動明王を金乗院に移した。・・・寛永年中、三代将軍家光公は特に本尊不動明王に目白の号を贈り、江戸五街道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとし、以後は目白不動明王と称することになった。またそのあたり一帯を目白台と呼ぶこととなった。元禄年中には五代将軍綱吉公および同母桂昌院の篤い帰依を受け、・・・・。
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目白不動明王の御開帳大護摩供は、年に数回行われ、一度素知らぬ顔で参列したことがある。
鎌倉街道の宿坂 中世の頃“宿坂の関”と呼ばれる所が、このあたりにあった。・・・鎌倉街道の道筋にあった。いまから300年程前このあたりには樹木が生い茂り昼なお暗くくらやみの坂道として狐狸が飛び跳ねて通行人を化かした。 ![]()
都電荒川線
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鬼子母神 入谷の鬼子母神と並ぶ子育て信仰のメッカで、重量感のある本堂は寛永6(1666)年に建立された江戸期の代表的な建造物だ。神木の子育てイチョウは、樹齢600年といわれる大樹で、紅葉と落葉のカーペットがみごとだから晩秋に訪ねてみたい。
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ススキミミズクを買うと、その由来書きがついていた。近くに住む貧しい母子があって、病の母の回復を、貧しくて医者にもかかれず鬼子母神に祈るしかない娘が、願掛けした満願の日に、夢の中でのお告げで、辺り一面のススキからミミズク人形を作って売ったところ、忽ち売れて薬代もでき、母親も平癒したという伝説。二百五十年前にはもう江戸の玩具となっていたそうな。
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神社の境内では、四季折々に祝いの行事があり、また、時々、骨董市や唐十郎の赤テントの芝居が見られる。2004年2月には、節分の準備に遭遇した。
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法明寺
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墓地入り口の右手、塀沿いに細い路地を進めば、池袋駅東口の南側に位置する東通り商店街に出合う。しかし、いまは方明寺から引き返して、門入り口から右手に音羽屋、鬼子母神を見ながら、左手の路地を進む。両側に東京音楽大学校舎。その校舎の間を更に進むと、都電線路に出合う直前に、右側に大鳥神社がある。
大鳥神社
いつもは鬼子母神ほどの賑わいではないが、年の瀬の酉の市では、夜遅くまで人が集まり煌々と明かりが灯り、売り声が響く。 ![]()
都立雑司ヶ谷霊園 もと雑司ヶ谷旭出町墓地を東京府が引き継ぎ、明治7年9月1日雑司ヶ谷墓地として開設したものである。その後明治22年東京市に移管、昭和10年に「雑司ヶ谷霊園」と改め現在に至っている。・・・
大隈公墓所@護国寺
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護国寺の門前の音羽通りには、宗門を示す高校や講談社はじめ出版社が、江戸川橋まで続く。尚、「護国寺は元和元年(1681)徳川5代将軍綱吉の生母、桂昌院の発願により建立。銅板葺き単層入母屋造りの真言宗豊山派の大本山。左手にある書院造りの月光院は桃山時代のもの」とガイド本(BLUE GUIDE『東京街歩きガイド』実業之日本社)にある。
旧雑司ヶ谷町と薬罐(夜寒)坂、幽霊坂
不忍通りに戻り、横断歩道の反対側に、坂道の路地が見える。これが薬罐(夜寒)坂で、左右を嘗て武家屋敷と矢場に挟まれた野犬や狐(野干)が出る淋しい坂だったというが、大町桂月や窪田空穂など文人が住んだところでもある。そちらへは入らずに、不忍通りを上り、目白通りの合流点まで歩く。
途中、ここ文京区目白台町が、昭和41年まで雑司ヶ谷町であったという案内版がある。 延享3年(1746)、町名がつけられた。町名の由来にはいろいろある。/昔、小日向金剛寺(法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司料であった。また、建武のころ(1334〜36)、南朝の雑士(雑事をつかさどる)柳下若狭などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。(『新篇武蔵風土記』)文京区不忍通りが目白通りと合流する直前に幽霊坂があり、日本女子大学の境の塀伝いに目白通りへショートカットする。目印もなく、多くある他の坂とは違って勾配もなく意外。幽霊坂という名は余所にもあるという。
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稀に見る雁(清戸坂から清戸道、目白坂へ) 文京区目白台二郵便局から不忍通りを挟んだ斜向い側の狭い路地(自販機に隠れて町名由来板あり)に入り、少し歩くと階段。上って突当り左手に先生のお宅がある(前述の薬罐(夜寒)坂を上って最初の路地を右手に入る行き方もある)。文京区観光案内ホームページにはこうある。 歌人・国文学者として知られる窪田空穂(1877〜1967)の旧居跡。長い生涯の文筆活動は多彩で、短歌、小説、随筆、歌論、評釈等に活躍の場は広範囲にわたる。坪内逍遥の推薦で母校早稲田大学に勤務し、講師、教授として多くの人を育てた。ご近所迷惑にならぬよう、足早に路地を目白通りへと抜ける。目白台の名所(次回)を見ながら椿山荘の先を本通り(新目白坂)から離れて、音羽通りの江戸川橋方面に下りて行く。関口台小学校や浄土宗のお寺などがある長い下り坂。大泉寺の先にここが目白坂との説明板があった。 西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、この辺りから音羽谷の底地へ急斜面で下るようになる。
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あの不忍通りの清戸坂から清戸道(現・目白通り、解説文中のお百姓は早朝野菜を運び、帰りに下肥(おわい)を運んだのでおわい道とも)を経て、目白坂へ。そして、金乗院に移った目白不動尊が元あった関口村の新長谷寺がこの近辺にあったのだ。窪田空穂先生のお導きに感謝。
