政策科学研究T、U@社学研

夕方、北門より見上げた14号館;2005年度から昼夜開講となりました。
Always, now under Construction.
このページは、大学院社会科学研究科の講義課目「政策科学研究」の講義内容を公開するものです。担当教員が英国での在外研究から帰国した2001年度から、このページを開始します。最初は、講義要項に準じた内容ですが、徐々に受講者にページ作りに参加してもらい、受講者による授業内容の確認や履修希望者への案内などに役立てたいと企画しています。(上沼)
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【講義の要約】(以下は2001年度の講義要項から)
従来、まるで真空の中で、ある基準からより良いとされる政策を考案する研究が多い。
しかし、取組む問題がなぜ「問題」と認識され、幾つもある選択肢の中でなぜあるものが「選択」され「実行」され、食い違う「評価」を受けることになるのか、に十分注意されて来なかった。
この講義では、こうした側面を「政策過程」を軸に分析する視点へと受講者を誘い、また、政策の有効性に影響を持つ「ソーシャル・キャピタル」論を考察する。
【授業内容】(方針・目標・内容)
複雑化する現代社会の政策課題は、例えば産業・エネルギーの構造転換、国土・都市計画、環境保全、交通安全、高齢社会化対策などに見られるように、重層的で複合的な諸要因と種々のアクター間の相互作用とによって規定されてきている。これらの課題に対する各国・社会が採る公共政策の問題定義・政策立案・実行・評価の一連のプロセス(「政策過程」)を分析して、各国・社会が工夫し編み出してきた諸制度や合意形成のルール、問題解決の手法などを究明するとともに、政策過程の特徴と差異を解明し、更にそれらを歴史的に形成して来た各社会・時代の組織原理と統合構造を探り、今後のありうべき原理と政策論について考察する。
ところで、米本昌平氏は日本の政策決定の特徴を医者と患者の関係にたとえて「構造的パターナリズム」と看破して「プルーラリズム」への転換を、すなわち父権主義的決定から自律的決定への転換を唱えた。
そして、そのためには研究活動を大学や職業研究者の独占から一般人に解放することが必要だと言う。なぜなら、「その第一の理由は、成熟した民主主義社会では、社会的合意の手法として、個々人が自らの手で調査や研究を行える道を確保しておくことは、死活的に重要だからである。二つめは、われわれが充実した余暇活動を獲得するためである。少なからぬ人が、生涯教育と称してガラクタを詰め込まれるより、重要な課題について研究することの面白さと難しさを楽しみたいと思っているはずである。」と。
そう言えば、政策科学の創設者の一人、H.ラズウェルもこの学問の目標を民主主義の成熟に置いたのである。
【授業計画】(日程・進め方)
テキストを輪読しながら、また、関連するウェッブ・ページをチェックしつつ、要点を確認してディスカションする。
【教科書・参考書】
テキストは、英国の大学院でも使われているParsons, W. Public Policy,Elgar,1995,ロバート・パットナムのテキスト関連のホームページとOECD各国執筆者陣による編著、及び政策決定のゴミ箱モデルに関する古典的テキスト。
【成績評価】
半年間の講義が、受講者各々の研究テーマや論文の展開に、どれほど寄与出来るか(出来ないなら、何故か)を、最後に自己評価してもらい、平常点に加味する。
【履修・登録条件】
授業への遅刻・欠席届けや実施授業の確認、次回授業の予定など、授業のMoodleを使いますので、利用できるようにしておいて下さい。また、授業で関連サイトをダウンロードするなどノートPCを利用します。
【関連ホームページURL】
【英文サイトを読むためのWeb英語辞書サイト(一例)】
2024年度秋学期メンバーによるリポート(敬称略;本人申請表記;提出順)

メンバー集合写真(2025年01月22日、上沼撮影。 掲載許諾あり。一部、プロジェクタの光映りあり)
- 市川比呂也
【授業の感想】
政策科学Tはシラバスを読んで、記載された参考書などに興味があったので履修をした。2024年度秋学期はRefWorksの使い方、ゴミ箱モデル、政策の窓モデルについて学んだ。
まずRefWorksについては、もっと早く知っておきたかったというのが感想である。実際に使ってみると、それまでの書籍を見て著者名や題名を書いていくことが必要なくなったので、とても楽だった。
ゴミ箱モデルで取り上げられたコカコーラのケースは、40年前の留学時に大学院でのケース・スタディで扱われた教材だった。当時はケースをこなすのに必死で、その後コカコーラのブランド戦略がどうなったのかまでは追っていなかったので、大変参考になった。
政策の窓モデルについては、自分がNPOの所属だったので、NPO法の立法化に至る経緯について基礎知識を得ることができた。
【自分の研究との関連:アメリカ憲法修正25条の制定との関連で】
社学研の科目履修生になったのは、50年前に大学で履修したアメリカ政治の「復習」のためであった。来年度も科目等履修生を継続すると6年目の在籍となるが、再来年度に修士課程で修士論文を書いてみようかと考え始めている。
この授業で学んだゴミ箱モデル・政策の窓モデルの分析はアメリカ憲法修正25条の制定の経緯に当てはめられると思っている。アメリカ合衆国憲法修正第25条は、アメリカ大統領が死亡・辞任などで空席になった際に副大統領が昇格する(第1項)、副大統領が空席になった際は大統領が後任を指名し、上下両院それぞれ過半数の賛成で就任する(第2項)、大統領自らがその職務執行をできなくなったと判断した場合、副大統領がその職務を代行する(第3項)、大統領の職務執行について、副大統領と過半数の閣僚が、その職務を執行できないと判断した場合、副大統領がその職務を代行する(第4項)と規定したものである。1965年7月に第89期連邦議会が上下両院の各々2/3の賛成で発議し、1967年2月に3/4の州(38州)が批准して発効した。
アメリカ憲法には、アメリカ大統領が死亡・辞任・職務執行不能になった場合は副大統領が職務を執行すること、大統領と副大統領がともに空席になった場合、連邦議会は職務継承者を決める法律を制定する、との規定(第2章、第1条、第6項)が存在する。しかしこの規定は曖昧であったことから、過去に数多くの問題が発生した経緯がある。
1841年にハリソン大統領が死亡した際、タイラー副大統領が「昇格」して大統領になったのか、それとも副大統領のまま大統領職務代行者となったのかが問題になった。1881年にガーフィルド大統領が銃撃を受け11週間後に死亡した際にはアーサー副大統領が昇格するまで大統領権限を誰が執行していたか疑義が生じた。1919年にウィルソン大統領が脳卒中を発症した際には重篤な病状がマーシャル副大統領や閣僚を含め1920年まで伏せられ、政策の執行が実質的に停滞していたと言われている。近年ではフランクリン・ローズベルト大統領(FDR)の4期目のトルーマン副大統領は大統領選挙前までFDRとほとんど面識がなく、FDRの死後に初めてマンハッタン計画(原爆の製造)を知らされた。複数回入院して健康問題をかかえていたアイゼンハワー大統領が職務を執行できるかどうかの判断をニクソン副大統領に委ねる趣旨の書簡を交わすなど、憲法の規定が曖昧な大統領職務執行の不能による大統領職の空白を未然に防止する取り組みがなされた。このように憲法や法律によらない正副大統領間の書簡はその後も、GWブッシュ大統領とチェイニー副大統領の間でも取り交わされるなど現在でも続いている。
憲法修正第25条が成立するまでは、大統領への昇格による副大統領の空席が起きた場合は次の大統領選挙までその空席を埋められなかった。大統領継承順位第一位の副大統領職は、大統領への昇格(9回)、副大統領の死亡(7回)、辞任(2回)の合計18回、通算37年9ヶ月間にわたり空席だった。
アメリカ副大統領の空席問題は長期間にわたり注目されていなかった。その主な理由は、副大統領の最も重要な役割が大統領の死亡による昇格以外になかったことにある。憲法上の副大統領の役割は儀礼的に上院議長を兼務することと「大統領の死亡を待つ」ことだけだと揶揄されていた。アメリカの独立時に開催された憲法制定会議で、「建国の父」たちは、副大統領の役割があまりにも少ないため、副大統領の給与は兼任する上院議長席に座っている時間による歩合制でいいのではないか、という議論さえあった。
健康問題をかかえていたアイゼンハワーの後任となったケネディ大統領は就任時の年齢が43歳と最も若かったため、大統領の継承問題の注目度が下がった時期もあった。しかし1963年のケネディが暗殺されたことにより、副大統領の昇格後の空席問題が注目されることとなった。ジョンソンの大統領の昇格から次の大統領選挙までの1年余の間、副大統領が空席だったことである。当時の憲法上の規定は副大統領が空席の場合、次の大統領選挙で副大統領が決まるまで大統領継承順位筆頭者は連邦議会下院議長、その次は連邦議会上院仮議長となっていた。
大統領は毎年1月に上下両院合同議会の場で一般教書演説を行う。アメリカ政治で重要な演説でテレビでも報道される重要なイベントである。ジョンソン大統領は1964年の一般教書演説の際、背後の議長席に座る72歳の下院議長と86歳の上院仮議長を従えて演説をした。ジョンソンに万一のことがあった場合に大統領職を継承する可能性があるふたりの議員の高齢問題がクローズアップされることになった。両議員とも連邦議会の重鎮ではあったが、国をまとめる大統領として適任なのか、という議論が人々の間でおこったのである。このとき「政策の窓」が開いたのではないだろうか。
1841年のタイラー副大統領の大統領への昇格は、副大統領の空席問題としてではなく昇格した副大統領は大統領になったのか、単に大統領代行になったのかが注目された。1881年のアーサー副大統領の昇格はその前の11週間、瀕死の状態にあった大統領の職務が執行されず国家が機能不全になっていたことが問題になった。同様の政治的空白は1919年から1920年にかけてウィルソン大統領の病状の隠蔽の際にも起こっていた。タイラー、アーサー両副大統領の昇格、マーシャル副大統領が大統領代行になることもなかったこれらの出来事の時は「政策の窓」は開かなかったのである。
これらの問題が発生した際、各種の法律の制定や知恵(例えばアイゼンハワーとニクソンの間で取り交わされた書簡)がゴミ箱モデルに投げ込まれていき、一部は解決されていった。しかし副大統領の空席問題はゴミ箱に残った状態だった。そして、この副大統領の空席問題は、1964年のジョンソン大統領の連邦議会での一般教書演説と演説の際に後ろの議長席に座る高齢の大統領継承順位最上位者の映像をきっかけに注目を集め、憲法修正第25条の成立のための「政策の窓」が開いたといえる。
政策科学Tで学んだゴミ箱モデル、政策の窓モデルは自分が再来年度修士課程に進学したら修士論文のひとつの視点になると思っている。キングダンやその他、紹介された文献も含め学びの多い授業をありがとうございました。
- 藤井 海
【自分の研究との関連】
私は、市民参加の実利について研究をしている。市民参加は、規範的な意義や価値に関する理解は多く、具体的な実利についての理論は十分に展開されていない(できていない。)
私は国内基礎自治体を中心に「デジタル技術を活用した市民参加」を促進する取り組みを行っているが、現場の世界でも同様に、市民参加の取り組みは、(行政職員からすると)具体的なメリットをイメージすることが難しく、むしろ市民を行政の取り組みを参加させることに抵抗感のあるケースが多い印象を受ける。そうした状況下においても、コロナ禍を過ぎたあたりから、デジタル技術を活用して市民参加に取り組みたいという自治体が増えてきた。
肌感覚ではあるが、コロナ禍以前は、「デジタル」「市民参加」と言う言葉を聞いただけでも顔を顰めていた自治体が、ここ数年で評価を変える(=良い反応を示すようになってきている)ようになったと感じる。コロナを契機として急速に進められてきた自治体DXの文脈と、地域課題が多様化複雑化する現代における自治体の役割に対する再認識が同時に起こっているからではないかと考えていたが、あくまで仮説でしかなかったため、どのような条件でこのような転換が起こっているのか、あるいは「転換」ではなく、一過性の流行のようなものなのか、など、考えを巡らしていたところ、課題の優先順位がどのような条件で入れ替わり、アジェンダとして据えられているのかを一定の論理性を持って説明するモデル(ゴミ箱モデル・政策の窓モデル)を知り、何かヒントを得られそうだと考えた。
説明会や公聴会、パブリックコメントなど市民参加の手法が様々ある中で、それらには多くの課題があり、市民参加の形骸化も喧伝される中、自治体のDX(デジタルトランスフォーメーション)が急速に進み、かつ行政と市民が、行政サービスの供給者と受益者という関係ではなく、協働関係にあるという位置付けに対する認識が拡大するなど、様々な条件が重なり合って、市民参加にデジタル技術を活用することの重要性も浮上しているのではないかと考えている。こうした思考を巡らす一つのツールとして、二つのモデルが便利に使えると考えている。
【修士論文のテーマ】
市民参加には、アーンスタインの「市民参加のはしご」やfungの「デモクラシーキューブ」で類型化されている。これらの市民参加形態が、政策形成プロセスにそれぞれどのような性質を付与するのか、を研究したいと考えている。例えば、市民参加には、「情報提供」「意見聴取」「意見反映」などの形態がある。そして先行研究によれば市民参加は、「参加者同士の学習効果」「行政と市民の信頼構築」「成果に対する受容性の向上」「成果の革新性の向上」などの効果があるという。それぞれの形態がどのような効果をもたらすのか、もたらさないのか、研究したい。
- 江口 佳奈
【授業の感想】
大きく3つある。
ひとつは、RefWorksをワードに入れて、参考文献リストの体裁を揃えて自動的に出せるようにしたことである。元々RefWorksは利用していたが、そのようなことまでできるとは知らなかった。ワードにRefEorksをプラグインするのは、なかなかスムーズにいかなかったが、先生をはじめとしてクラスの皆さんも色々原因を考えていただいてなんとか入れることができた。ありがとうございました。これでリストを多くの時間をかけずに作成することができる。嬉しい収穫である。
二つめは、授業の講義部分についての感想である。この講義を通して政策形成にはさまざまなモデルが存在することを知った。それまで出来上がった政策、すなわち結果だけを見ていたが、政策形成の過程を見ることで何か新たな発見があるのではないかと思った。ただし、私自身そもそも政策について明るくなく、初めて接する概念や用語も多かったため、100%を理解できたかは正直怪しいのではないだろうか。ただし、そのような私を察してくださってか先生は例を用いつつ、大変噛み砕いてご説明くださり、大枠は理解できたつもりでいる。
三つめは、最後に研究発表の機会をくださったこと、そして皆さん真摯に聞いてくださりアドバイスをしてくださったことがとても嬉しかった。感謝しています。アドバイスを生かして修士論文作成を引き続き頑張っていきます。
【自分の研究との関連】
私は、1990年代を境にして公立の美術館がどのように変化し、今日の公立の美術館にどのような影響を及ぼしているのかに関心があり、研究を進めている。公立の美術館の在り方の契機となったのが1990年代となるが、この時代に日本全体を通してその在り方に変化が訪れる出来事が起きた。それは1991年のバブル経済崩壊である。その後財政難が訪れる中で、公立の美術館においても新自由主義の波は押し寄せ、新公共経営(NPM)という形で運営が変化していく。
具体的な話をいきなりしてしまったが、要するに当たり前ではあるが、公立の美術館も国の政策と不可分に結びついているということを言いたい。そのため、公立の美術館を考える上で「政策」は切っても切り離せない存在であると考えている。
今回の授業を通して、政策決定の在り方として様々なものがあるものの、概ね政策とは紋切り型のプロセスを経て決定されるものではなく、様々な思惑と偶然が重なった結果として決定するということを知った。何か政策を考える際に、その政策が決定する何かお決まりのプロセスがあると考えていた節があった。しかしそうではないということである。
これから政策について詳細に学ばなければならない場面が来るだろうと思っているが、その際に柔軟に、かつ様々な観点から検討することができるのではないかと期待している。そうした視点を持ち、自分の研究に取り組んでいきたい。
【修士論文のテーマ】
上でも述べたように、公立の美術館について研究している。美術館を巡る研究は現在では大きく2つに大別できるのではないかと考えている。一つは博物館学・博物館研究と呼ばれるものである。これは学芸員資格を取るための学問やミュージアム(注)そのものの歴史を扱う学問と私は認識している。どちらかというとミュージアムの内部的な領域での学問である。二つめは対照的に、ミュージアムを外部との関係、例えば政治・経済・社会の動きから論じたものである。私は後者に関心があり、研究をしている。
上で述べた内容と被る部分はあるが、具体的に私はどのような研究に取り組んでいるのかを簡単に述べていく。特に公立の美術館においては、1991年代のバブル経済崩壊を経て大きくその在り方が変化していったということがある。それまでのいわゆる「ハコモノ」としての「設置の時代」から「運営の時代」へ変化していき、どのように経営をして集客するかが重要な時代となっていった。
それに伴い、公立の美術館においても基本的な機能である「アートを鑑賞する場」に加えてより社会と協働していくという役割が期待されるようになってきた。現在ではより社会に開いた美術館となるべく、多くの公立の美術館が様々な取り組みを展開している。
私の研究では、ある公立の美術館を一例として挙げつつ、1990年代に起きた変化がどのように現在の状況に影響を及ぼしているのかを検討していきたいと考えている。
(注)ミュージアムの概念には博物館、美術館が含まれている。
2024年度春学期メンバーによるリポート(敬称略;本人申請表記)(at random)

メンバー集合写真(2024年07月17日、教室にて上沼撮影。掲載の許諾あり。)
- 西川修平さん
【授業の感想】
RefWorksの利用法とソーシャルキャピタル論の概要について理解を深めることができた。上沼先生とSCと環境問題(特に温暖化対策)に関して有意義な議論を交わすことができた。
【自分の研究との関連】
信頼・規範・ネットワークが国家関係やコミュニティー内にないことは、地球温暖化を含めた環境問題解決を阻害する大きな要因になりうるだろう。特に、互酬性の規範は、短期的な利他行動を通して長期的な互恵関係を築くことを促すため、最も重要だといえるだろう。
私の研究分野であるボランタリークレジット(VC)においても、課題として信頼性と流動性のバランスが挙げられている。要は、Appleなどの大企業がクレジット創出事業に対し多額の金を払ったとしても、実際に削減を完全に管理できていなかったり、ほかのクレジット創出事業の近隣地域住民に、迷惑をかけていたことなど、事案が発覚する場合がある。その時、クレジットの信頼と流動性が損なわれるのである。もちろん、この対策として様々な国際NGOがクレジット創出・購入ルールを定め始めている。一方で、国内・地域内VCが実現するために、このような大掛かりなルールは必要であろうか。むしろその手続きコストとクレジット収入は釣り合うものなのであろうか。
これは、事例研究を行わなければならないが、私の構想としては、地域内でVCを行う際のモデルとしては、必ずしも国際的VCのモデルを踏襲する必要はなく、ある程度簡易的な削減量監視と地域循環や文化の未来世代への継承を基礎とした倫理観に基づく、自然資本の維持のための努力を称賛する表彰としての地域内VCがあり得るのではないかと考えている。そうすれば、互いに小さい費用で実現可能なVCが構築できる。この時重要なのが、農村内のネットワークと経営者や個人同士の信頼、将来日本社会の価値の維持に対する互酬性の規範であり、これらを満たす人々の便利な手段として地域内VCが実現する可能性がある。加えて、都市圏とのネットワークを形成できるとなお望ましい。
以上が、人間の互恵性やソーシャルキャピタルを利用したVCの実現性に関する考察である。一方で、このようなボランタリー(今後は義務的になるかもしれない)クレジットの取引を通して、どこまで自然を保護できるのかはは疑問が残る。SCは、あくまで共通の価値観や目的意識がある人々の中に生まれやすいものである。しかし、現代社会は、本質的に人間社会は自然それ自体を保存しようとしているのではなく、自然を加工したものを取得し続けたいという考え方である。つまり、環境負荷削減量を減らすことに対するクレジットを払うインセンティブを、ほとんどの人は基本的に持っていないのである。ゆえに、自然の再生力の限界を示さなければ、人間はこの価値を認識しにくく、対策を行っている人々でさえ、どの程度制限したり、貢献してくれる人に対して感謝の念を持てばよいのか理解しにくい。
この点において、人間の自己中心的で現役世代優先の価値観が変わるようなことが実現しない限り、人間が自然資本に価値をつけるためには、本来は再生力限界という資源量上限(温暖化で言えば炭素予算)から価格をつける必要があると少なくとも考えられるだろう。環境問題に詳しい学術界だけでなく、市民に脱炭素orVCのSCを形成するには、自然の危機を認識できる制度的な仕組みや社会的合意が求められるだろう。日本では、緑の党のような政党が育っていないことは、対策の遅れにつながっていく可能性もあると考える。
- 藤井 海さん
【授業の感想】
仕事柄「ソーシャルキャピタル」というワード自体にはいくらか出会う機会はある一方で、それが何であるかを具体的に捉えきれていませんでしたが、本講義のなかで、例えば、パットナムの研究について学ぶことで、現在では当たり前のように使われている「ソーシャルキャピタル」の概念や定義、そもそもなぜこうした概念が生まれたのか。といった源流について学ぶことができました。加えて、先行研究に触れるだけでなく、日本国内の事例にも触れることで、日本国内においてソーシャルキャピタルがどういった場面で立ち現れ、社会の中に組み込まれているのかという点についても学ぶことができました。ソーシャルキャピタルの概念や源流といったマクロな視点に加え、日本国内での個別事例などのミクロな視点の両方の観点からアプローチできたため、受講前と比べて格段と理解が進みました。
また、本講義の価値は、ソーシャルキャピタルについて学ぶことだけではなく、例えば、自身が今後研究活動をする上で、役に立つ基礎知識も合わせて学ぶことができます。あるいは、少人数のため教授と活発に議論ができたり、自分の専門ではない分野を専門とする同輩の存在など、より多くの学びを得る機会がありました。特に同輩の存在は大きく、ソーシャルキャピタルについて別の専門分野からアプローチを取ることで、全く異なる示唆や新しい観点を得られ、本講義の内容をより一層深い学びの機会へと昇華してくれた存在だと思っています。
【自分の研究との関連】
私は主に「市民参画」を自身の研究分野として据えています。パットナムの研究においても、民主主義に関する文脈でソーシャルキャピタルを扱っており、市民参画とソーシャルキャピタルは深く関連すると考えています。市民がまちや行政に対して積極的に働きかけ、行政と市民が協働する営みを広義に「市民参画」と言いますが、この営みが地域に根付くための重要な要素がソーシャルキャピタルであると考えています。市民同士が深く交流し、市民と行政が相互にコミュニケーションを取りながら、まち全体で信頼を形成することで、市民のまちや行政への関心も高まり、市民参画は活発になるのだろうと思います。民主主義を支える基盤の一つとしてのソーシャルキャピタルを、自身の研究の重要な観点の一つとしたいと思っています。
【修士論文のテーマ】
「市民参画は行政過程の中でどのように組み込まれるべきか。」「市民参画は行政にどのような価値をもたらすか」という疑問が私の修士論文の出発点です。これらの分野に関して、様々な先行研究が行われてきましたが、多くは市民参画の意義を規範的な価値の側面から評価しています。つまり”民主主義を維持するため”に市民参画は必要である。といった主張や結論が多く、市民参画が行政活動の中で具体的にどのような役に立ち、行政職員に対してどのような利点があるのか。といった視点では市民参画の重要性についてあまり語られていないのが実情です。よって、市民参画の具体的な利点や、行政活動における市民参画の有効的な活用方法について明らかにすることを目的として研究活動を進めたいと考えています。また、最近(2024年7月時点)の先行研究では、行政職員が市民参加を積極的に実施する要因として、行政職員の市民に対する信頼が大きく関連していることが一部の国で明らかとなっています。こうした観点も交え、市民参加に対する行政職員の態度、その態度を規定する要因についても研究できればと考えています。※「信頼」はソーシャルキャピタルを構成している要素の一つでもあるため、自身の修士課程においてもソーシャルキャピタルは一つの重要な視点となり得ると考えています。
2023年度秋期メンバーによるリポート(敬称略;本人申請表記)(at random)

集合写真(2024年1月17日教室にて上沼撮影:掲載許諾済み)
- 山口貞輔
【本講義before/afterの感想】
秋学期の政策科学Uでは大きく以下の3つについての学びを深めた。初めにRefWorksの使用について学習を行った。参考文献の情報整理はこれまでノートとペンを用いて行っていたが、講義以降そのノートはお役御免となってしまった。修士課程では学部在籍時よりも膨大な論文の読み込みとその整理、また作成資料への適切な引用が重要となる。RefWorksはその過程における無駄をなくし、効率性・正確性を高めることが出来る。手放しで褒め称えているが、それほど有効なツールであることを強調したいし、もうRefWorks無しで修士課程を乗り越えていける気はしない。
次に、講義では鹿毛(2004)による内閣府国民生活局の報告書の書評を通じた社会関係資本の基礎知識の学習を行った。また、バングラデッシュにおいてマイクロクレジット事業を展開するグラミン銀行の活動についても理解を深めた。特に上記2つの学習プロセスにおいては、社会関係資本の基礎知識およびそれを用いた事例紹介を、自身の研究および関心へとひきつけながら把握することに重点が置かれたことも印象深い。早稲田大学の社会科学研究科では学際性を重視しており、あるイシューに対して様々な専門領域を統合してアプローチすることで、新規性だけではなくより臨床性のある研究へと結びつけることは研究科の特徴とも言える。このような環境において研究テーマや専門領域の異なる学生同士が、社会関係資本を捉えた際にどのようにそれを把握するのかを、講義後に都度見比べることができたのは自分自身にとって非常に興味深い経験であった。
最後に前述したバングラデッシュのグラミン銀行について、同銀行が社会関係資本の基盤とする融資サービスを展開していること、また蓄積された社会関係資本により顧客がイノベーション創出を実現していることが非常に印象的であった。講義履修前もグラミン銀行については、少し話を聞いたことはあったものの、社会関係資本およびソーシャル・ビジネスの視点からの分析は初めてであった。農村における貧困という、所得や社会階層並びにジェンダーとも結びついた格差を乗り越えるため定期的に開催されるセンターでの情報交換による社会関係資本の蓄積は、融資を用いたビジネスを実践する際に新しい情報との遭遇およびビジネスが成功する確率を大いに高めたと言える。社会関係資本とイノベーション創出の関係は自身の研究テーマとも大きく関連するため、秋学期を通じて非常に有意義な時間を過ごすことが出来た。
【自分の研究との関連】
現在、「日本の地方創生事業へのSustainability Transition理論の適用」をテーマとする修士論文の執筆準備を進めている。人口動態の変化や気候変動といった外生条件の下で、日本の、特に地方社会はより持続可能な地域への社会移行が求められている。各地域において様々な事業が数十年単位で実施されており、政府もあるべき姿として様々なモデルを提示してきた。また、こういった先進事例の事後的な評価もこれまで研究の蓄積が行われてきた。一方で、そういったあるべき姿/ありたい姿へ、どうやって社会が移行するかという方法論の研究の蓄積は進んでいるとは言えない状況である。
次に、Sustainability Transition理論について、これは社会移行の理論モデルであり、マクロレベルの外生条件下で圧力を受ける持続可能と言えないメゾレベルの社会レジームに対して、マクロレベルのniche innovationが変革の社会潮流へと拡大し、ついには社会レジームの移行を達成すると説明している。社会がある状態からより持続可能な状態へと変革していくことを社会移行と呼んでいるのがSustainability Transition理論である。
この理論を応用して前述した研究の隙間を埋めるために、修士論文ではいくつかの地域事例を取り上げ、Sustainability Transition理論を適用して評価を行うことを計画している。そして、講義で取り扱った社会関係資本の考え方は自身の研究と大いに関連があると言える。バングラデッシュのグラミン銀行のマイクロクレジット事業においては、社会関係資本が蓄積された関係において、イノベーション創出のきっかけとなるような顧客同士の情報交換が行われた。バングラデッシュの事例は、それまで村内でビジネスを成功するための資金が不足していたことはもちろんであるが、顧客に対して村内だけでは得られなかった情報をセンターでの交流を通じて獲得できたことで、イノベーション創出へと結びついたことが推察される。これは、橋渡しの社会関係資本と言え、外部からの情報がいかにイノベーションを生み出したかということを分析する際に有効であろう。
一方で、日本のいくつかの地域事例を見ていくと、蓄積された社会関係資本がイノベーションの創出に対してネガティブに作用している可能性も指摘できる。これは、結合型の社会関係資本の効果が指摘でき、あるコミュニティにおける団結を強化し取り組みを前進させるように作用する一方で、外部人材や新しいアイデアを拒絶する方向へ作用すれば、イノベーションを引き起こすことは非常に難しいと言える。
加えて、日本の地域事例を参照すると、社会移行のための取り組みはマクロレベルの外生条件からうける圧力がきっかけとなる例が多くあることが指摘できる。人口動態の急激な変化や自然災害などがそれにあたる。先進事例と言われる地域を調査する際には、そういったショックが社会にきっかけを与えた時期のステークホルダー間の関係性を考慮することも重要である。それらを丁寧に把握していくことで、コミュニティ内外の社会関係資本の蓄積のプロセスや人間関係の相関図を作成することができ、ある地域での取り組みを、再現性を高めた状態で他地域に展開する際の助けとなるような研究になればと考えている。
- ジョルデン ファン ミン イー
【本講義before/afterの感想】
前期から続けて履修してきた政策科学Tは、自分の研究に非常に役立つ授業内容であり、特に「言葉の意味」と「行動経済学」についての学習は非常に興味深かったです。これらのテーマを通じて、政策形成や社会の動向において言葉や行動がどれほど重要であるかを理解することができました。
後期(政策科学II)になると、より刺激的な授業内容が提供され、特に印象に残ったのは「ソーシャル・キャピタル」と「ソーシャル・ビジネス」に関する授業でした。これらのキーワードを通じて、社会的なつながりや関係が持つ重要性や、ビジネスが社会的な課題に対処する方法について深く考えることができました。
授業の中で特に注目すべきポイントとして挙げられるのは、グラミン銀行に関する学習です。グラミン銀行は、少額融資を通じて貧困層に金融サービスを提供することで、社会的なインパクトを生む先進的な事例として取り上げられました。これを通じて、経済的な側面だけでなく、社会的な課題にもアプローチする新たなビジネスモデルの可能性について理解を深めることができました。
全体として、政策科学IやIIの授業は自身の研究に不可欠な知識を提供してくださるだけでなく、現代社会の様々な側面に対する理解を深める貴重な機会でした。今後もさらなる知識の獲得と、これらの学びを研究や実践に活かしていきたいと思います。
【自分の研究との関連】
元々は『東南アジアの森林開発や慣習土地利用をめぐる法的紛争』についての研究を行う予定でしたが、留学生活や留学経験を通じて、日本における環境保護の成功事例や神社などの文化的な場所に触れることで、日本の焼き畑に興味が湧きました。そこで、本講義で学んだ「行動経済学」や「ソーシャル・キャピタル」などの視点を活かして、日本とマレーシアの焼き畑について比較するという異なる分野に興味を持つようになりました。そして、この研究はどんな結論が出るかは重要ですが、両国の共通点と相違点を見つけることができれば、自分にとっては非常に貴重な財産になると確信しています。
マレーシアと日本の焼畑における「ソーシャル・キャピタル」と「行動経済学」の視点に焦点を当て、このアプローチを自分の研究で活かしてみたいと考えています。
- ソーシャル・キャピタルの視点から:
焼き畑は地域社会やコミュニティのつながりに影響を与える可能性があります。例えば、焼き畑を共同で行うことで地域住民の協力関係が形成され、これがソーシャル・キャピタルの構築に寄与する可能性があります。
地域社会が焼き畑を行う際には、情報の共有や協力が不可欠です。これはソーシャル・キャピタルの側面であり、信頼やネットワークを通じて形成される資本が、持続可能な焼き畑の実践において重要である可能性があります。
- 行動経済学の視点から:
焼き畑は、地域の資源利用や農業行動において様々な経済的要因が絡むため、行動経済学のアプローチが有益です。例えば、低コストで手に入るが短期的な利益しかもたらさない焼き畑が、持続可能性や長期的な利益を無視して行われる可能性があります。
行動経済学の理論を用いて、なぜ地域住民が焼き畑を選択するのか、その背後にある意思決定や認知的バイアスを理解することができます。これにより、効果的な政策や教育プログラムの提案が可能となります。
以上により、焼き畑に関するソーシャル・キャピタルと行動経済学の視点からの研究は、単なる環境問題だけでなく、地域社会や個々の行動に深く関与していることだと考えます。これらの視点を組み合わせることで、この研究には重要な意義があると思います。
社会問題を解決し、分析するための政策科学を学ぶ本講義は、非常に有益でした。この授業を履修することで、社会の課題に対処するための手法や理論を学び、今後の研究に大いに役立つと考えております。前期と後期の本講義を受講し、上沼先生からの研究に関する貴重なご意見やアドバイスをいただき、大変参考になりました。改めましてありがとうございました。
- CHAE HYEONSOOK
【授業の感想】
政策科学の授業を通じて、RefWorksの利用方法を学び、来年からの本格的な論文作成において非常に効率的なシステムであると感じました。同時に、ソーシャルキャピタルに関する授業では、社会的なつながりや信頼、コミュニティ内での協力関係に焦点を当て、これらが社会全体の結束力や資本を形成する重要性を理解しました。また、これらの概念がソーシャルビジネスやマクロ・ミクロ経済にどのように関連しているかにも興味が湧きました。
特に印象深いのは、バングラデシュのグラミン銀行の実例やその設立者であるユヌス氏に焦点を当てた授業でした。貧しい地域の村を訪れ、過去と現在にわたるインタビュー形式で行われた授業は、非常に臨場感がありました。グラミン銀行は、貧困層女性へのマイクロファイナンスを実施する際、既存の社会関係資本を活かしてグループを形成し、新たな社会関係資本を築くことで成功に結びついた事例でした。
開発プロジェクトとソーシャルキャピタルにおいては、プロジェクト活動中に信頼関係やネットワーク、規範などのソーシャルキャピタルを適切に構築することで、プロジェクト終了後も成果が持続的に機能する可能性があることが理解できました。政府の機能と「橋渡し型」ソーシャルキャピタルの関連性についても学び、異なるグループ間の連携が開発において重要であり、JICAなどの外部組織が「シナジー構築」のファシリテーターとして果たすべき役割が明確になりました。
要するに、行政と地域コミュニティの協力関係を強化するファシリテーターとして、主たるカウンターパートを現地行政とし、「公平性」「広域性」を確保しつつ、村人へのサービス提供を効果的に行うための能力向上が重要であることが理解できました。同時に、制度的な枠組みと実態が機能するような「認知的」ソーシャルキャピタルの育成・強化が求められているのが印象的でした。
最後に、授業前はソーシャルキャピタルの概念が社会的活動や事業連携、政府の政策とどのように関連しているか理解できなかったが、この授業を通じてその重要性を知り、私の研究に活かす有益な授業だと感じました。
【自分の研究との関連】
研究テーマである「国家均衡発展のための地方財政強化」において、財政とソーシャルキャピタル論との高い関連性を見いだします。これらの制度が提供する機会が、信頼、協力関係、情報共有、地域コミュニティのネットワーク形成などを強化する上で鍵となります。地方財政とソーシャル・キャピタルの関連性は特に重要で、地方レベルの財政政策が地域社会のソーシャル・キャピタルに与える影響は重要だと思います。
地方財政が影響を与える領域は広範で、教育、医療、文化、交通などのサービスや施設への投資が共同体の結束や相互信頼を生み出し、ソーシャル・キャピタルを形成します。経済活動の促進によっても連帯感や共同作業能力が向上し、ソーシャル・キャピタルが形成され、地域社会の経済的な発展に寄与します。地方財政がインフラ整備に資金を充てることで、公園やコミュニティセンターの整備が進み、交流や社会的なイベントが促進され、ソーシャル・キャピタルが育まれ、地域のインフラ整備に貢献します。
貧困対策や社会的な公正を考慮する場合、地方財政が果たす役割は尤もらしく、地域社会の連帯感向上やソーシャル・キャピタルの向上に寄与し、貧困対策と社会的な公正の実現に寄与します。地方自治体が協力関係を促進するプログラムやイニシアティブを支援することで、地域のコミュニティ組織やネットワークが発展し、ソーシャル・キャピタルが形成され、地域の協力関係にも寄与します。
つまり、地方財政とソーシャル・キャピタルは密接に結びついており、地域社会の発展や健全な社会関係の構築において、地方財政政策にソーシャル・キャピタルの視点を組み込むことが重要だと考えます。地域社会の発展や住民の関与を通じて、ソーシャルキャピタルの向上に寄与し、地域コミュニティの結束を強化し、持続可能な地域社会の構築に重要な要素となると考えています。
私は国民の希望に沿った財政政策を策定するため、ソーシャルキャピタル論をより活用し、研究テーマに組み込むことで、より良い成果を出せると信じています。最後に、いつも丁寧にご説明いただいた教授に感謝申し上げます。
2023年度春学期メンバーによるリポート(敬称略、提出順)