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旧町名(高田老松町から関口台町へ) 明治5年、高田四ツ谷町の内と高田四ツ谷下町を併せ、さらに旧土井能登守(越前大野藩6万石)、小笠原信濃守(播磨安志藩1万石)、細川越中守(肥後熊本藩54万石)の下屋敷と武家地を合併した。そして町名を高田老松町とした。この消防署と元細川領の和敬塾の間にもう一つの幽霊坂があり、下ると新江戸川公園へと出る。 目白通りをさらに江戸川方面に進むと歩道に蕉雨園(旧田中光顕邸)への案内板。胸突坂に出る直前に蕉雨園と永青文庫が左右にある。永青文庫の門前には文京区教育委員会の説明があって、上記の由来に納得し、広大さに驚く。 この地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、新江戸公園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。・・・・胸突坂を下らずに目白通りに戻ると、講談社野間記念館、東京カテドラル、そして椿山荘(イメージは街路樹の椿)。
椿山荘の先の目白坂。関口台小学校の手前に「幸神社」がありその傍に、目白台は昭和41年まで関口台町と称していたとの案内板。 もと、関口村の内で畑地であった。元和2年(1682)町屋を開き、享保5年(1720)から町奉行支配となった。町名は、関口村の高台(目白台地)にあったので、関口台町と称えたといわれる。「つばきやま」については椿山荘のホームページでも言及されている。 林泉回遊式庭園の椿山荘は明治の元勲山県有朋公爵の命名によるものです。椿山荘周辺は古来より椿の自生する景勝の地として知られ、南北朝時代の頃から「つばきやま」と呼ばれておりました。江戸時代の浮世絵版画家安藤広重の作品『名所江戸百景』でも取り上げられています。(Garden&History より)椿も面白いが、やっと判った「関口村」の由来。
神田上水と水神社 大洗堰の由来碑について かつて、この地には神田上水の堰があり、古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の改修工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(芭蕉庵)は四百m程上流に復元されています。神田上水取水口の石柱 井の頭池を源流とするわが国最初の神田上水は、関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸上屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下を樋で神田、日本橋方面に給水した。
公園を更に川沿いに進むと、関口芭蕉園。脇の胸突坂を上れば目白台の永青文庫、蕉雨園に出る。胸突坂の左手にひっそりと水神社がある。お殿様や著名人よりどんなにか大事なのだろう、ご近所の人が前を通る時、立ち止まって礼拝した。ご近所ばかりではない。昔は、大洗堰から水を供給された遠くからの参拝者があったという。水神社の案内板にはこう記されている。 『江戸砂子』には、「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とある。
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![]() 駒塚橋を渡れば先に新目白通り。大学はすぐそこ。渡らずに神社前を更に道路沿いに車に注意して行き、神田川から離れて車道沿いを進むと、右手に旧細川藩下屋敷跡の新江戸川公園に辿りつく。道路沿いの塀の向うが公園。昔、院生時代、院生の待遇改善を求める要求の密談に書院を借りたことがあった。
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五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 むかし芭蕉の翁、この地に逍遥して景致を愛せしとて、夕可庵馬光といえる俳人、この庵中に翁の木像を設け、常に俳諧を興行せしゆえ、龍隠庵の名は唱えずして、芭蕉庵と呼び、詩歌の好きな人まで各集会せしなり。いまは賓客を辞して、花木深き禅房となれり。(『江戸黄檗禅刹記』より) 五月雨塚 「さみだれの松」の奥にある。表面に「芭蕉翁の墓 夕可庵馬光書」、裏面に「祖翁瀬田のはしの吟詠を以て是を建てさみだれ塚と称す。寛延三年八月十二日 夕可庵門生園露什酒芬路」と刻してある。けだし翁はさみだれの松を背景とする、一面の青々とした早稲田田圃を琵琶湖に見立て、その風光を愛したので、後の俳人たちが遺吟「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の真蹟を、遺骨の代わりにここに埋めて墓を築いたもので、芭蕉翁関東七墓の一つである。(関口芭蕉庵案内記より)
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岸の桜に
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昭和40年(1965)までは江戸川と呼ばれた神田川は、江戸時代は御留川といわれ禁漁の川だったという。また、現在は神田川の両岸には桜並木のウォーキングコースが整備されて、桜が辺りを明るく眩しくさえして華やかだが、面影橋より下流に明治期より桜並木があって有名だったと、文京区教育委員会の紹介本にはある。 明治十七年頃旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土堤に桜の木を植えた。それがもとで、石切橋から大曲まで、約五百メートルの両岸に吉野桜・八重桜が多い時で241本。桜の名所となり新小金井といわれ夜桜見物の舟も出て賑わった。洪水が多く、護岸工事が大正二年から実施され、桜は切られた。
氷川神社の夏越祓 夏越祓「なごしのはらい」 ![]() 茅輪くぐり(ちのわくぐり)足をジタバタさせ縺れながら潜りましたが、足と唱えは一緒でなくても良いのでしょうか。
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