当日出席メンバーの記念写真@7月12日14−506教室
- ジョルデン ファン ミン イー
【授業の感想】
「政策科学」の授業は、初めて受講した科目でしたが、授業のシラバスを確認した際に、自分の研究に対して有益だと感じられ、積極的に受講を決めました。授業は少人数で行われ、この点が私にとって大きな魅力でした。少人数のクラスでは、先生や異なる研究指導の学生と一緒に自由自在にディスカッションができるため、自分の研究に関連するテーマについて深く掘り下げた上で、新たな視点やアイディアを得ることができました。
とくに、異なる研究分野の学生とのディスカッションは非常に刺激的でした。ほかの学生が持つ専門知識や経験に触れることで、自分の研究に対する新たな理解が生まれ、多角的視点から問題を分析する能力が向上しました。また、お互いの研究の違いにかかわらず、意見交換が自由であり、柔軟的発想が奨励される環境でした。そして、この授業においては、研究の意義や問題意識を明確にする重要性について学びました。問題設定の段階で慎重に取り組むことで、研究がより深い洞察をもたらすことがわかりました。さらに、政策の探し方に至るまでのステップをご丁寧に教えていただき、研究を展開する際の手法やアプローチについて理解を深めることができました。
そして、研究の過程で、挫折や課題に直面することがありましたが、授業の内容を通じて自分の研究に対する気づく能力や研究構成能力のノウハウを学びました。トライアンドエラーを経て研究を進めることで、後悔しないように努力する意欲が湧いてきました。研究は一筋縄ではいかないものですが、問題解決への意欲が強まり、課題を克服するための工夫を身につけることができました。
さらに、この授業を通じて、得た知識やスキルを自分の研究や社会貢献に活かしていくことが、私の目標となっています。今後も「政策科学」の授業で学んだ手法を応用し、より社会的な課題に向き合いながら研究を進めていきたいと考えています。また、ほかの研究分野との連携や協力により、より包括的な解決策を見つけ出すことにも取り組んでいきたいと望んでいます。
【自分の研究との関連】
- 「言葉の意味」
第2回の講義を通じて、「言葉の意味」は研究活動において重要な要素だと学びました。正確かつ明確なコミュニケーションを確保するためには、研究者は言葉の意味を正しく理解し、適切に用いる必要があります。研究論文や学術論文には専門用語が含まれることが多く、これらの意味を正確に把握することが研究の理解に欠かせません。また、文脈理解も重要であり、言葉の意味を正確に理解することで、情報の正確性を保ち、誤解を避けることができます。
研究活動の目的は、新たな知見を提供することだと考えられます。適切な言葉の意味を使い、研究成果を適切に記述することで、研究の価値や信頼性が高まります。さらに、文献レビューや研究背景の理解においても、ほかの研究者が使用した言葉の意味を正しく理解することが重要だと思われます。
以上により、言葉の意味を理解し、適切に使用することで、自分の研究成果をより広く理解してもらえるようになります。このように、言葉の意味は研究活動の基盤であり、正確なコミュニケーションと知識の拡充に寄与するじゅうような要素だと言えます。今後も、自分の研究において言葉の選択と使い方に注意を払い、質的研究を行うために「言葉の意味」に注目すべきです。
- 行動経済学
「行動経済学」という手法を自分の研究に導入すると、どのような変化が起こるのかあまり考えていませんでした。しかし、行動経済学の手法は、従来の経済学に比べて、より実証的な視点から人間の行動を理解するためのシールを提供します。経済学モデルだけではカバーし切れない合理性や非合理性の要素を考慮することで、より現実的で洞察に富んだ結果を導き出す可能性があると考えられます。
たとえば、私の研究テーマに関連して、東南アジアの森林焼却による環境破壊や気候変動の解決には、森林焼却を防止する効果的な対策が求められます。このような課題に対して、行動経済学の手法を研究活動に応用することは、新鮮で意義深いアプローチと言えるでしょう。
研究方法として、実地調査や実験手法を用いることで、東南アジア地域における森林焼却問題に対する洞察を深めることができます。とくに、農民や関係者とへのアンケート調査や行動実験を通じて、彼らの意思決定プロセスや行動パターンに関連する要因を明らかにすることができます。
総じて、行動経済学の手法を東南アジアの森林焼却問題に応用することで、新たな洞察をもたらすと同時に、持続可能な環境保護に向けた効果的な政策の提案が可能だと考えられます。地域の環境保全に向けた取り組みにおいて、行動経済学の知見を活用することは、重要な研究アプローチとなることが期待されます。
夏休み中に、研究のテーマをより正確に設定しつつ、行動経済学の手法をどのように活用できるかを検討してみたいと考えています。この手法が提供する洞察を利用し、森林焼却問題に対するより具体的な理解と解決策を模索してみたいです。これにより、行動経済学のアプローチは、環境保護に対する新たな展望を開き、より持続可能な環境保護政策を実現するためのカギとなることが期待されます。
【修士論文のテーマ】
私の修士論文のテーマは、「東南アジアの森林開発や慣習土地利用をめぐる法的紛争に関する研究」です。東南アジアのマレーシアやインドネシアにおいては、農業開発のための大規模な森林火災が日常茶飯事となっています。これにより、自然環境の汚染が進行し、先住民族やパーム油開発事業者との土地紛争が頻発しています。とくに、アブラヤシ農園開発は広大な土地を必要とし、先住民族やパーム油開発事業者の土地利用権に多大な影響を及ぼしています。このような森林焼却の一因として、焼き畑農業が指摘されていますが、これは伝統的な土地利用と密接に結びついており、法的な制約を設けることが困難と予想されます。
本研究の目的は、とくにマレーシアやインドネシアに焦点を当て、土地紛争の現状と課題を把握し、現行政策や慣習法との矛盾を浮き彫りにして、土地利用権を中心に解決方法を検討することです。この研究により、両国の政府は先住民族の住居を保障するために、パーム油開発事業者に焼き畑用の土地を提供するなど、土地利用の公正な取り決めを行うことが期待されます。さらに、土地登記制度の強化や適切な法的保護を通じて、先住民族やパーム油開発事業者の土地権利を守ることが可能となるでしょう。
本研究により、持続可能な土地利用や地域社会の調和を図るための政策を導き出し、東南アジアにおける土地紛争の解決に寄与すればと考えています。
- トメイカン
【履修の動機】
自分の専攻が社会科学ではないので、社会科学的な問題に直面したときの専門的な思考は不足している。私の研究テーマは、中国の司法分野における改革問題と、日本の司法改革が中国に与えた影響について、である。法律に関する知識に加えて、行政学的な思考にも取り組んでいると思う。 政治過程論のほかに、政策過程論の知識も加える必要があると思う。
【授業の感想】
毎週このクラスに出席し、クラスメイトや先生と問題を話し合うことで、自分の欠点に気づかされ、成長するきっかけになった。
このクラスに参加して、RefWorksの使い方を勉強した。以前はRefworksのことを全く知らなかったが、Refworksを使えば素早く参考文献リストを作成することができるので、論文を書く時間を大幅に短縮することができる。
リラックスして楽しく学べたことは、このクラスに対する一番の印象だ。クラスはそれほど大きくないので、履修生や先生と気軽にコミュニケーションをとり、自分の質問をしたり、クラスメイトの研究計画を聞いたりすることができる。自分の研究計画についてずっと考えていると、研究の範囲が限られてしまいます。例えば、司法改革に関する自分の研究以外の問題についてはほとんど何も知らない。だから、クラスメイトと自分の考えを共有することは、私にとって勉強になった。
【自分の研究との関連】〜「ゴミ箱理論」を学んで
私の研究テーマは、中国の司法分野の改革と、日本の司法改革が中国に与えた影響についてである。司法分野には、高度な専門性が求められるなど、独自の特殊性がある。しかし、中国の司法分野の特殊性から、司法機関である検察庁や判決権を持つ裁判所の参加だけでなく、政治法律委員会、つまり党や政府に関連する部門の参加も必要である。
ゴミ箱理論は、組織における複雑性と不確実性の側面を示唆し、意思決定は多くの場合、タイミング、参加者、問題、解決策のランダムな組み合わせに影響された結果であると主張する。そのため、実際の組織では、明確な論理性や合理性がないように見える意思決定が行われることもある。
司法改革の問題では、司法部門である裁判所や検察庁の参加に加え、政治法律委員会のような党組織や民間弁護士協会のような異なる主体の参加もある その一方で、理論と実践には相違があり、一見不合理な措置も実施された。 例えば、1990年3月6日、中国共産党中央委員会は中央政法委の回復を決定した。当時、党と政府の分離原則を掲げていた。中央委員会は、「政法委の回復後も、党と政府の機能分離の原則を実行するべきだ」と要求した。しかし、1994年、1995年と委員会の機能が拡大し、人員編制も拡大したため、実際には、委員会の機能は指導や調整にとどまらないことが多かった。
今後、研究を通じて、司法と政策に関する問題を探っていきたいと考えている。
- I.A.
【授業の感想】
政策科学論を専攻する学生として、政策科学に関する講義は非常に興味のある分野でした。修士論文にもつながる分野であるとも考えたため、このたびは履修しました。
講義の中で最も印象に残ったのは、RefWorksの利用解説と、ごみ箱モデルの解説でした。私自身、日常生活においても整理整頓が非常に苦手な性格なので、学部時代に卒業論文を執筆する際に意外と苦労を強いられたのは、参考文献や引用文献の整理でした。特に、自分で調べて論文を書く形式だったため、参考文献や参考サイトの整理は必須でしたが、ノートなどにメモで記録するのは性に合わず、全てPCで完結させていたため作業効率が大きく落ちました。しかし、RefWorksを利用すれば、参考文献をボタン一つでファイルにまとめることや、日付順・テーマ順などに分けることも非常に簡単で、参考文献関連の時間ロスを大幅に削ることができると思いました。
講義の後半では、政策科学のより踏み込んだ分野について学ぶことができました。様々な文献を読む機会が設けられ、丁寧な学習が行えました。中でもゴミ箱モデルの解説が印象的でした。元々学部時代も社会科学の講義を多く履修する機会があったため、ゴミ箱モデルについてはすでに耳にしたことはありましたが、実際にそれがどういうものなのかについては詳細を全く知らない状態でした。しかし、神楽坂事件やコカ・コーラの事例などから詳しく学習することができました。こちらのモデルも、物事の整理に苦手意識がある私にとって、意思決定のからくりについて知る上で役に立ちました。
【修士論文のテーマ】
本来は、性的マイノリティの就労環境改善についての研究を行う予定でいましたが、課外活動を行っていくうちに、別の分野に興味を持ち始めました。
私は小さいころよりスポーツをするのが好きで、小学校から大学生に至るまで体育会系の部活動に所属してきました。それは大学院に進学した今でも変わっておらず、大学の部活動に所属することはできないものの、社会人のスポーツチームに所属し、毎週末ラクロスの練習に足を運んでいます。この集団に所属するのは、幅広い年齢層、そして多種な職業に携わる運動好きの社会人の方々です。営業マン、事務員、消防士、教師、保育士、コンサル、中には自衛隊に所属しているメンバーや、スポーツインストラクターと兼業でチームに帯同するトレーナーもいます。全員、仕事の合間を縫って、関東ラクロスリーグに向けて日々練習をしています。
そんな団体に所属していく中、私は、運動に携わる社会人の方々の職場環境にどのような変化がもたらされれば、スポーツライフを快適に送ることができるのかについて興味を持ちました。企業にもよりますが、中には運動をするための補助制度を設けている企業もあると、就職活動を行って知ることができたので、益々この分野の研究に意欲がわきました。運動をすることで活力を保てる労働者のメンタルヘルスの改善、そしてそれに伴った日々の業務の作業効率上昇のためにも、この研究には意義があると考えます。
社会全体での政策を学んだ本講義の内容は、この研究を行う上で役に立つと考えております。改めて、本講義に参加させていただき、深く感謝申し上げます。
2022年度秋期メンバーによるリポート(敬称略)(at random)

メンバー集合写真
- XU, Yuchen 徐 雨晨
【授業の感想】
授業を振り返ると、前半では、履修者の研究テーマとそれぞれ関心のある分野をめぐって、また政策科学との接点も考えながら、先生と一緒にディスカッションしました。 また、先生から文献管理ツール「RefWorks」の活用を紹介していただきました。後半では、先生と一緒にテキストを読みながら、「ゴミ箱」理論の意味とその理論が誕生した背景について学びました。そして、「コカ・コーラ」と「神楽坂殺人事件」の事例を通じて、政策形成過程分析での「ゴミ箱」理論の活用に触れました。
感想としては、研究に必要な資料を効率的に探して整理する力と、学際的な視点で研究課題を考察する力が、授業のおかげで鍛えられたと感じました。情報検索と文献整理のスキルを身に付けることで、日頃の研究に費やす時間が短縮され、より効率的な研究をすることができます。また、学際的な視点を持つことで、文献を調査する際に、以前に見過ごしてしまっていた論文も再認識することができるようになり、多角的なアプローチができて研究の幅も広がります。
最後に、この授業で先生と同じく受講していた先輩が、私の研究テーマなどについて相談に乗ってくれ、さまざまな角度から貴重な意見をくださいました。ここに感謝の意を表したいと思います。この経験が今後の研究において大いに役立つことを期待しています。
【自分の研究との関連】
- 「グリーン・マーケティング」について
行動経済学の原理は、環境分野でも広く活用されています。 ビジネスの世界を例として言えば、エシカル消費、環境配慮型商品などは近年話題になっています。しかし、環境は公共の問題として注目されているにもかかわらず、消費者が行動を決定する際に、環境保護よりも自己の利益を守ることを優先するという「環境志向と行動とのギャップ」が数多くの研究や調査で見られます。
この問題を解決するため、心理学、商学、環境学などの学問の交差点に「グリーン・マーケティング」という学問分野が出現しました。「グリーン・マーケティング」の意味は時代とともに変化しています。最初は消費者とのコミュニケーションにおいて、感情的な説教や宣伝が特徴で、環境のために消費者がどれだけ犠牲や我慢できるのかに焦点を当てていたそうですが、今日の「グリーンマーケティング」は、主として消費者が犠牲を払わずに環境配慮的な行動を目指していると考えられます。逆に環境配慮的行動を通じて、一般商品以上のプラスの価値を享受できるという考え方が多いようです。
例えば、マクドナルドが植物性の人工肉を初めて導入したとき、「“Like real, but better”(本物のような、でも、もっといい)」というスローガンを掲げました。 人工肉の環境特性を強調するより、味や栄養価値が同じことや、天然肉より健康的で体への負担が少ないというメリットも訴求しました。
- 「ゴミ箱理論」について
「ゴミ箱理論」は、日本の環境政策の形成過程を説明するためにも使用することができると思います。このモデルは、政策決定が合理的で組織的なプロセスの結果ではなく、カオス的でランダムなプロセスの結果として見ることができると主張しています。
日本の環境政策が形成される場合、政府機関、環境団体、産業関係者などのさまざまな利害関係者が自分の予算や提案を提示すると思いますが、資源が有限で、政治や経済の状況が変化することから、政策形成のプロセスが予測不可能で不一致な場合があります。その結果、一部の提言は「ゴミ箱」に捨てられ実施されない可能性がありますが、他の提言は最も効果的な解決策でないにもかかわらず実施されるかもしれません。したがって、過去の環境政策を理解するためには、環境問題そのものだけでなく、政策決定への参加者、タイミング、資源などの要素も考慮する必要があると思います。
【修士論文のテーマ】
私の修士論文のテーマは、「日中スマートフードシステムの実態と環境的効果」です。自分での勝手な定義ですが、スマートシステムとは、AI やICT などの情報通信技術を活用した食料品流通システムを指しています。環境的効果は、主としてフードロスや二酸化炭素の排出削減の効果を指しています。近年、日中両国はフードシステムのスマート化に共に力を注いでいますが、努力の方向と収めた効果はいろいろ違います。両国の比較を通じて互いに学び合えるポイントが見つかればと考えています。
- WANG, Di 王 迪
【授業の感想】
とにかく履修してよかったと思いました。研究生としての最後の半年間はこの授業のお陰で毎週の水曜日が楽しみになりました。一方、もっと早くこの授業に出会えば、自分の研究ももっと順調に行けるだろうと、時には思います。
この授業を履修したきっかけは、家にいると修論がなかなか進まないので、対面の授業を履修することによって学校に来る頻度を高めようとする発想でした。また、自分の研究内容との関わりが少ないものを学習することによって、脳の使い方を変え、新しい物事の考え方を身につけることを期待し、他研究科の科目を中心に授業を探していました。「政策科学」のシラバスに書いてあった授業内容「ゴミ箱」と「政策の窓」モデルに興味があり、履修することにしました。
- 授業の形式について
予習などの負担がなく、気軽に参加できる授業でした。先生が先に授業内容を説明し、その後みんなでディスカッションを行います。少人数の授業だったので、心理的安全性が非常に高かったです。各自の感想や自分の研究においてどのように活用ができるか、多様な観点を自由に議論することができました。また、先生は議論の内容に基づいて、次回の授業内容を関連内容に変更したりすることで、他の視点から議論を深めることができました。
- 授業内容について
前半の授業は行動経済学、スマート農業など私と徐さんの研究に関連する映像あるいは記事から始まりました。特に徐さんから共有していただいた「スマート農業」プロジェクト研究会の内容から、日本の農業・林業における課題または解決策を実施した実験結果が分かり、非常に勉強になりました。
中半は学術情報検索機能からRefWorksの活用について勉強しました。CiiNiiから検索された結果をワンクリックでRefWorksに書き出す機能、まとめて参考文献リストが作り出される機能などはとても便利でした!RefWorksでPDFへの書き込み機能がもっとスムーズになることを期待しています!
授業の後半は「ゴミ箱」と「政策の窓」モデルについて勉強しました。テキストを基に、先生がわかりやすく説明していただきました。また、身近な事例と照らし合わせ、どんな事情の説明に使えるかについて議論しました。よって、今まで理解出来なかった政治家の判断や政策の成り行きをなんとなく理解し、納得できました。
【自分の研究との関連】
私は社会科学研究科ではなく、経営管理研究科に所属しています。自分の研究との関連がない授業を探していましたが、実際色々共通な所があることに気づきました。
例えば、学術論文の書き方とか、先行研究の検索や整理に使えるツールとか、もっと早い段階に出会えれば、自分の研究は進むでしょう。でも、ゴミ箱モデルで言ったように、考えるより行動することが大事です!時間の流れと参加者の変更によって、事情は変えていきます。大事なのはタイムリミットです。その期間内に、色々意思決定をしなければいけません。それで、何かしらの結果が出ます。まさに、私の論文の進行のように、最初にやりたいことは沢山ありますが、一部間に合わない研究は、やむを得ず、見送りにしました。悔しかったですが、このモデルで解釈してみると、ホッとしました。
この授業を通して改めて、学問の境界線はないことに気づきました。新しい分野の知識や視点を取り入れることで、いい気分転換になりました。
【修士論文のテーマ】
私の修士論文のテーマは「中間管理職の業務ストレスを減らす要因分析〜例外問題解決における効率状態の達成〜」でした。すでに完成しましたが、中間管理職の果たすべき役割について調べ、最後に例外問題解決機能にフォーカスし、研究を進めました。
中間管理職の例外問題解決機能とは、現場社員の解決できない例外的な問題機能、よりいっそう例外的な問題をトップに伝達することで、組織全体での問題解決能力を高める情報伝達機能です。企業の戦略調整や組織改革により、現場で発生する例外問題が増え、中間管理職が適切な業務配分を計画しないと、自身の業務負担が重くなり、果たすべき役割が機能できなくなる問題が深刻になっています。
私は、指導コスト・コミュニケーションコスト・対応利得・対応コストの4つの変数に注目しました。また、各階層の留保利得と成功の確率変数を加え、ゲーム理論のモデルを構築し、中間管理職に生じる以下の4種類の非効率状況を分析しました:@現場社員と中間管理職の関係において、例外問題の解決が中間管理職に集中する、或いは、こまめな現場報告や状況確認で、中間管理職の業務量が増やされ、マネージメント能力が発揮できない「過剰労働a」状態、A中間管理職が自分の持った知識を移転するインセンティブがないため、問題解決に関する解決方法が中間管理職に集中する「教育不足」状態、B中間管理職が上司との関係において、上司が対応すべき例外問題を中間管理職が対応する「過剰労働b」状態、C業務量がオーバーしたにも関わらず、業績評価や昇進に対する影響を考慮し、業務量超過の報告を行わない「報告不足」状態。
分析により明確した発生要因に基づき、下記の5点の対策を提案しました。1)組織は例外問題の対応コストを上げ、例外問題に対応することで得る利得を高すぎないように設定します。2)中間管理職が部下の報告を受けた後の指導コストを小さくします。3)中間管理職と現場社員には一定の距離を置くべきです。4)中間管理職とトップの間において報告しやすい環境を作ります。5)中間管理職の定期報告の仕組みを作り、キャパオーバーな状態に入る前に報告させます。
2021年度秋学期期メンバーによるリポート(敬称略)
- Y.H
【履修の動機】
本講義との出会いは、履修科目の中に「政策科学」を見て、これまで聞いたことのない学問名であったことから興味を惹かれ、WEB検索をしたところから始まりました。ウィッキペディアでは、「政策科学とは、政府などの公的機関が行う政策を改善するための学問である」とあり、コトバンクからの日本大百科事典(ニッポニカ)では、かなり詳しく、「アメリカで発達した学際的な科学で、伝統的な学問体系の分類による専門文科の枠を超え、とくに政治学、社会学、経済学といった諸社会学を統合利用すると同時に、数理科学の方法論やシステム分析、制御理論、情報科学などを含んだ工学的アプローチを積極的に取り入れているのが特徴である。政策科学が目的とするところは、吉村融によれば、(1)政策の作成および決定に対する合理的・理知的な考え方の強化によって、政策内容の改善をはかり、(2)政策形成過程のダイナミズム(動態)を科学的に解明することを通して、制度や慣行を含めた政策形成過程自体の改善をはかることにある」とあります。
普段から政策論議番組を視聴したり、実際の効果の情報開示や説明不足を感じることがある中で、現実の公共政策を、俯瞰的な視点から考える機会になると思い、またシラバスにおいて、ハーバード大学のロバート・パットナム教授が唱えた「ソーシャル・キャピタル」概念が、英国のブレア政権の政策にも影響を与えたことからも、興味を覚えたため、履修することにしました。
【授業の感想】
本講義の構成は、いかに学術情報を収集し整理するかの研究リテラシー習得の事前テクニックの前半部分と、ソーシャル・キャピタルに関する様々な文献や放送から考察する後半部分から成り立っており、非常に役立つ内容であったため、受講して本当に良かったと思っています。
前半部分では、上沼先生から本学で研究活動をするために、役立つテクニックツールをお教えいただき、研究リテラシーを高めることができました。まずは本学図書館を使いこなすことが、研究の情報収集力を向上させることにつながることから、本学図書館セルフツアーを行うことで、図書館の機能や利用ルールなどを確認できました。また、図書館HPの利用者サービス説明を一通り眺めることで、WINEをはじめとする学術情報検索機能やリサーチNAVIなどの使い方を学び、図書館間相互賃借:Interlibrary Loans(ILL)も知ることで、資料収集方法を修得できたと思います。
世界中の大学で活用されてている資料整理ソフトRefWorks機能も、簡単に文献を保存し、リストも残せるため、後からの情報再検索や、参考文献リストアップする必要もないなど、驚くほどに資料整理が容易になることを知りました。もしも知らないままだったらと思うと、研究効率にかなりの差があるままに研究生活をすることになったかと思います。
後半部分では、ソーシャル・キャピタルに関する様々な文献や映像を紹介いただきました。主には、鹿毛利枝子(2002)「ソーシャル・キャピタル」研究論文の読解から始まり、ロバート・パットナムの「哲学する民主主義」「孤独なボウリング」「われらの子ども」を精読することで、「ソーシャル・キャピタル」の理解を深めることができました。
最たる事例のひとつとして、ノーベル平和賞受賞につながった、バングラデッシュのムハマド・ユヌス博士が立ち上げた「グラミン銀行」について、文献およびNHKの映像などから様々な知識を得ることができました。恥ずかしながらグラミン銀行のことをよく知らなかったため、無担保少額融資のマイクロクレジットという仕組みが、絶対的貧困からの脱出を可能とする奇跡をもたらし、他の開発途上国や先進国にも広がるほどの存在となったことに感銘しました。
【自分の研究との関連】
ロバート・パットナムが、イタリアの地方制度改革において、州政府の制度パフォーマンスに歴然たる格差があることについて、ソーシャル・キャピタルとの関係に着目していたことを知り、自分の研究テーマ「農村観光による地域活性化」とも関連性があるのではないかと思いました。イタリアの多くの自治体が、アグリツーリズム(農村観光)に取り組んでいますが、地域資源に恵まれている南部の州が北部の州よりも、取り組みが遅れているのはなぜかと考えていたところ、この授業のおかげで、ソーシャル・キャピタルの差にその理由を求めることができるとの仮説を持つことができました。上沼先生より、パットナムのイタリアにおける制度パフォーマンス研究のことを、お教えいただいたことをありがたく思います。本講義で得たことを、今後の自分の研究に活かしていきたいと考えています。
2021年度春学期メンバーによるリポート(到着順・敬称略)

メンバー集合写真@2021年七夕の日に 14-608教室
- チャン ティ マイ チー
【授業の感想】
新型コロナウイルスによる制約が多い中で、対面授業を実施していただいたことによって、毎週の水曜日に学校へ足を運ぶ理由があり、皆さんと意見交換したり、ときには、悩みを打ち明けたりすることでき、大変嬉しく思いました。本講義を受講した頃、最終の研究計画書を提出する1ヶ月前にも関わらず、研究の内容をまだ具体化できなく、色々葛藤がありました。授業で自分の問題意識について語る度に、先生や皆さんからの意見を聞くことができ、自分自身の思考や論理を再び見つめ直す良い機会でした。また、先生の多数の教えの中で2点が私にとって大変印象的でした。
- 1点目は「使わないと意味がない」です。あらゆることに対して、学んだことを活用し始めてから、意味があるため、得られた知識の使い道を常に考えるように練習しています。
- 2点目は、論文は事実ではなく、あくまでも論者の主張で、仮説という発言です。私は今まで、先行研究は正しいと思い、批判的に読むより、丸呑みしがちでした。これは自分の研究の行き詰まりの要因の一つだと思います。叙述の教えに救われました。
短い間ですが、大変有意義な時間を過ごすことができ、皆さん、色々お世話になりました。近いうちに、皆さんとお会いできたら嬉しいです。
【自分の研究との関連】
授業の内容と自分の研究との関連を、下記の3つにまとめました。
- 「書くということは考えることです」
今まで、問題意識は固定的で変わらないものだと思いました。この問題意識を持って、先行研究に取り組んで、論文構成を執筆し、独自の主張を導くという一直線に進行していると思いました。私がこの過程になかなか合致しなかったため、焦りや不安な日々を過ごしました。
しかし、石原武政「指から出まかせ」『書斎の窓』2007.3を読んだ後、そうではないことに気づき、少し安心できました。最初、持った問題意識というものは、読みながら・書きながら、考え、また変えることです。そして、肝心なのは、思考を整理するために、書くべきです。できそうだと見えるような問題意識ですが、実際、長文で複雑な論文を書き始めたら、決して順調に進めるわけではないため、日々、書きながら思考の整理をする重要さを学びました。
- 「学術情報の検索方法や新Refworksの有効活用方法」
修士1年生の頃、指導教員に図書館のDBのWeb of Scienceの使い方について教わりました。しかし、用意された多数のDBを使えば、専門用語の辞書、中国・韓国などの学術論文検索サイトにアクセスできることを知りませんでした。本授業をきっかけとして、学術情報検索の他の機能についても知り、じっくり調べました。
そして、恥ずかしながら、RefWorksの存在は去年、ある授業をきっかけに知りましたが、RefWorksはただファイルを保存させるというソフトだと思い込んで、使ったことがありませんでした。本授業を通して、RefWorksを使用すれば、ファイルの整理整頓はもちろん、自動的に先行研究の参考文献リストを作成したり、読んでいる最中のネット記事でも「Save to Refworks」を用いたら、保存したりすることができ、非常に便利なツールに気づきました。論文執筆の大量の手間を省くことができるので、これからも活用したいです。
- 「フレーミング」
問題をどのような枠組みで捉えるかの「フレーミング」次第で、問題の対応は異なるため、フレーミングの重要さを学びました。そして、言説はフレーミングの一環で、用いた言葉が異なるだけではなく、問題の構造も異なるため、注視されるべきことに気づきました。
私の修士論はまさに「フレーミング」の段階に等しいです。ジェントリーフィケーションがベトナムでは馴染みがなくて、自分自身も社会科学研究科に入ってはじめて、知った言説です。
都市改造・都市再生・都市再開発・都市更新などの言葉が普及している一方、ジェントリーフィケーションは街の高級化に伴う従前の土地利用者の立ち退き(社会浄化)で政治的経済的含意があるため、流行していないのです。同様の物事について言及しているが、ポジティブ的側面か、ネガティブ的側面に焦点を変えると、言説が異なります。
私は批判的な立場でいるため、世論の言説を分析することも修士論にも盛り込めたら良いと考えております。
【修士論文のテーマ】
修士論は、ハノイ市におけるジェントリーフィケーションの発生の仕組み(政府・地方政府と中流階級の役割)に関する内容です。勉強不足や新型コロナイルスによるデータ収集の困難の中で、論文を執筆する際、不安だらけですが、無事に修士論を仕上げられるように、努力します。
半年間、どうもありがとうございました。先生と皆さんのご活躍やご健康をお祈り申し上げます。
- 朴 ソダム
【授業の感想】
新型コロナウイルスのため制約が多い中、対面授業を実施して頂きましたことに感謝申し上げます。授業は少人数でお互いに話しやすい雰囲気でしたので、毎週水曜日の授業が楽しみでした。どのように問題が発見され、定義され、そして解決策が設計されるかなど、「政策科学」についても学びますが、「政策」を媒介に自分の問いとテーマを丁寧に検討していく時間でした。異なる興味を持っている方々から質問を受け、先生から様々なアプローチを紹介して頂き、自分の研究をさらに発展させることができました。加えて、RefWorksという有用なツールも学び、研究の土台を固めるきっかけになったと思います。1年目にこの授業を受けていたらより良かったと思いますが、今でもとることができ大変良かったと思います。意味のある半年を作ってくださった先生と皆さんに感謝します。
【自分の研究との関連】
■ 研究ツールの学習
RefWorksという文献管理ツールについて初めて学びました。RefWorksの使用は初めてでしたので、1人だったら迷っていたと思いますが、みんなで勉強しながら使い方に慣れました。CiNiiやWeb of ScienceのようなDBのサイトのみではなく、WINEからも文献情報をインポートすることができ、大変便利だと思いました。また、インポートした情報はフォルダで整理し、自動的に参考文献リストを作成することができますので、研究にかかる付随的な時間を節約できると思います。本格的に修士論文を書くときにぜひ活用したいと思っております。
■ 研究テーマの具体化
授業を始める前は、2年生なのにまだテーマがはっきり決められなく焦燥感にとらわれていましたが、授業が終わった7月には少し具体化されました。特に、「フレーミング」に関する考察が役立ちました。私の研究は、「社会イノベーションの普及」への興味から始まりましたが、なかなか進展しませんでした。しかし、一回考え直してから、拡散させる立場ではなく、アイディアを受け入れる側の立場に注目するようになりました。現時点でケーススタディーの対象にしようとしている事例も、昔から知っていましたが、見方を変えるとまったく新しく感じました。また、「私だけが問題だと思っているのではないか」という先生の質問が印象に残りました。その前から自分の研究が当然なことを言ってるのではないかと悩んでいたからです。それで、誰が・いつ・どのように問題を認識したのかを調査しながら、自分なりに問いを客観化しようと努力しました。この点は、これから研究を進めながら反映したいと思います。結果的に、授業内容を追いながら自分の問題意識を整理することができたと思います。
■ 研究のアイディア
最後の授業で今まで調べてきた内容を報告しましたが、直売所の3セットに対する先生の指摘は私が逃した部分でした。テーマと調査対象は決めましたが、「政策の学習過程」に焦点を当てるのが妥当なのか、どのような点を比較分析すればいいのか悩んでいましたので、大変参考になりました。今後、関係者をインタビューする時、なぜ3セットを導入することにしたのか、必ず聞いてみたいと思います。ありがとうございます。
【修士論文のテーマ】
私の修士論文のテーマは、「社会イノベーションの拡散における学習の役割:日韓の農産物直売所を事例として」です。最近、インターネットの発達により、海外の成功した政策やビジネスのアイデアに容易に触れることができるようになりました。しかし、成功したモデルを真似しても失敗する場合も多い。どうすれば良いイニシアティブをちゃんと学び、うまく取り入れることができるか?この問いに関して、日本の「木の花カルデン」のモデルの導入に成功した韓国のWanjuの事例から、ヒントを探してみたいと思います。自分の研究が海外のアイディアを効果的に学ぶことに貢献できればと思います。
- 原田 さゆり
【授業の感想】
この授業では、前半で、学術的文章とはどういうものか、研究に役立つ文献の探し方、参考文献の保存方法、後半で、政策の問題意識の発見などを扱いました。前半について、私は大学院に入学して間もないこともあり、早稲田大学の学習システムを把握できておらず、RefWorksの存在をこの授業で初めて知りました。この授業がなければ当分知らずに過ごしていたのではないかと思います。RefWorksは、参考文献を整理しておくことができ、後から参考文献をまとめる煩わしい作業を簡略化することができます。文系は、論文や書籍を読まなければ研究が全く進まないということが多いため、文献をより多く扱うことになり、その分整理が煩雑になることもあります。研究において参考文献を整理する作業に労力をあまりかけなくてもよくなるという、大変便利な機能であると感じました。これから修士論文の執筆、多くのレジュメの作成をすることとなりますが、ぜひRefWorksで参考文献をまとめておきたいと思います。時間を割いてレクチャーしてくださり、本当にありがとうございます。
授業後半の、政策の問題の発見などについては、公共政策についての書籍の内容を自分で読んだ後にレクチャーしてくださり、それを自分の研究と関連させて整理し、議論するというものでした。私は、自分の研究テーマを入学前と大きく変えようと考えていたため、研究が定まらない中お話してしまったために、うまく整理できなかったことが残念でした。しかし、修士2年の先輩方は研究が定まってきていたので、有意義な議論に参加させていただき、大変勉強になりました。私は、最近は労働法の分野ばかりを勉強していたため、他の分野のお話を聞くだけでも新鮮で、私の知らない問題が多くあることが実感できました。また、私は研究テーマが決まらずうまく実践できませんでしたが、先輩方は研究テーマに関する背景や問題の発見、解決策を考えるところまで道筋を立てることができていて、政策提言に至るまでのプロセスを、前半のみですが、よく理解することができました。私もそのような道筋を立てた研究ができるように、また、この授業で教えていただいたことを振り返りつつ研究をしていきたいと思っています。
【自分の研究との関連】
私は法学を中心に学んでいましたが、公共政策の書籍から政策提言までの過程をたどっていくことは、普段の法学系の授業とは違った視点から社会問題を考えることになり、大変興味深くもあり、自分がそこまで考えることができていないことを自覚する機会にもなりました。労働法の中で、私は高年齢者雇用政策と外国人労働者政策について取り上げましたが、私の下調べが不十分であることもあり、どこが問題なのかうまくフォーカスすることができませんでした。どちらも最近世間的にも関心が持たれており、法改正によって大きな変革を迎えている分野ですので、今後研究テーマにするか否かにかかわらず、背景と問題の発見、解決の方向性を自分の中で明らかにしたいと思います。以下で、問題の背景部分にあたる内容を示しておきます。
■高年齢者雇用政策
高年齢者の健康寿命の延びや就労意欲があること、社会保障費の財源確保などの理由から、雇用を70歳まで確保する努力義務を課す改正高年法が今年施行された。しかし、その雇用を助けるはずの在職老齢年金や雇用継続給付が、就労意欲を低下させる効果や、高年齢労働者の賃金を低くしてしまう効果などを発生させている。在職老齢年金や雇用継続給付は、高年齢者の生活を支える目的や、高年齢者を雇用する企業を支える目的のために支払われるものであるのにもかかわらず、そのような効果が発生していることは問題であるが、高年齢者の雇用を延ばすためには仕方ないという見解がみられる。これは、特に国、シンクタンク、大学等研究機関で取り上げられている。
■外国人労働者政策
外国人労働者を日本はこれまで受け入れてきたが、入管法の改正で、特定技能制度が新設されたことや、技能実習制度が劣悪な環境で外国人労働者を働かせることに悪用されていることなどの問題から、国、シンクタンク、メディア、大学等で注目されている。さらに、新型コロナによる変化によって外国人の受け入れに支障がでていることもあり、働く以前に日本に滞在することの問題がまず存在している。そして、その家族が日本に一緒に来ることができるか否か、来ることができてもその子どもの教育がうまくいかないなどの問題も出てくる。また、労働する際には、どのような種類の作業をすることができるのか、賃金などはどうするのかなどの問題も出てくる。
【修士論文のテーマ】
修士論文のテーマは未だ確定できていないため、今後いくつかのテーマを取り上げて深く調べようと思っています。分野は、労働法・雇用政策・労働政策の中から選びたいと思います。この授業で学んだ政策のプロセスを参考にしながら、どの問題にフォーカスして研究するのかということを意識してテーマ探しを頑張りたいです。
- 早田 絵里菜
【授業の感想】
授業を振り返り、「@研究に必要な資料を的確に効率よく探し、整理する力、A学際的な視点で考察する力」を鍛えることができたと感じております。授業を受けてのビフォーアフターは、多くあります。なかでも、「資料の検索」「文献の整理」といった2つのスキルを身に着けることができた点は、日頃の研究活動のなかでの特に大きな変化でした。資料の検索については、これまで大学図書館の資料検索窓のところに探している資料に関連したキーワードを打ち込み、それを繰り返すといった作業をしていました。しかし、授業の前半で学習した、図書館が整理・提供して下さっている、ガイドやおすすめのデータベースなどの活用方法を学び、目的やテーマにあった資料に容易にたどり着くことが出来るようになり、先行研究の調査がスムーズになりました。文献の整理に関しては、授業のなかでRefWorksにアカウントを作成して、使用に至るまで丁寧に授業で教えていただきました。今まで一文字ずつ手打ちで打っていたものが、DBから瞬時にエクスポートして、参考文献を整理できるようになり、研究の大幅な効率化につなげることができました。
講義の後半では、教科書を用いて、自分の研究テーマに引き付け議論する機会を多く設けていただきました。専門分野が異なっている場合でも、共通する課題点や研究の歴史の起源などがあり、共感や気づきというものが多くあり、学際的な視点を持って研究することの意義を学ぶことができました。コロナ禍という状況で多くの講義がオンラインの実施のなか、対面で講義をしていただき、大学に通っているという実感も湧きました。議論も非常にしやすい環境で、皆さんと一緒に視点を共有することができ、授業がとても楽しみでした。本授業で学んだことを活かして、自分の納得のいく修士論文を書けるよう努力していきたいと思います。短い期間でしたが、多くの学びを得ることができました。先生、そして講義を一緒に受講していた皆さんに深く感謝申し上げます。
【自分の研究との関連】
■情報検索と効率化
講義のなかで、情報検索のツールの活用やRefWorksの使用法を学び、独自の研究スタイルを過信しないことの重要性を学びました。常にスキルアップさせ、方法を学ぶこと、提供されている情報を最大限活かすことを意識しながら、研究を行っていきたと感じました。
■フレーミングに関して
「フレーミングは変化する」という言葉が特に印象に残っています。「災害における知識や経験が共有されていない」といった問題を考えた際、この場合の「知識や経験は何を指すのか」「だれが問題を主導してきたのか」など様々な角度から疑問を投げかけることで、問題というものが拡張した形で現れ、より研究の視点(切り口)を具体的なものに変化させることができました。「ある課題を発見した際、どのような切り口にすれば、問題がはっきり見えるのか」ということを常に意識しながら研究を行っていきたいです。
また、講義内で自分の問題設定や研究分野の課題点などについて発表させていただいた際、テーマの重要なキーワードとして挙げていた「記憶」や「継承」について、皆さんと議論を通して多くの新たな視点を得ることができました。具体的には、「記憶が抱える問題」も同時に捉える必要があるといった点や継承だけではなく「マネジメント」と関連させることで視点が広がる、といった観点がありました。また、「記録し継承していくこと」に関して、「効果をどのように評価するのか」という課題があることを発見することができました。
■政策設計に関して
問題の発見が、政策提言へ直接移行できるというわけではなく、プロセスがあり、段階を踏んで手段等を活用しながら見ていくことの重要性を学びました。教科書のプロセスを自分の研究に当てはめることで、自分の研究に足りない過程はなにかを客観的にみることができた点は、大変貴重な学びでした。また、状況の把握や解決手法を考えるといったプロセスなどがあり手法を学ぶことで、政策の提言の方法も内容も意義深いものにできると感じました。実際に「災害教育」の事例を当てはめ、費用便益やリスクを考えた場合、被災経験がない場合であっても、学習指導要領の通り防災について学校で学ぶことができるが、生徒が自分事としてリアルな体験ができない課題などが出てきていました。こうした確認の作業を通して、解決手法や抱えている問題の把握をしていくのだということを実際に体験することができ、今後の研究においても、様々な視点から検証することを心掛けていきたいです。
【修士論文のテーマ】
私の修士論文のテーマは、「防災・減災」です。特に、防災・減災の知識や被災経験がどのように共有されていくのかについてフォーカスを当てた研究を行いたいと考えています。講義のなかで、視点を提示いただいた「記憶の継承」の主体や対象、現在との関連性についても自分のなかで整理をして、明確な解答を自分のなかで1つ探すことに今後チャレンジしたいです。
2020年度秋学期メンバーによるリポート(到着順・敬称略)

メンバー集合写真@2021/01/13 授業教室
- 玉榮日菜子
【政策科学I履修のビフォーアフター】
授業の度に投稿していたフォーラムを見返してみると、私にとってこの授業は、修士生として学問に浸る上でとても大切な授業になったと感じています。この授業で得た知識、気づかされたことは多々ありますが、その中でも特に特筆したいことは、二点あります。一点目は、「学術情報にどうアクセスし、それら情報を整理していくのか」を知ることが出来たということ、二点目は教科書として読んだ『入門 公共政策学』と反転授業の議論を通して、自身の研究テーマの輪郭がハッキリしてきたことです。この二点についての詳細を以下段落にてまとめます。
【学術情報にどうアクセスし整理していくのか。】
私は4月から修士生として学んでいましたが、正直なところ、どう学術情報にアクセスすれば良いのかを知りませんでした。なんとなくネットの検索エンジンにキーワードを打ち込んで、カンに頼って良い文献を見つけるということを半年間していました。そのままこの授業と履修せず、情報検索の方法を知らないままでいたら大変な事態になっていただろうと思います。早稲田大学のサイトから「学術情報検索」へ進み、自分の欲しい情報に合わせて、各特徴を備えたデータベースを利用できるようになり、以降、調べものの打率が上がり短時間で良い情報を得られるようになりました。また、授業の一環として図書館のリファレンスコーナを利用してみる機会があり、そこで図書館司書の方に、文献検索のコツや自身の研究分野の本が多く貯蔵されている本棚の番号などを教えていただきました。それから、データベースや図書館で探した文献などの整理をRefworksを使って行うようになりました。Refworksの使用は初めてでしたが、気になる文献を書き出したり、参考文献資料としてエクスポートしたり、収集した情報を整理する場として利用しています。
【『入門 公共政策学』と反転授業の議論の中でハッキリしてきた修士論文の輪郭】
私の研究は「地域包括ケアシステムに類似する各国の取り組みを調べる」という趣旨の比較研究で日本、スウェーデン、ドイツ、米国を比較対象の国に設定し、各国の政府組織と非政府組織・自主的福祉団体・地域住民がどのように協力し連携しているのかに注目しています。この授業が開始する前は、漠然と各国の地域包括ケアを題材に研究したい!ということまでしか考えられていませんでしたが、教科書を読み、皆さんと議論することで、私が「問題」と捉えていることは、他者にとっては「問題」ではない可能性があることを知りました。従って、何故、地域包括ケアシステムの在り方に注目するべきなのかを自問する機会が得られ、その意見をサポートするためのデータや文献を集めるなどの作業が進みました。また、比較研究ということで、日本の地域包括ケアシステムに類似している各国の取り組みなを探すうちに、「地域包括ケアシステム」という意味のCommunity-based integrated care systemでは、十分な資料が得られないことが分かり、リフレーミングが必要になりました。リフレーミングというのは、教科書で習った方法で特定の現象についてのフレームを再設定することなのですが、今までこだわっていた「地域包括ケアシステム」を一旦、わきに置いて考えることが出来ました。その際に、大変助けになったのは、同じ授業を履修している方から教えていただいた、CCRC(Continuing Care Retirement Community)や、上沼先生から教えていただいた農福連携についてでした。ひとりで同じことを一生懸命考えると、視野が狭くなり、柔軟な考えを持てずに行き詰ってしまいましたが、そんな時には議論を通してヒントを得ることができました。『入門 公共政策学』からは、政策を評価、検討する上で知っておくと便利な用語を多く知ることが出来ました。私のやっている比較研究が「ベンチマーキング」というものだったと知り、そのような言葉を知るだけでも、自分の研究が補強されていくように感じることが出来、自信が持てるようになりました。
【まとめ】
この政策科学Iの授業では、修士生として研究するために必要なスキルである、学術情報へのアクセス方法と情報の整理を学ぶことが出来、議論の中で自身の研究の為の多くの気づきを得、他履修生の研究テーマの内容も聞くことが出来、大変有意義な機会になりました。上沼先生、皆さん、半年間ありがとうございました。
- 京田徹也
【授業の感想】
コロナ禍で制約が多い中、対面授業を実施して頂きましたことに感謝申し上げます。初回の授業は、4月に学生証を受け取りに来てから久々の登校となり、生涯忘れることのできない授業となりました。その講義の中で先生が授業に対する想いを語られたのが大変印象的でした。授業は、WINE、RefWorks 、情報検索、図書館の有効活用と入って頂きましたので、院生として研究していくための基礎を習得することができました。春学期にもWINEは利用しておりましたが、講義を受講してからは、より深く活用できるようになりました。中央図書館や他学部の図書館などにも積極的に赴くようになりました。授業は、反転授業形式でしたので、受け身ではなく自分の考えを述べ、それに対する先生のご助言、ご意見をお聞きすることができました。さらに、他の受講生の意見・感想を聞くことができたので、自分の考えをチェックするのに大変役立ちました。また、他の受講生がどのような考えを持ち、何に関心があり、どんな研究を進めているのかを知る機会となりましたので、新たな視点で自分の研究の進め方を見つめることができました。そのような点から、授業はテキストの内容理解にとどまらず、大変有意義でした。
【自分の研究との関連】
コロナ禍で制約が多い中、対面授業を実施して頂きましたことに感謝申し上げます。初回の授業は、4月に学生証を受け取りに来てから久々の登校となり、生涯忘れることのできない授業となりました。その講義の中で先生が授業に対する想いを語られたのが大変印象的でした。授業は、WINE、RefWorks 、情報検索、図書館の有効活用と入って頂きましたので、院生として研究していくための基礎を習得することができました。春学期にもWINEは利用しておりましたが、講義を受講してからは、より深く活用できるようになりました。中央図書館や他学部の図書館などにも積極的に赴くようになりました。授業は、反転授業形式でしたので、受け身ではなく自分の考えを述べ、それに対する先生のご助言、ご意見をお聞きすることができました。さらに、他の受講生の意見・感想を聞くことができたので、自分の考えをチェックするのに大変役立ちました。また、他の受講生がどのような考えを持ち、何に関心があり、どんな研究を進めているのかを知る機会となりましたので、新たな視点で自分の研究の進め方を見つめることができました。そのような点から、授業はテキストの内容理解にとどまらず、大変有意義でした。
【修士論文のテーマ】
修士1年も終わろうとしているにも関わらず、テーマを絞り切れておらず焦燥感に駆られております。他の受講生がどのような研究をされ、その進捗状況をなんとなくであっても知ることができた点で、研究ゼミとは違った視点で自分の状況を見つめ直す良い機会となりました。やりたいことは「地域活性化のために多国籍企業を地域に誘致する」ことで、授業のなかでも何度となく先生からご助言を頂いておりますので、冬休み中にテーマを絞り固めてまいります。私が『唐津のコスメテックバレー』について例をあげると先生から『福岡の取り組み』として比較してみてはどうか、というように具体的なご助言まで頂けましたこと大変ありがたく存じます。1年後には修士論文を上沼先生にもメールでご連絡できればと思っております。あらためて、先生と受講生の皆さんに感謝申し上げます。
- LI, Xiang
【自分の研究との関連】
本講義で使うテキストは『入門 公共政策学』です。政策のプロセスには、問題の発展、解決案の設計、政策の決定、実施と評価という各段階の研究が含まれています。これらの政策案作成の各段階での研究手法は、私自身の研究に示唆を与えてくれました。
まず、問題の発見では、「どのような問題」を捉えるのかは重要です。そして、フレーミングによって問題の理解や解決の方向性が規定されます。フレーミングのもとで、問題の構造が分析されます。私自身の研究では、論文や他の研究者のレビューを通じて、これらの先行研究において未解決の問題が発見され、「ブランド・アイデンティティの一貫性」を維持することが中心的な問題として、研究の方向性を決定しました。コーザリティの分析も知りました。要因間の影響関係を研究する考え方を、得ました。
解決案の設計では、政府の政策手段の区分として、@直接供給・直接規制、A誘引、B情報提供の三つがあります。これらの政策は、市場経済をコントロールするのにも役割を果たしており、例えば、公共財を設置する、民間企業に供給を提供させる、経済活動をいくつかの規制で制限する、などがあります。近年、経営環境の急変、経営のグローバル化で、企業は、社会的責任を重視しなければいけない。問題解決の手段の中には、政府による何らかの誘引、例えば、金銭的なの補助と負担があリます。また情報提供の手段もあります。これらの手段を使うことで、業界全体でCSRとSDGsを進めることができると思います。ポリシーミックスの手段も、とても効果があります。
政策の決定について、政策案を作成するため、専門知識に基づくの理論知と政策の現場となる業界の現場知も必要です。例えば、ケーススタディにより、マクドナルドの経営方式は、現場知によって理論知を調整していると知りました。政策の決定は、理論知と現場知を充実させつつ、両者を最適化していくものと考えます。
実施では、政策のデザインの中、@目的、A対象者、B手段、C権限、D財源、の五つの要素があります。政策案を実施するためには、この5つの要素は、政策のデザインの中で一つも欠かせないです。私の研究の仮説部分では、この5つの要素に基づいて仮説を立て、未解決の問題を全面的に分析し、仮説をより合理化するべきだと思います。
評価の中で、セオリー評価、プロセス評価、業績測定とインパクト評価があります。インパクト評価の準実験法では「政策を実施した集団」と「政策を実施しない集団」の比較が行われている。ブランディングを行う業界の研究では、このような事例がたくさんあります。例えば、ANAとJAL、ヤマト運輸と日本通運のようなブランドを比較します。これらの評価結果から見ると、企業にとって政策のデザインとマネジメントは、とても重要です。
【授業の感想】
今学期の講義により、RefWorksという文献管理ツールの利用方法にもっと慣れました。自分が利用したい資料を簡単に見つけられます。日本経済新聞:日経テレコン21のデータベースをよく利用しています。多くの研究に関連する実例を集めました。図書館のレファレンスコーナーを初めて知りました。普段はCiNiiで研究関連の論文を見つけたものの、閲覧できず困っていましたが、レファレンスコーナーでとても助けてくれてコピーができました。
そして、毎回の授業の感想に対して、先生は貴重な意見を出してくれて、良い事例を提供してくれました。自分の研究に役立てています。毎回の授業では、他の履修生の研究内容や,先生のアドバイスを聞くことで、自分の研究以外の問題を知ることができ、貴重なな機会でした。私の研究にとって、ブランテングだけではなく、サービス・マーケティングとか、ソーシャル・マーケティングとか、関係性マーケティングとかの論文と記事も勉強になりました。また、社会問題に対して一定の関心を持つという重要なこともできました。
今学期は、本当にありがとうございました。みんなと一緒に撮った写真は、私の大切な思い出です。
- HAN, Fangkun
【授業の感想】
半年間、先生、ありがとうございました。私の履修科目の中で、一番深刻に考えさせられるのは、この政策科学の授業と思います。毎週、科学的に政策を策定する方法を学び、興味がある点について一緒に話し合い、ほかの学生さんの研究方向と課題を聞いて、多くのことを学びました。
たとえば、先生が紹介した資料の中で、京都で農業と福祉を連携した組織があります。聴覚障害者の他に精神障害者や知的障害者などの利用者が、農業、食品・菓子加工、カフェ、縫製・工作、販売などの作業をおこなっております。地域の連携によって地域発展を促進していますので、感動しました。
また、政策の策定について、日本は下から上へに策定するのに対して、中国は上から下へとやりました。昔中国にいる時、ある政策を理解できないことがありました。政策が民衆に対してどのようなメリットがあるのか分かりません。上が何か重要なことを考えているとは思いました。しかし、授業を通して、すぐに理解できない政策といっても、必ず専門家や業界の意見を聴取して策定されたと理解できるようになりました。
【自分の研究との関連】
この授業は、政府の公共政策の立案・実行過程を@問題−A設計−B決定−C実施−D評価に分けて分析しました。この過程は、社会の「望ましくない状態」が「政策問題」として認識・定義される(@問題)、担当府省において解決案(政策案)が設計される(A設計)、そして、政策案とともに関連する法案が担当府省で準備され、国会で決定される(B決定)、決定された政策は行政機関を中心に実施される(C実施)、最後に政策が評価される(D評価)と表現することができます。
この過程の把握、及び改善策の提言が、私の研究にも大きな参考になりました。アンケート調査、特に、AIとビッグデータの時代におけるアンケート調査に対して、調査する意味、調査が必要かどうか、どう調査しているか、さまざまな問題に気づき、考察することが必要だと考えました。
【修士論文のテーマ】
最近コロナの影響によって、政府の公信力が下がています。国勢調査などのアンケート調査もますます難しくなると意識しました。近年、様々な場面でアンケート調査が用いられています。しかし、これらアンケート調査における問題点として、回答者が正しく設問に回答しない、いわゆる「不良回答」が含まれるという問題点があります。不良回答を減少するために、モデル化を通してアンケートの精度を上がりたいと思います。
2020年度春学期メンバーによるリポート(at random)
担当教員:
07/29 第12回講義(「学習の成果」のまとめ)<授業支援システムMoodle「政策科学U」
例年より長い梅雨も、甚大な豪雨被害を被った九州地方で明けた模様ですが、北陸・東北地方では河川氾濫や山崩れの被害が報じられ、関東地方も梅雨明けは来月初めとの予報です。
前回講義での投稿を拝読しました。各々の研究テーマや関心と関連づけて論述していただき、私も幾つも新しい視点や知識を教えてもらいました。ありがとうございました。
非常事態下でのリモート授業で、通常教室授業のシラバスとは大分異なりましたが、今回で最終回となります。今回の講義は、当初お伝えした通り、学習成果のまとめとして、一種のレポートをフォーラム投稿の形式で実施します。
課題は、
- 本講義の履修前と履修後(いわばbefore/after)の感想
- 各自の研究テーマ・関心との関連性
を、過去の本講義(「政策科学U」)履修生のレポート・ページ(半期毎に開設される「政策科学T」と交互の順)<政策科学研究T、U@社学研ページを準拠にして、字数自由で、期限内に投稿してください。
例えば、最新では、2018年度秋学期メンバーによるリポート(at random)(2019年度は開講せず)の中山昌生さん、匿名さん のレポート内容を参照してください。
投稿では、公開用の氏名を明記してください。投稿内容を、上記URLのページで公開しますので、個人情報の公開を控えたい方は、「匿名希望」と書いてください。
なお、公開する趣旨は、@学習のまとめを記録して、今後の教授法に活かす、A科目履修検討者に対して、履修生目線で情報提供する、Bご縁のあった履修生との思い出とする、ことにあります(通常では集合写真つき)。趣旨をご理解のうえ、念頭にして投稿いただければ、なお幸いです。
最後に、通常授業でのシラバスや環境とは違い、履修生の皆さんには大変ご迷惑をお掛けしましたが、ご協力いただき心より感謝申し上げます。
- Kang Lu
【授業を受ける前と後の違い】
政策科学の講義を受ける前に、この授業は政策の効果を研究することに関するものだと思った、ソーシャルキャピタルの概念を理解していなかった。しかし、授業を受けた後で、私はソーシャルキャピタルについてより深く理解しました。「ソーシャル・キャピタル」は社会学、政治学、経済学、心理学、歴史学には大きな影響がある。
鹿毛利枝子の文献を読むことで、ソーシャルキャピタルの起源と発展がわかる。政治学における「ソーシャル・キャピタル」研究の現状について説明があった。また、Saguaro SEMINARを通して、ソーシャルキャピタルについて理解を深めた。「FAQs」は、この概念について私が持っている多くの質問に答えてくれた。「What You Can Do」のリストを読んだ後、たくさんの啓発を受け、個人からソーシャルキャピタルを蓄積する方法がわかる。「われらの子供」を読んだあとで、アメリカの教育の格差をある程度理解した。同時に、中国の教育の格差に気づいたので、教育の格差をもっと深く理解するために、中国教育の格差に関する文献を読んでいる。読んだ後で、中国教育の格差の原因を了解した。最後に、M・ユヌス氏のソーシャル・ビジネスの勉強を通じて、日本が直面する緑豆の供給不足の問題を解決すると同時に、バングラデシュの経済発展と国民生活水準の向上を促進したことが分かった。このプロジェクトの成功は、ソーシャルキャピタルの効率的な利用によるものである。
先生から与えられた資料は学ぶ価値が高いので、私はそれから多くの知識を得ました。この授業では、ソーシャルキャピタルの概念をより深く理解できただけでなく、さらに重要なことに、自主的に学習する能力が大幅に向上しました。
【自分の研究との関連性について】
私の研究テーマは、「中国市場における電気自動車に対するインセンティブの有効性」です。インセンティブの意味は、人々の意思決定や行動を変化させるような政策のことです。
現在、大手自動車会社の企業分析を行っている。例えば、最も有名なアメリカの自動車会社「テスラ」のビジネスモデルは車体,バッテリー,タイヤといった部品を外部から調達し,組み立ての妙を得意とするオープン・モジュール型の企業である.また、シリコンバレーのソーシャルキャピタルを最大限に活用する。シリコンバレーという情報・企業・人材を効率的に利用する。
しかし、中国の最も有名な自動車会社BYDのビジネスモデルとテスラは違う。BYDのビジネスモデルは垂直統合である。垂直統合とは、ある商品の開発、生産、販売を全て自社で行うことである。
生産地域やビジネスモデルが異なれば、ソーシャルキャピタルの使い方も異なる。これらのさまざまなビジネスモデルの影響をさらに研究する必要がある。
この授業を勉強した後、政策を研究するときは、政策そのものに焦点を当てるだけでなく、この政策のさまざまな効果をより包括的に検討する。複数の角度から問題を分析して解決する方法を学んだ。
【参考文献】
- 趙 偉、寺澤朝子(2014)「電気自動車市場の特徴と将来展望 ― テスラ・モーターズ社を中心として 」
- 徐方啓(2015)「中国ー電気自動車メーカーBYDの競争戦略」
- 西川志津雄
【本講義の履修前後の感想】
まず、図書館の学術情報検索ページの学外アクセスですが、初めて知りました。現在は、ルーチン業務の様に、レポート作成時等には直ぐにアクセスして国内論文、新聞記事等の検索に使用しています。
また、Refworksについても初めて知り、現在は自身の研究テーマの参考文献を登録しています。ただ、もう少し分類方法等の知識不足を感じていますので、勉強して活用していきます。Refworksで検索しました山口裕之(2013)「コピペと言われないレポートの書き方」を読むと、成程と思えるところが多く参考になりました。
ソーシャル・キャピタルについては、第2回講義のJapanKnowledge Lib の「ソーシャル・キャピタル【市民活動】」では、ソーシャル・キャピタルについて、経済関係資本。あまり面識のない人同士の間にも、共通の目標に向けて共同行動を促すことにより、社会の効率を高め、成長や開発、持続にとって有用に働く社会関係上の資源のこと。とあります。第11回講義で、バングラデシュのBOP層が共同して、貧困からの脱却を図るため、共同で緑豆栽培の品質改善・選別機械の導入等を行い、収入の向上を図った事例を勉強しました。
事例は、バングラデシュのことではありますが、ソーシャル・キャピタルを、共同目標・共同行動・社会効率UPと考えると、ソーシャル・キャピタルを身近に感じることができました。その視点から私の身近でどのようなことがあるかを考えました。大田区の町工場が主人公となって行っている「おおたオープンファクトリー」があります。そこでは、町工場・商店街・学校・行政等が共同して地域の活性化等を図るものです。その中の企画に、子供たちへのモノづくり体験(溶接、鋳物、ワークショップによるミニカー製作等)があります。結構人気があり、アンケートを取って毎年体験内容等を改善していますが、それを、ソーシャル・キャピタルでいう共同目標・行動を考え、子供たち自身が楽しめ・勉強できる体験を目標にし、子供たち自身により考え提案してもらう方法を、大人たちがとることにより、目標をより高く達成できるのではないかと考えました。更に、子供たちが主に使う公園や施設の建設についても、この方法をとることにより、より良いものができるのではないか、また子供たちのネットワークや信頼感が醸成され、今後の社会に役立っていくと考えました。
また、第9回講義のAbout Social Capital > What You Can Doには、ソーシャル・キャピタルは、私たちが毎日行う何百もの小さなアクションと大きなアクションによって構成されています。として144の事例を紹介しています。
以上から、社会、地域、近所などの問題解決・政策立案実行には、ソーシャル・キャピタルが必須であり、その重要さを学び、そして、ソーシャル・キャピタルのテーマは、大きなものもから身近な社会生活の中にも多く存在することを学びました。自身も積極的に行動を起こしていくこと、研究に取り込んでいくことを考えた次第です。
【研究テーマ・関心との関連性】
私の研究では、日米のフードバンクの調査を行っています。フードバンク活動について、ソーシャル・キャピタルの視点からも調べていこうと考えました。例えば、貧困撲滅という目標に対し、アメリカ最大のフードバンクFeeding America[注1]では、食料の提供だけではなく、食料を欲している人達に手に職を付ける「コミュニティ・キッチン(調理士育成学校)」の活動をしていることが分かりましたので、更に広く調べていきます。
また、講義でありましたアメリカ人の寄付行動やボランティアも、研究に大きく関わります。日米の寄付金額やボランティア時間だけの比較ではなく、国民の各種の社会行動との比較や所得に占める割合、年齢階層別の行動等についても調べていこうと考えています。
更に、課題を大きく捉えて、「貧困」という社会問題に対してのソーシャル・キャピタルの研究を調べていきたいと考えています。
[注1]大原悦子(2016)『フードバンクという挑戦〜貧困と飽食の間で〜』岩波書店
- Xiang LI XIANG
【本講義の履修前後の感想】
今学期は上沼先生の政策科学Uという授業を受けた。この授業を受ける前に、政策の決定や社会資本の構築は政府だけに関係していると思った。「ソーシャル・キャピタル」の概念を触れた後、社会関係資本の構築と維持が人々共通の目標であることが分かった。 鹿毛利枝子さんの論文を読むことによって、ソーシャル・キャピタルをめぐる議論をより深く理解できた。About Social Capital > FAQs には、アメリカのソーシャル・キャピタルの発展変化を質疑応答形式で述べて、ネットワークや科学技術の進歩により、ソーシャル・キャピタル構築への妨害が指摘されており、確かに自分の周囲にもこのような変化が生じている。ソーシャル・キャピタルの概念はより多くの人に知られるべきだと感じている。「われらの子供」を読んで、子どもの間に生まれている格差が、問題は深刻にしているということは事実だ。社会資源は一方で、人々の意識の目覚めも重要だと思う。ソーシャル・キャピタルの重要性を人々に意識させるべきだ。そして、ソーシャル・ビジネスに関する様々の例を通じて、Win-Winのビジネスモデルは非常に良いと思う。持続可能な開発目標(SDGs)に合致する。
また、図書館の情報検索とRefWorksの利用方法を学んだ。利用できるデータベースが広い、自分が利用したい資料を簡単に見つけられる。勉強や研究にとても役立つと思う。先生から与えられた資料をを通して、実用的で意味のある知識をたくさん学んだ。
【自分の研究との関連性】
私が研究している課題は、ブランド・リレーションシップの構築についてである。この課題は、主に消費者とブランドの関係構築をめぐって展開している。消費者とブランドは双方向の関係性を創造していく。この関係型の構築は、消費者の個人状況と企業ブランドイメージだけではなく、両者の間の信頼関係が長期的に持続していることにも関係がある。このように、顧客にとって,対面サービスはオンラインショッピングよりも信頼感が多いに違いない。店舗での実体験も従業員との直接コミュニケーションも、顧客の信頼感を高めて、顧客ロイヤリティを作りやすくなる。しかし、技術やネットワークの普及により、信頼関係の効率を大きく低下させている。人々の対面の交流を妨げている。この点については、ソーシャル・キャピタルの学習を通じて、新たな考えをくれた。
そして、ユニクロは中国に進出した時、ブランドのリーポジショニングを行い、中国のソーシャル・キャピタル、サプライチェーン、ビジネス資源と人々の消費理念を利用して、新しいのビジネスモデルを構築した。この例は、現地のソーシャル・キャピタルを利用して、持続可能な開発目標を作った。
【参考文献】
- 青木幸弘(2011)「ブランド研究における近年の展開 : 価値と関係性の問題を中心に」『商学論究』58巻4号:43〜68関西学院大学商学研究会
- 柳田秀一(2004)「日本におけるブランドマネジメントに関する一考察」『同志社政策科学研究』6巻1号:269〜288同志社大学政策学会
- Huiwen YAN HUIWEN
【授業のbefore/afterの感想】
授業を受ける前には、ソーシャルキャピタルや社会政策について全然わからなかったです。それについて、先生は始めから丁寧に教えました。
まず、学校の図書館情報検索システムの使い方を学び、ソーシャルキャピタルの基本定義と自分が関心を持った内容を調べました。これによって、ソーシャルキャピタルについての基本知識だけではなく、学校のデータベースの使い方もマスターしました。この後、RefWorksの使い方とデータのダウンロード方法について学び、今後、自分の先行研究検索と整理に非常に役に立ちました。
それから、正式に授業のテキストを読解し始めました。まずは鹿毛利枝子(2002)のアメリカ社会科学の研究文献を読解し、「ソーシャルキャピタル」論の起源、概念と効果を知りました。文献の最後では日本をケースそして、「ソーシャル・キャピタル」の応用について検討しました。この文献を通じて、「ソーシャルキャピタル」の発展と現状をより一層理解しました。この後、R・パットナムのSC概念を読んで、より一層ソーシャル・キャピタルの概念を理解することができました。彼のウェブサイトと著作『われらの子ども』から、現代社会の問題点を意識しました。そして、現代社会にとって、格差拡大の影響とソーシャル・キャピタルの重要さについても説明しました。問題点を指摘するだけではなく、R・パットナムは現状を改善するために、普通の人でもできる150個近くのアイディアを提供しました。最後に、M・ユヌスのソーシャル・ビジネスの活動について学習しました。M・ユヌスのソーシャル・ビジネスは住民の経済的困難を解決するだけではなく、生き方や社会システムを変えようとしています。以前では、このようなビジネスの形があるとは知らなかったです。このソーシャル・ビジネスがもたらす社会的効果に非常に感動しました。
【自分の研究との関連】
私の研究テーマは、「上海の産業集積化がインターネット企業に及ぼす影響」です。上海は中国の経済的中心都市の一つとして、巨大な潜在力を持っています。もし上海の産業集積化が有効であれば、それを模範的な例として全国に広げることが可能できると考えています。私は、主に政策の有効性に対して研究したいですが、ソーシャル・キャピタルの概念を学習してから、このことは私自身の研究にも関係していると思っています。産業集積を発展するには、都市化を意味します。集積の外部化によって、人と人の関わりが重要になりました。学習の外部性を上手く発揮するためにも、ソーシャル・キャピタルを発展しなければならないです。よって、ソーシャル・キャピタルに対する影響も政策評価の一つの指標だと思います。
*2019年度は、担当教員の特別研究期間取得により「休講」。
2018年度秋学期メンバーによるリポート(at random)

中山さんと記念写真
- 中山昌生さん
【授業を受ける前と後の違い】
市場メカニズム至上主義的な経済社会のあり方に対して、かねてより違和感を感じていて、ソーシャルキャピタルの概念に関心を持ち、受講しました。
講義の中で、ムハンマド・ユヌス氏や栃迫篤昌氏の活動を追う中で、なぜ市場経済からこぼれ落ちてしまう人々が出てしまうのか、こぼれ落ちた人々を救いだし、自力で市場に漕ぎ出してもらうために何が必要なのか、改めて考える契機となりました。市場の失敗とその対策といったところからは相当に距離のある、また個性や能力といった単純な個人の要素に還元しては見落としてしまう、人間関係やそれぞれの社会固有の事情が大きく関わっていることに、今さらながら気づかされました。
ホモ・エコノミックスの仮定のもとに分析を深めてきた近代経済学にのみ込まれて、経済・社会活動を、市場メカニズムで統御できる活動と、できない活動に二分して考えることはしても、知らず知らずのうちに経済活動の主体としての個人をバラバラに独立した存在として捉える癖がついてしまっていることを認識しました。
また、授業用ページにある米本昌平氏の「研究活動を大学や職業研究者の独占から一般人に解放することが必要」で、その理由の一つは「われわれが充実した余暇活動を獲得するためである。少なからぬ人が、生涯教育と称してガラクタを詰め込まれるより、重要な課題について研究することの面白さと難しさを楽しみたいと思っているはずである。」という言葉を知ることができたのも今回の収穫の一つで、今後はこのU言葉を支えにして、研究活動を楽しんでいきたいと考えています。
【自分の研究との関連性について】
公共的組織に対する統制機能をテーマにしています。市場メカニズムのおよばない公共領域の活動の効率を上げるために、市場メカニズムに代わって財・サービスを評価し資源配分を最適化するシステムの構築に、従来以上に力を傾けるべきと考えています。
公共組織にもそれぞれの歴史的経緯や組織風土の違い、置かれた環境の違いなど、個人をホモ・エコノミクスと抽象しては見落としてしまう様々な要素があり、そこへの配慮を欠いては実効性のある政策提言にはつながらないことに改めて気づかされました。
- 匿名さん
【本講義を受ける前と受けた後の、before/afterの感想】
日本に「ソーシャル・キャピタル」という概念は根付きにくいのではないか。以前からそのような意見を多く聞いていたし、また自身でも難しいだろうと考えていた。その根底には、以下のような意識があるようだった。
欧米では、宗教を基盤に人々の信頼関係が醸造され、地域で社会問題を解決する。一方、日本は近代以降、個々人の孤立が進み、地域のコミュニティよりも、政府と個人という二方向、もしくは政府頼りに社会問題を解決している、という意識だ。
確かに私の身近でも、地域のコミュニティなど社会のつながりは失われている。マンションの自治会や町内会ですら参加したくないという人が増え困っていると自身の住むマンションの管理人さんから聞いたこともある。
マンション、地域、社会の問題は、そこに所属する全員の問題ではないか。誰かが、区長が、政府が、解決してくれると他人まかせにしていては、問題を効率よく、公正に解決することは難しい。しかしどうすればよいのか、疑問に思っていた。
本講義を受け、「ソーシャル・キャピタル」こそ現代日本が必要とする概念であり、人々が社会問題へと主体的に関わるきっかけを生むと気づかされた。また、講義内で紹介されたように、国内でもNPO法人が長期的に社会問題の解決に関わっている。
このような成功例を多く紹介すること、そのノウハウを共有することによって、日本に「ソーシャル・キャピタル」が根付くのではないかと実感することができた。
【自分の研究との関連】
私は河合栄治郎の思想を研究している。彼は、労働問題の解決や、現代におけるベーシック・インカムの概念を提唱するなど、社会問題に強い関心があった。中でも、彼は、海外の労働者が団結して自らの問題を解決していることに強い感銘を受けていた。
私は、本講義を通じて、海外の労働者がこのように主体的に行動できる基礎には「ソーシャル・キャピタル」の概念があるからではないかと考えた。河合の思想を「ソーシャル・キャピタル」の概念を参照して分析していきたいと考えている。
2017年度秋期メンバーによるリポート(at random)

撮影当日出席の1名と(撮影者は職員さん)
- リュウヨウ
【本講義を受ける前と受けた後の、before/afterの感想】
政策科学の講義を受ける前に、公共政策学はどういう学問なのか、何の意味があるのかについて、さっぱりわからなかった。何となく政治や行政などのイメージがあるけど、私たちの生活に遠く、あまり関係がないと思っていた。しかし、実際にテキストを読み、講義を受けたら、公共政策学は実に私たちの生活に欠かせない身近にある大切な学問だと感じた。昔の自分の考え方が大間違いだった。
通勤・通学ラッシュの問題のように、個人では解決しにくく、社会で対応せべき問題が「政策問題」とされ、その政策問題の解決案が「公共政策」である。さらに、政策問題とその解決策である公共政策とを研究の対象とするのが公共政策学である。現代社会において社会問題はますます複雑になり、既存の学問では十分な解決策を提示できない、そうした意識から生まれたのは「公共政策学」、政治学や行政学、経済学など多分野の知識を総合化した新しい学問だ。専門家のみならず、市民の「知」も取り入れるなど、問題解決に役たつ学問へと進化しているようだ。公共政策学をどのように構築していくのか、それはより良い社会をつくっていくための公共政策の改善にもつながっていくのであると感じた。
【研究テーマ、関心と、講義内容との接点】
今のところ、研究テーマはまだ確定していないが、関心にあるテーマは「中国における日系企業の経営現地化戦略」だ。ざっと見ればこの研究の内容自体は公共政策学と関係ないが、公共政策学の中に使われた問題発見の方法、解決案の設計プロセスなどが私の研究に大いに啓発された。
本講義を使っていたテキストは秋吉貴雄先生の『入門 公共政策学』だ。冒頭の部分が公共政策学の特性について、研究対象である政策問題や公共政策の特性とともに説明された。さらに、政策のプロセスの各段階について取り上げ、「問題」:政策問題の発見と定義、「設計」:解決案をどのように考える、「決定」:政策の決定仕組み、「実施」:政策の実施、「評価」:効果の測定と活用などの章に分け、それぞれの章で「少子高齢化対策」といったモデルケースなどをもとに、公共政策学の基本的な考え方や手法を紹介してくれた。特に最初「問題」のところ、いかに発見され、定義されるのかの手法について、これから自分の研究でも活用できると思っている。やはり学問自体はそれぞれ違うけれど、研究方法や問題発見のコツなどが似っているところが多い、理解した上に活用することが一番大事だと感じた。
- K・N
【授業を受けて】
私は新聞記者を経てジャーナリスト活動をしている。福祉・医療・労働が取材分野なので、様々なつながりのある「障害者の就労」というテーマで修士論文を進めている。
報道と研究は、似ているようで違う。「人の役に立つ情報を提供する」という点は同じだと思う。すでに国内外の就労の現場を訪ねており、材料には困らない。だが、もやもやを抱えていた。
どうやってテーマを絞るか?先行研究って、どの程度まで深めればいいの?
基本的なことがわからず、誰に聞いていいかも知らなかった。上沼先生に紹介された課題書「入門 公共政策学」と照らし合わせると、方向性が見えてきた。
起きている問題をどうとらえるか。どうしたら解決していけるのか。その評価は。自分のテーマに置き換えて考え、必要なものは何かがわかった。さらに、厚生労働省がらみの取材をしたときの経験を思い出した。経験を生かしつつ、研究というスタイルに挑戦できると確信した。
授業中に図書館に行ったり、パソコンで検索したりの実習も役に立った。四半世紀前に、早稲田の学生であった頃は活用していなかった図書館について知ることができたのは大きい。これから上手に利用していきたい。
機会が合えば、また先生の授業を選択したいと思う。
2016年度秋期メンバーによるリポート(敬称略、at random)

メンバー集合写真(内1名が撮影)
- 山本 嵩
【本講義を受ける前と受けた後の、before/afterの感想】
本講義では、ソーシャル・キャピタルの概念、またその具体例としてアメリカの会員組織や、日本の各団体を取り上げ、ソーシャル・キャピタルの意義について理解を深めてきた。私の研究の関心が、経済格差に伴う教育格差の再生産にあったため、ピエール・ブルデューの提唱する3つの資本、すなわち文化資本、経済資本、社会関係資本の差異から社会的不平等が再生産されるという理解から、ソーシャル・キャピタルに関心を持ち、この講義を受講いたしました。具体的にソーシャル・キャピタルがどのように問題として認識され、そして活用されてきたかについて、この講義を通して理解を深めることができ、大変参考になりました。
講義受講後に改めて思うことは、ソーシャル・キャピタルが社会的な土壌としての役割を持つということ、すなわちソーシャル・キャピタルが醸成されているか否かで、実施される政策の効果が大きく変わるということ、そしてその醸成の実現には、文化的・経済的豊かさよりも、家を空けるにあたって必要な安全性、託児所や交通機関などの設備(ウスナウ、p85)にあるということ、これらの視点は、私の考えていた社会的不平等へのアプローチとは異なる視点であったと感じました。
【各自の研究テーマ、関心と、講義内容との接点】
修士論文では、コスタリカ共和国における階層化と社会的不平等に関して、教育政策の変遷、およびそれによって生み出された国内における教育格差に着目した研究を行いました。社会階層や教育政策といったマクロ的視点から社会的不平等について分析を行ったこともあり、先にも述べたように、よりミクロな視点を分析するソーシャル・キャピタルとはあまり接点はありませんでした。
しかしながら、修士論文を書き終えよりミクロな視点からの分析も加えなければ十分に議論したということができないと強く感じたことから、現在の研究をさらに深めていく手がかりとして、今回講義で学んだ視座を活かしていくことができるのではないかと考えています。その意味では、講義の内容はすぐにピンと来ない、時間の経過とともに繋がる時が来るという学びの極意を、少しは感じることができたのではないか、と思います。短い期間でしたが、ありがとうございました。
- A.G.
【授業のbefor/afterの感想】
私にとっての政策科学の講義のbefor/afterは、第一に、修士課程の学生として研究を進めていくための基礎知識やツールを手に入れることができたこと。第二に、ソーシャルキャピタルという正直あまり聞いたことのない言葉に関する理解が深まり、今後の私の研究の参考になりそうだと感じることができたことである。
講義の最初の方では、早稲田大学図書館のHPに入り、WINE検索や、論文検索、学術情報検索システムなど使いながら、資料の探し方について学び、実際に資料探しを行った。また、Refworksという文献管理システムの使い方について学んだ。確かにこのRefworksは、図書館検索の際にマークだけは見かけたことが会ったかもしれないが、実際に使ったことは一度もなかった。このRefworksを使うと以前やったWINE検索からそのままRefworksに引っ張ってきたり、自動で文献リストの出力などを行うことが出来、研究の効率化が図れると感じた。そしてこれらの知識は断片的にはわかっているつもりでいたが、体系的に学ぶ機会がなく、本当にこの講義を履修して良かったと思っている。
ソーシャルキャピタル/社会関係資本とは、簡略に述べると「様々な社会的ネットワークと、それらに関わる相互依存の規範」(パットナム2013『流動化する民主主義』ミネルヴァ書房p.3)である。この社会関係資本の形態はさまざまで、クラスであったり、地域のクラブチームであったり、インターネットのチャットグループであったり、市民社会において人々のもつ社会的ネットワークである。そしてこの理論は比較的新しい理論ともいえ、私たちのとかかわりが近いものであるといえる。こういった理論について学ぶことができたのが、この講義を受講した最大の収穫である。
【自身の研究テーマとの接点】
私の研究テーマは、スペイン・カタルーニャにおける地域ナショナリズムについてである。そしてこれがいつから噴出したのか、その政治的源流を探ろうとしている。これとソーシャルキャピタルの関連について、私は非常に大きいと考える。カタルーニャは、スペイン中央(マドリット)とは異なった文化を持ち、言語を使用してきた。そしてこれは、カタルーニャ地方の中でまさしく相互の社会的ネットワークを通して、培われ、アイデンティティが高められていったと考えられる。今後研究をさらに発展させていくうえで、政治制度ではなく、カタルーニャ市民社会にフォーカスする際に、ソーシャルキャピタルのものの見方が役立つと考えた。
- 飯高直樹
【授業の感想】
この授業でソーシャルキャピタル、社会関係資本について学ぶことができて本当に良かった。というのは、今の日本にこそ、社会関係資本が必要であると感じたからである。
今の日本には、人間性や人格を形成する環境もあまり無ければ、人生とは何か、人間とは何か、幸せとは何かなどの根本的な問いに向き合い、考える機会があまり無い。
学校は受験合格を目指した知識詰め込み教育しか出来ない現状にあるし、若くして子供を産む人達も増えてきたことから家庭でマナーや善悪の基準など教育出来ない家庭も増加してきている。宗教も存在しないし、秩序も存在しない、価値観は人それぞれに任せっきりにして、ただひたすらに多様性を認めているだけである。学校は道徳を教科化しようとしているが、何が正しいのか、倫理観、善悪の基準は知識で身に着けられるものでもない。
だからこそ、この授業で学んだ社会関係資本というものが日本の将来の希望であると感じた。社会関係資本の魅力は様々にあると感じたが、人材育成という面においても、社会に影響を与えるという面においても無限の可能性があると感じた。生涯教育という分野と少し被るかもしれないが、小さい子からお年寄りまで様々な年齢、様々な背景を持っている人と実際に対話し、触れ合う中で、内面的な発達はされていくと思うので、そういう意味でも社会関係資本は大切だと思うし、社会関係資本が社会に思想を発信していくことができる足台にもなると思う。
アメリカの例を学ぶ中で、アメリカという国を本当に社会関係資本が支えていると感じた。様々な思想の団体が混在してはいたが、国に良い影響を与えたいと実践、実質的変化を大切にするかのような若々しさはどの団体も共通しているのではないかと感じた。結局、国も一つのコミュニティであり、国という名前が付いているだけであって、一つの社会関係資本と言っても良いのではないか位に感じたし、宗教団体に関しても、キリスト教、イスラム教などもただ人間がジャンル分けをしただけであって、同じ思想を持った一つの社会関係資本と言っても良いのではないかと思った。
この世界は人間同士のコミュニティで出来ているんだなと、この授業を通して学び、感じることが出来た。
【自分の研究との関連】
私の研究分野は、一言で言えば「世界人権宣言の人権の定義と聖書との関係性」である。「法と宗教との関係性について」も研究している。国の成り立ち、国がどのように成り立っているのかなども勉強したいと思っていたので、この授業を学べて本当に面白かった。社会関係資本がどれほどの影響を社会に、また歴史に与えているのかを改めてもっと勉強しながら、世界が、日本がこれからの未来にどのような方向に進んでいくべきなのかを考察したいと思った。
- R.K.
【授業の感想】と【自分の研究との関連】
『社会科学者は、長期的社会変動の「現実の」あるいは「基礎的な」原因は経済的なものだと推測するのが常である。だが戦争と政治的争いもまた社会と文化を形づくる』とシーダ・スコッチポルは述べているが、今期で私が研究したアメリカにおけるLGBT権利運動の歴史にも類似の文脈があった。
まず、アメリカで「同性婚」の法的な是非を巡る議論が活発になったきっかけは、1980年代に起こった ゲイの男性間のエイズ流行、そして同性愛者 の間のベイビーブームにあり、この 2 つの大きな動きによって、ゲイとレズビアンはパー トナーとの法的な結び付きを強く求めるようになったという。
そして、大統領選挙準備期間中にオバマ大統領が同性婚の支持を表明し、それに対して性愛行為を深い罪とするカソリック信者、特に右派が強硬に反論したため、国論を二分する論争にまで発展した。
これがNPO団体の活動を活発化させ、地域に根差すLGBTの象徴的な建物であるコミュニティ・センターを起点に、様々な団体が運動を行い、一部のリーガルアドボカシー団体は企業へ積極的に働きかけ、2015 年、同性婚の審理が連邦高裁判所 で行われるに当たっては、アマゾンやアメリ カン・エクスプレス、アップル、コカ・コーラ、マイクロソフト、ナイキ、フェイスブック、ツイッター、グーグルを始めとする 379 もの企業が名を連ねて、同性婚の合法化を求 めるアミカス・ブリーフを高裁に提出し、同裁判の判決によって「同性婚」は全州において合法化されたという。
ただし、日本においてはLGBT関連の運動は活発でなく、「同性婚」合法化についての議論も目立って行われてはいない。これはLGBTの権利問題が、日本においては政治的、もしくは宗教的な争点とならないことが要因であると考えられる。すなわちシーダ・スコッチポルの言う通りに、何らかの争いも社会と文化を形づくるのであり、私はこの点に深く同意した。
『日本は、社会関係資本に恵まれた国としてしばしば引き合い出される』という猪口孝の言は、意外であった。総務庁統計局が国民に対して実施してきた生活時間調査の結果の推移も私にとっては予想外のものが多かった。日本は社会関係資本が生活の質の向上を促す、という事例やシステムが、欧米に対して「遅れている」「社会関係資本も十分でない」と特にメディアで表現されることが多いが、国によって異なった社会変動によって異なった社会関係資本を実現し、日本はただそれを上手く活用しきれていないのかもしれない。確かに保育施設や高齢者施設の数は増えているが、それでも地域によっては待機児童が出たり、また施設における高齢者虐待が盛んに報道されたりしている。特に高齢者虐待は私の本研究テーマである。
施設はたいていの場合「ハード」のスペックが価値として捉えられるが、その空間でどのように豊かに暮らせるか、「ソフト」の部分に主眼をおくことが、社会権系資本の観点からすれば重要である。
日本とアメリカが異なった社会関係資本の変革の歴史と現在のあり方を持つように、日本国内でも地域によってそれらは異なるため、画一的なシステムでは社会関係資本の活用を促すことはできない。ある空間における豊かな暮らしの実現のためには、その空間の社会関係資本が重要な要素となることは間違いないと思う。
高齢者施設について言えば、内部の関係資本もそうであるが、外部団体との橋渡しが大切であり、異質なもの同士の連携は社会関係資本の発達を促す。高齢者施設は、高齢者の生活の質よりも、施設側の「過失」によって、高齢者に身体的な害を負わせないことにのみ執着しているように見受けられる。そのため高齢者施設は閉鎖的になりやすく、最も社会関係資本が軽んじられている場であると感じた。そもそも日本は「労働力」が重視される国であるとしばしば表現され、そのため高齢者の生活支援自体が軽視されているのかもしれない。
とにかく、高齢者施設における社会関係資本の醸成が喫緊の課題であり、それが施設内部で起こる高齢者虐待をも解決するのかもしれない、と今回考えた。
【参考文献】
- https://en.wikipedia.org/wiki/LGBT_community_centre(2017.1.5 アクセス)
- https://gaycenter.org/(2017.1.5 アクセス)
- http://www.huffingtonpost.com/2015/03/05/marriage-equality-amicus_n_6808260.html(2017.1.12 アクセス)
- http://www.ohchr.org/Documents/Publications/BornFreeAndEqualLowRes.pdf(2017.1.12 アクセス)
- コウ シユ
【授業の感想】
現代社会における様々な問題を解明し、その対策を考えることが政策です。政策科学は、政府などの公的機関が行う政策を改善するための学問です。実際、この授業を受ける前の自分にとっては、政策科学は一体どういう学問なのかが理解しにくかった。その後、先生の授業を受けたり、様々な資料と本を読んだりして、政策についての学問はよく勉強して分かるようになった。
この授業は、一番印象深いのは、最初のRefWorksの文献管理システムの講習です。大学の時に、文献資料を探すのに困って時間がかかりました。特に、大学院に入って、先生から配布された参考文献リストや、本・論文の末尾の参考文献リストを見て、そこに載っている資料を入手したい時に、「どうやって探せばいいですか。」と困ったことがあります。RefWorksの文献管理システムの利用方法を習って、とても役立ちました。
【自分の研究との関連】
アメリカの学者Harold Dwight Lasswellは「政策科学は社会における政策作成過程を解明し、政策問題についての合理的判断の作成に必要な資料を提供する科学」であると政策科学を定義しています。政策科学の研究は多分野に及び、法学、政治学、経済学、社会学などの社会科学の研究と重複する分野が特に多い。
【修士論文のテーマ】
修士論文のテーマは、シャルリー・エブド襲撃事件です。この事件から注目したのは、移民政策と同化政策です。フランスは、欧州最大の移民国家であり、イスラム系移民の数と比率ともに欧州一です。フランスは、第二次大戦以降、労働力不足緩和のため旧植民地出身者を中心に、移民を大量動員した政策を行いました。そして、長い時間を経て、イスラム系移民は、就職などでも差別を受けており、そうした状況に対してフランス政府もこれといった対策を取らずにきました。イスラム系移民は、特に不満を持つ底辺のムスリムは孤立化し、過激化する傾向にありました。
今年、私が研究しているテーマは、ヨーロッパの移民問題と難民問題です。最近、ヨーロッパの難民問題が厳しくなっています。弾圧や迫害を受けて難民化した者に対する救済と支援が、国際社会に義務付けられていると考えています。この問題に対して、特に非政府組織が重要だと思います。今学期、「国際協力とソーシャル・キャピタル」を通じて、自分のテーマに新たな面貌を再発見しようと考えています。
- 崔 言
【授業の感想】
政策科学の授業を受ける前に、社会関係資本、つまりソーシャル・キャピタルについて、少しだけの知識を持っていた。簡単にいえば、人々が持つ社会的なネットワークも社会関係資本と言える。国と地域によって、この社会関係資本の構成も変わる。しかし、授業を受けてから、この単語の中の複雑さを深く感じた。現実には、ソーシャル・キャピタルの概念を端的にいえば、「社会問題に関わっていく自発的団体の多様さ」「社会全体の人間関係の豊かさ」を意味するといえる。私の最初の理解は、単なる「人間」に関する一部だけだった。留学生として、2年前から来日し、日本において自分の新しい社会ネットワークを作り始めた。実は、中国と日本は同じアジアの国としても、その社会関係資本は違うものと感じている。
中国では、家族を基本とする独特の伝統的社会関係が形成されてきた。社会関係が個人中心に考えられてきた欧米諸国とは対照的である。家族は、中国社会において最も基本的な社会関係となっている。現代の中国は、家族を大切することに加えて、個人の自立と個人責任の確立、自由と安定の両立が求められている。
地方都市の収入源が安定する家庭で育てられてきた人の過半数は、親離れをせず、同じ地域内で仕事をして、家族を作る。一方、経済があまり発達しない農村部の農民は、お金を稼ぐために、若い頃から都市に移動する。これは昔からの強い紐帯で結ばれた伝統的な血縁・地縁などの基礎ネットワークから弱い紐帯で結ばれたネットワークへと変化している。この傾向に伴い、農村における社会関係資本も新しい姿へ変化している。
近年来、中国において友人関係が重要性を増してきている。例として、中国最も伝統的な祭日である春節期間に、人々が新年の挨拶をおこなう「拝年」と言う慣行がある。これは、中国の伝統文化の下で人々が人脈関係を維持し発展させるための、独特なネットワークといえる。この慣行に関しても、個人レベルのつながりが広がりつつある傾向がみられる。親戚は「拝年」の中で主な部分ではあるが、その次には友人が挙げられている。
【自分の研究との関連】
スマートフォンとタブレットからのインターネットアクセスが普及し、SocialNetworking Service(SNS)は、その発展と同時に急速な展開を遂げてきた。
自分の研究として、人々はSNSを通じ、webでその思い思いをアップし、短時間のうちに広く伝達され、人々に共有される。また日常生活に全く知らない人と同じ興味と感想を持って、SNSを使って自発的なコミュニティを作成して、コミュニケーションを通じ、ソーシャルメディアにも深い影響を及ぼしている。SNSを利用したマーケティングをする企業も増え続けており、企業の活動内容に接する頻度が高くなる、または企業のイメージに影響を与えるSNSマーケティングはクチコミの進化形と言えよう。
私はこれらを、この時代から進化し続ける社会関係の一部と考えている。
【参考文献】
- 野沢慎司(2006)『リーディングス ネットワーク論−家族・コミュニティ・社会関係資本』勁草書房
- チョウ ジ
【授業の感想】
春学期は上沼先生の政策科学Tの授業を受けたが、シラバスは明確であり、分かりやすいので、今学期の授業も受講した。今学期は、ロバート・D・パットナムの『流動化する民主主義』を使って、主に社会関係資本をめぐって展開した。テキストの内容は先進8ヵ国におけるソーシャル・キャピタルであり、授業で時間が限られているので、序章の社会関係資本の概念とアメリカ合衆国と日本における社会関係資本について深く勉強した。
社会関係資本には、個人の生活と社会全体を豊かにするという二つの側面がある。個人的レベルの社会関係資本は、人脈や人々が持つ信頼関係を指す。進学や就職、あるいは社会的に高い地位につくための重要な資本である。一方、地域的な社会関係資本とは、ある特定の地域社会における人脈や信頼をもとにした人々の協働を促す資本である。つまり、地域の仲間に対する一般的な信頼、お互いに助けるという規範意識、親族を超えた広い人間関係のネットワークなどを指す。
大学院の入試試験を準備した時に、一応社会学のテキストを通して社会関係資本について勉強したことがあるが、今学期の授業を通して、深く理解できるようになった。また、アメリカと日本の社会関係資本における共通テーマや相違点も分かるようになってきた。今後、どこの国でも投票率の低下、組合加入率の低下、教会礼拝の減少が社会問題になり、社会的な紐帯を維持・再構築することは社会政策にとって重要な要素になると考えられる。
【自分の研究との関連】
私の研究内容は、在日技能実習生の人権保障である。外国人技能実習制度は、発展途上国の経済発展を担う人材を育成することを目的とした制度であるが、受け入れ機関の一部には技能実習生を安価な労働力として悪用する問題が生じている。今までの監理(監督)機関は、人員の限界があるため、不正行為の取締りに積極的な役割を果たせていない。技能実習生は、企業と摩擦を起こす場合、助けを求めるのが困難である。したがって、地方労働組合や市民組織・団体の介入により、紛争を解決したり、新しいチャンスを生かしたりするのが求められる。
一方、日本法務省の統計によると、2015年の時点まで、在日技能実習生総数は192,655人であり、長く中国が最多であるが、近年は東南アジア諸国が急増した。宗教的問題や異文化によるトラブルの発生など、新たな問題に引き込まれる可能性がある。社会的交流を増やし、技能実習生を外人として扱うのではなく、地域活性化の担い手でもあると見なし、地域社会メンバー間の信頼関係を築くことが欠かせない。
技能実習生は、日本の人手不足の解消に向けた働き手であるため、継続的な技能実習生の受け入れ体制の維持が必要である。人々の信頼関係を築く、互酬的の規範、人間関係のネットワークという社会関係資本の三つの側面から、NPO・NGOにおける支援を検討し、技技能実習生に関する体制を整え、地域社会の生活状態を向上させることが期待されている。
【参考文献】
- 石ア直一,依光正哲(2004)日本における労働組合の外国人労働者に対する支援活動と組織化,Discussion Paper,No.211
- 坂幸夫(2014)「中国人技能実習生の減少とインドネシア人技能実習生―東アジア共同体との関連で―」富大経済論集 59(3), 497-513, 2014-03
- 『本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!』現代位相研究所
- 全 銀河
【授業の感想】
最初の授業で、早稲田大学図書館の学術情報検索システムの利用方法を学びました。WINE蔵書検索、論文検索方法を習うことで、日常の勉学に便利さが増して非常に助かりました。何より新鮮だったのが、RefWorksの文献管理システムでした。これは図書館の学術情報検索システムとリンクできて、普段調べたり読んだりしていた本のリストをいちいちどこかにメモする手間を省け、簡単に記録かつ永久に使える文献リストの作成ができるという素晴らしいシステムでした。今後の研究の基盤となる文献シストを普段から整理できてとても役に立ちました。
「政策科学U」では、『流動化する民主主義』という本をメインに、「社会関係資本とは何か」、「アメリカ合衆国ー特権を持つ者と周辺化される者の橋渡し?」「アメリカ合衆国ー会員組織から提唱集団へ」、そして「日本ー社会関係資本の基盤拡充」について習いました。社会関係資本の知識は、今後の自分の研究にとても参考になると思いました。また、アメリカや日本の具体的な事例を通して、比較しながらより深い理解が出来たと思います。
【自分の研究との関連】
ソーシャル・キャピタルを簡単にいうと、従来のキャピタルの意味は物的、金融的、人的(教育)の財に対して、ネットワークに蓄積された資本のことを指す。従来の資本のように、投資が必要で、使われなければ損耗するし、外部経済と不経済のように、ソーシャル・キャピタルにも内部の団結効果もあるが、また外部との関係を断ってしまったりなど、プラスとマイナスの効果がある。よって、従来の経済学の中のキャピタルと大差はないと授業で学びました。
現段階で、私ははっきりと自分の研究テーマを決めていないのですが、キーワードとして福祉国家、労働政策、ヨーロッパ諸国、少子化問題について考えてみたいと思います。
授業の参考資料で、ソーシャル・キャピタルが開発に与える影響としては、1.既存のソーシャル・キャピタルが所期の成果の実現を促進(あるいは阻害)する可能性、2.プロジェクト活動の期間中に当該社会において「信頼関係」「ネットワーク」「規範」などのソーシャル・キャピタルが適切に育てば、プロジェクト終了後も成果が持続的に機能し続ける可能性、という2通りがあると書いてありました。
福祉国家が労働問題の改善や福祉政策を作るときに必ず直面する、各階層の既存利益との衝突もしくは一連の社会的パートナー間の交渉と妥協を、ソーシャルキャピタルの考え方を一つのヒントとして、今後の研究に使えたらいいなと思いました。今後更に理論を勉強し、事例を参考しながら、理解を深めていきたいと思います。
社会科学をこれから学んでいく学生として、この授業でたくさんのことを勉強することができました。理解が浅くでもいいので、兎に角、たくさんの理論を読んで、理論の応用と各国の事例を集めて、基礎知識を補充し思考能力を鍛えていきたいと思います。
2016年度春学期メンバーによるリポート(at random)

メンバー集合写真(内1名が撮影)
- W.XX
【授業のbefore/afterの感想】
「授業準備体操」として最初に、早稲田大学図書館の学術情報検索の仕方を学びました。その中で、WINE蔵書検索、論文検索、データベースを利用し、日本語文献、英語文献、中国語法律原本・行政通知・人民代表大会報告など探しました。この授業だけではなく、他の授業にも役立ちました。一番特別なソフトは、Refworksの文献管理システムだと思います。これと図書館の学術情報検索システムを通じて、自動的に文献リストを出力できます。これらの技能を習得することは、修士課程の研究にとっての基礎能力を身につけます。
「政策科学I」は、社会科学における理論とモデルについて紹介してくれました。特にゴミ箱モデルと政策の窓モデルを勉強し、それらは今後の研究にとって非常に役に立つと思います。また、日本、アメリカの事例を通し、モデルを理解しやすくなりました。
政策の窓モデルについて、最近、中国語の研究では非常に人気があり、「政策窓口期」、「政策の窓を開け」など用語もよく見えます。改革開放から、いろいろな政策が制定され、「政策の窓」は制定者のみならず、すべての公民にとって大事なことです。知識人たちが「窓を閉じたら、改善できなくなってしまう」という警戒感を持ち、国の政策制定を推進しつつあります。
【自分の研究との関連】
私の研究テーマは「NPOと高齢者福祉サービスの提供に関する日中比較研究」です。高齢者福祉を主に、研究の切り口は「NPO」となります。
ゴミ箱モデルと政策の窓モデルなど、私の研究にとって意義があると思います。NPOを研究する場合に、政策の形成、行政との協働関係、政策提言などが上述のモデルに従って行われています。理論を持ち、実践などを理解しやすくなります。
社会科学の学生として、素人からの研究の第一歩を踏み出しました。現段階では、幅広い理論知識や思想、思考力の習得が、まず大切で大事だと思います。
- R.K
【講義で習ったゴミ箱理論と研究テーマの関連性】
4月当時の私の研究課題が、施設介護を受けている高齢者の生きがい創設と、施設で起こる虐待問題の解決であり、そこへは、政策によってアプローチしようという考えだったので、この講義を受講しました。
その時点では、問題が解決に向かうためには、目標を立て、政策案を幾つか考案して、その中から最も合理的なものが当然のように選ばれ、政策が決定する、という一連の手順を踏まれることが必要だという認識が固まっていたので、研究をどう開始すればいいかの地点で、私は困惑していました。
何故なら、その考え方では、向かう結論によって手段も変化してくるはずなので、まず研究をはじめるため何らかの手段をとるにあたって、そこで既に結論のめぼしをつけておかなければいけない、ということになるからです。
ここに「ゴミ箱理論」はとても有用な理論であったと思います。
以前の認識が、序盤で多くのルートを排除しようとするものであったと気付かせてくれたからです。
問いに発して解に終わる、というのではなく、問いと解と参加者と機会の4つが、同じように、始まりも終わりもなく流れ続けていて、それらが偶然によってまじわるところに「解決」がある、という認識へ転換することは、表面的でない研究を行うためには不可欠の事であったと考えています。
また、4つの流れについての前提として、参加者は一定でなく流動的であり、更にその関与度も関心度も時間によって変化するため、予想が困難であるという事、次に、全体的な知識が参加者に備わっているわけではなく、知識領域はきわめてまばらであるという事、そして、最も合理的な手段が好まれるというわけではないという事を留意しておくべきであるというのは、どの研究分野においても共通することだと思います。
この講義では、幾つかの事例をあげて、その中での問い・解・参加者・機会がどれであるか、そして前提にあてはまる要素がどこにあるかを具体的に教えてもらえるので、政策考案のための良い練習にもなると思いますし、研究の大体の流れを把握することができると思います。
「ゴミ箱理論」とは、ゴールを認識してからアクションするのではなく、行動を通して目的を発見するという事を推奨するものです。
私の研究意識は現在も、終末期における生きがい創設と、施設で起こる虐待問題に向かっていることに変わりありませんが、そこには新たにスピリチュアル・ケアという要素が加わりました。
スピリチュアル・ケアというのは、特に終末期の人々の老・病・死にまつわる不安や悩みに対処し、生きがいを発見しやすくなるよう、認識を変えようとするものです。
後期からはヒアリングによって、プレ調査のようなものを行い、その中で、自分の研究の本当の目的とは何であるのか、終末期にある人々に対してはたらきかけようとするものなのか、それともそこに医療・介護を介して関わる人々に対してはたらきかけるべきなのか、もしくは彼らの関係性に改善を求めるものであるのか、発見していこうと考えています。
ヒアリングという、問い・解・参加者・機会についてのコントロールがある程度可能な、小さな領域の研究を行い、その結果に応じてワークショップの内容を決定する、ということを何回か繰り返して、実際的な研究のための4つの流れ・前提の在り様を、正しく認識したいと考えています。
- Z.N
【授業を受ける前と後の感想】
今学期は上沼先生の政策科学という授業を受けた。この授業は主にゴミ箱モデル及び政策の窓モデルをめぐって展開した。最初にネットでシラバス参照を見た時に、以前この二つの政策過程を分析するモデルについてあまり勉強したことがないので、いったい何なのか分からないが、理系出身の私は非常に興味津々だった。先生の授業は非常に計画的であり、毎回でシラバスに沿って進んでいた。もともとこの授業の内容は抽象的で、理解しにくいので、先生は分かりやすい言葉を使って説明してくれた。そして、深く理解してくれるために、先生はモデルの応用事例や関連する論文なども紹介してくれた。応用事例は勉強にとても役に立ち、これらの事例を通して抽象的なモデルを理解できるようになった。
ゴミ箱モデルは、意思決定過程モデルの中で特に有名なものである。それを勉強する前に、ちょっと合理的意思決定モデルと増分主義モデルをレビューした。この三つのモデルの内容を総合的に理解し、各特徴と問題点を対照しながらゴミ箱モデルを把握した。
合理的意思決定モデルの場合、まず目標を明確に定義することが前提となり、次にこれらを達成する多くの政策代替案を探索し、さらに最低コストで目標を達成する代替案が一つ選択される。しかし、さまざまな理由により合理的意思決定モデルは現実には行わない。増分主義モデルの場合、特定の問題を新たに考察することはしないで、現在の行動をわずかに増減させることにより調整を図る。増分主義モデルはきわめて現実性の高いものであるので、政府の政策決定プロセスがそれに基づいて分析されてきた場合が多い。
ゴミ箱モデルの特徴は「組織化された無秩序」である。@問題のある選好A不明確な技術B流動的な参加、の三つの一般的特徴を持っている。すなわち、@いろんな価値・目標を持っており、一致した目標がないA目標を実現する手続きも明確ではないB参加者が問題によって意思決定の場に出入りする。私の理解では、ゴミ箱モデルの意思決定構造には、@問題の流れA解の流れB参加者の流れC選択機会の流れ、の四つの流れが存在し、この四つの独立した流れの偶然の合流によって問題を解決する。ゴミ箱モデルはもともと教育現場でよく利用されるが、最近NPO法案の成立過程や各地での市民と行政の協働の分析にもよく利用されている。
授業で一番印象に残ったのは、ある私立大学の学科改組をめぐる意思決定過程の研究を通してゴミ箱モデルを説明する事例である。福祉環境デザイン学科誕生の過程をゴミ箱モデルの図で表示した。留学生の私にとって、単に日本語で抽象的なモデルを説明するのはちょっと理解しにくいかもしれないが、この図を見てからゴミ箱モデルへの理解度が一段に上がってきた。
そして、授業の後半部分は主に政策の窓モデルをめぐり展開していった。政策の窓モデルはゴミ箱モデルと対照的に存在し、ゴミ箱モデルを基礎にして政府における意思決定の際によく使われている。ゴミ箱モデルと違い、偶然の流れではなく、三つの流れによってパターン化されている。政策過程には「問題の流れ」、「政策の流れ」および「政治の流れ」が存在しており、「政治の窓」が開く決定的な時点において三つの流れが合流する。1924年米国移民法成立の政策過程の事例を通して、ゴミ箱モデルと政策の窓モデルを対比しながら理解した。
【自分のテーマや関心との関連性】
前述したように、ゴミ箱モデルはもともと教育現場で利用されるが、最近NPO法案の成立過程や各地での市民と行政の協働の分析にもよく利用されている。私の修士論文の研究テーマは、在日中国人技能実習生の人権を保護する課題である。本来の人材育成という目的を持つ技能実習制度が日本国内の一部の企業に利用され、安価な労働力として、悪用される事件が多い。過労死や労働環境・生活環境の劣悪、法的保障がないなどの問題が顕著になっており、在日中国人技能実習生に対する支援はもう喫緊な課題になっている。そして、近年では政府の力だけではなく、民間組織の力を生かし技能実習生を支援する考え方が注目されている。これらの民間組織は技能実習生問題を解決するときに、実際にどんな意思決定モデルによって検討するのか、あるいはゴミ箱モデルをどんな程度利用できるのか、興味があるので今後調査してみたい。
2015年度秋学期メンバーによるリポート(at random、敬称略)

メンバー集合写真(撮影当日に仕事と体調不良で2名欠席。残念(1名は春学期参照)。)
- 山本 嵩
【授業のbefore/afterの感想】
大学院進学前からこの講義は受講したいと思っていました。というのも、政策の評価を行うにあたってどのような分析方法・評価方法を行うべきかを学びたいと考えていたからです。そこで、評価の一手段として、政策がどのような決定過程を経てきたかを知ることは有用なのではないかと考え、この講義の受講を決めました。講義では、政策科学のゴミ箱モデル、そしてキングダンの政策の窓モデルを中心に、日本のNGO法案、ゆとり教育を事例に、政策決定過程においてどのような「流れ」があったかを学習しました。
講義を通して、政策決定過程において、多くの問題の中からアジェンダが形成され、「問題の流れ」、「政策の流れ」「政治の流れ」という独立した流れの中で、時々において「問題の窓」「政策の窓」が開かれ、この流れが合流していくことで政策が形成されていくというのが「政策の窓モデル」であると理解しました。これを受けて、問題が生じる社会的背景や、そこで主体者として動く人の動きなど、政策を評価するに当たって何を分析対象とすべきかが明確になったと感じました。
加えて、参考文献の整理に非常に役に立つRefWorksの使い方も教えていただきましたが、自身の研究活動に大いに役立つものとなりました。講義の最後には、政策決定過程を分析するにあたって、参考資料が少ない場合にどのようなアプローチの仕方があるかということも、学ぶことができ、私にとっては非常に多くのことを吸収することのできた講義であったと思います。
【自分の研究との関連】
私の研究テーマは、中米の一国家コスタリカの教育政策の変遷である。コスタリカは中米一の教育立国として域内で高い評価を受けているが、近年では経済的格差、貧困問題など抱える問題も多い。このような現状を生み出した要因の1つに教育政策の歴史的変遷があるのではないかということを明らかにするのが私の研究目的である。
コスタリカでは、1948年の内戦後、社会民主主義の名のもとに経済政策や社会保障政策を打ち出していくが、80年代の累積債務を経験し、以降は新自由主義的な政策路線へ転換することになっていく。その中で、@当時の社会情勢が教育に対しどのような要求をもっていたのか、またA政策決定者が教育政策の転換を行うことでどのようなことを目的としたのか、という2点がが明らかになれば、政策の窓モデルを用いて、政策決定過程の分析が可能になるのではないだろうか。
以上のような分析方針を打ち出せたのも、「政策の窓モデル」と私の研究テーマとの関連性が高かったことの裏付けであろう。とくに、ゆとり教育の政策決定過程において、衆参本会議・委員会に対する各キーワードの発言数の割合を測り、分析の対象とするという分析手法は、上記の@で言えば各新聞社や評論で特定のキーワードの発言回数、Aでは、議会・委員会における特定のキーワードの発言回数などを測ることができれば、十分な分析が可能になるであろう。
- オウ キ
【授業の感想】
2015年後期の政策科学Tの授業では、「政策決定」について3つのパラダイムによりサーベイした論稿を使い、後半では、そのうちのゴミ箱モデルと政策の窓モデルにフォーカスし、小島廣光『改定・政策の窓モデルによるNPO法立法過程の分析』をテキストとして、「政策形成」と「政策の窓モデル」を中心に勉強した。
政治分析に政策アプローチは重要な視点の一つになっている。政策決定について三つのパラダイムがある:1)合理的意思決定モデルは効率性を追求する合理的な行動基準によって、政策決定過程を考えるモデルです。2)増分主義モデルは合理性には限界があることを前提し、既存政策の継続を優先するモデルです。3)ごみ箱モデルとは、政策決定の組織を「組織化された無秩序」とした上で、各種の問題とその解決案がごみ箱に入って選択として捉える考え方です。「選択機会」、「問題」、「解」、「参加者」の四つの流れがある。政策の窓モデルは問題の認識に基づくアジェンダを設定し多様な政策代替案を生成して、それから選択して決定するモデルです。大きく分けて「問題の流れ」、「政策の流れ」、「政治の流れ」がある。キングダンによれば、この三つの流れは独立だけではなく相互作用です。
【自分の研究との関連】
私は中国のソーシャルメディアに関わる研究をしたいので、今学期の内容は自分の研究テーマと直接的な関係がないと思う。政策決定の方法論などを大変参考になる。そして、「政策」についての研究に興味を持つようになった。このたび、政策科学を受講したことで、本当にありがとうございました。
- 福地健治
【授業の感想】
本講義では政治への新たな視点に気付かされました。というのも、これまでは政策に関するニュースをメディアで知ると、論議の対象となっている政策については、政治に疎い一般人として良し悪しを主観的に判断していた程度でした。NPO 法についても、阪神淡路大震災を機にボランティア団体が公に活動しやすくするための法律、というくらいの認識しかありませんでした。一つの政策が出来上がるまでの過程について考えたことはありませんでした。
まず、アジェンダ・セッティングという言葉を知りませんでした。複数のさまざまな問題があるなかで、どの問題がトピックとして取り上げられ、あるいは取り上げられないのか。政治に暗いほうの私にも議会で議論されている政策に対し、今はもっと別の政策を議論したほうがいいではないかと憤ることが時々ありました。なぜ今この政策なのだろう、もっと他にやることがあるではないか、と疑問に思ったりしたものです。「政策の窓モデル」における@問題の流れ(Problem stream)A政策の流れ(Policy stream)B政治の流れ(Political stream)のうち、きわめて浅い知識によって@問題の流れでしか状況を判断しておらず、ABを踏まえて考えたことはなかったというのが正直なところです。
キングダンは「政策の窓モデル」で、アジェンダに載ることがまず重要であるといっています。まずアジェンダの候補にならなければ、どんなに効果が期待できる政策であっても意味がない。時宜を得てステークホルダーの関心や利益を集めるものでなければ議論の俎上に乗らず、流れて消えていってしまう。
キングダンは政策アクティビストの3 つの資質として、@人の言い分を聴く能力 A政治的関係作りと交渉術にたけていること B粘り強さ を挙げているが、こうした政策アクティビストら多様なアクターの継続的な活動の積み重ねが、アジェンダに載るためには必要だと理解しました。たしかに機をうかがっていなければ、機が熟したときに政策を提言し、推進することはできない。キングダンはこうした準備活動を「大きな波を待つサーファー」に例えているが、とても印象に残るたとえです。
本講義において、一つの政策の成立プロセスを、長いスパンで、客観的に俯瞰するという新しい視点を学びました。また、私は社会人なので「政策の窓」理論は仕事(とくに会社組織の戦略)にも生かせると感じました。私も仕事で一つのアイデアを社内で実現しようとするとき、この政策アクティビストの3 つの資質とサーファーのたとえを思い出したいと思います。
また、「政策の窓」をNPO 法の立法過程の分析に応用した小島先生の論文は一つ一つの論証を積み重ねた構造が明快で論文を書くうえでこの上ない参考書になります。内容はどこまで理解できたか怪しいですけれども、この模範のような論文の構造に触れることができたのは収穫でした。
授業ではRef-works や PDFviewer のような便利な機能の使い方を教えていただいたことも大きいです。
仕事で欠席がちでしたが有意義な授業でした。上沼先生、ありがとうございました。
2015年度春学期メンバーによるリポート

教室で先生とオウ キさん
- オウ キさん
【授業のbefore/afterの感想】
社学研の科目履修生として入学して、「政策科学」のシラバスを見て、先生のホームページを拝見すると、内容は充実していて、とても趣味を持っていた。
この前には、政策科学あるいはソーシャル・キャピタルについては、全然知らなかったので、この分野の知識を学びたいと思った。
今学期の授業の流れは、まず、授業の初めに、早稲田大学の学術情報検索の方法と検索結果の管理ソフトの使い方を教えていただいた。今後の学術研究に役に立つと思う。
そして、次に、私の研究分野に即して、インターネットにおけるソーシャル・キャピタルの位置づけや意義についての動画(Social Capital Code for America、Government 2.0など)やホームページ(オープンガバメントラボ、オープンデータ化 ちばレポ、データシティ鯖江など)を見せてもらい、社会関係資本の定義、アメリカにおける社会関係資本の研究の現状、日本における具体的な事例を様々教えていただいた。
ソーシャル・キャピタルは一体何なのか、抽象的な概念だと思った。先生のお勧めの『Bowling Alone』を読んで、そして、著者のアメリカ政治学者パットナムの「The Saguaro Seminar」というホームページを読んで、社会関係資本についての研究結果と文脈を浅くだが理解することができた。
パットナムによれば、社会関係資本は「人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性をが改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」である。現代生活において考えれば、民衆による社会生活また政治生活への「参加」が基本だと思われる。科学技術が発達した現在、知能、便利、効率をもたらす一方、人間と人間、人間と社会の関係が分裂している。だから、先進的な技術を応用して、インターネット、携帯アプリを活用し、新たな形の「資本」でこの社会をより良い形に構築し、ガバメントしていける、と考える。
内閣府の「ソーシャル・キャピタル:豊かな人間関係と市民活動の好循環を求めて」と題して調査のように、私はソーシャル・キャピタルとは、社会をよくするために、民衆たちが自分の力によって貢献していると理解している。授業を終わった後、新しい知識を身につけたのはとても受益だと思う。「政策科学」は私の分野ではないけれども、今後も続けて学びたいと思う。
【自分の研究との関連】
私の研究分野は、「メディア」である。科目履修生なので、仮りの研究テーマは中国のSNSのユーザーと「沈黙の螺旋」という理論との関係である。
ここ数年、ソーシャルメディアの発展とともに、政治選挙や宣伝などが、政府や政党によってたくさん実用化されてきており、その効果も顕著である。しかし、興味深いことに、2013年から、世論調査によると、インターネットユーザーの政治参加意欲がどんどん下がっていたという。インターネットにおける社会関係資本とユーザーのつながりも、今後の論文に取り入れようと考えている。
2014年度秋期メンバーによるリポート

教室で先生と瀬戸口君
- 瀬戸口悠人君
【授業のbefore/afterの感想】
ソーシャル・キャピタルについてはある程度(学術的な文脈)で知ってはいましたが、講義を受けて感じたのは、ソーシャル・キャピタルの適用可能性の大きさでした。
学術的な文脈を中心にして考えると、どうしてもコミュニティ論を中心とした枠組みでの話になってしまいますが、それゆえに「信頼」というものがビジネスの世界でも十二分に活用できることには驚きを覚えました。もちろん、「信頼」という資源を活用するためにはしっかりとしたシステムの構築がなされていなければなりませんが、それでも「信頼」が金銭担保に変わる資産として運用できるということは、非常に興味深いものがあります。
ソーシャル・キャピタルの運用に関していえば、マイクロ・ファイナンスだけでなく、そのほかの事例についても、やはりコーディネーターの重要性が高そうだというのが講義に対する感想のひとつです。取引を行う当事者間のどちらかが結果的にコーディネーターとしての役割を担うことになることもありますが、ともあれ、信頼によって人々を結びつけるコーディネーターの存在が、ソーシャル・キャピタルを活用するうえでは必要不可欠なように思います。コーディネーターが先ずは当事者間の連帯を図ったのち、その後信頼を活かせるようなシステムを設計することが、ソーシャル・キャピタルの長期的な運用を考えるうえで求められるのだろう、というのが全体を通じての感想でした。
【自分の研究との関連】
私の修士論文は労働組合とセクシュアル・マイノリティに関するものであり、ソーシャル・キャピタルとも大きな関連性があります。私の論文テーマは、直接的にコミュニティとしての労働組合を論ずるものではありませんでしたが、最終的な論旨を作り上げるにあたって、コミュニティとしての社会組織の重要性を改めて講義を通じ確認できたことは大きくプラスになったかと思います。
論文のなかで、最終的には労働組合がセクシュアル・マイノリティと寄り添うことのできるコミュニティとなることをひとつの理想としました。それは労働組合による「受容」に留まらず、組合員内部での(つまり、セクシュアル・マジョリティとマイノリティの)信頼関係を、労働組合がコーディネートできるかということであり、まさにソーシャル・キャピタルの運用というものが問われるものだと考えています。ソーシャル・キャピタルをコーディネーターたる労組がどのように運用すべきなのかについてはまだまだ考えねばならなければなりませんが、労組の戦略を新たに構築するうえでソーシャル・キャピタルが非常に心強い武器となることは確かですので、その活用について今後も勉強と検討を続けていきたいと思います。
2014年度春学期メンバーによるリポート(at random)

メンバー集合写真140716
- カブ
【この講義を受講する前と受講後の感想】
政策科学の歴史、議論の変遷を学びたいと思い、この講義を受講しました。これまで自身の研究に関連して、住民参加の手法やシナリオプランニングなどは追ってきましたが、体系的な知識が身に付いていませんでした。この講義では、政策科学の学問としての始まりから小島廣光による改訂政策の窓モデルまでを取り上げており、この講義を受講したことで議論の変遷が学べると共に、自身の研究の位置付けを知ることが出来ました。また、本題とは別に、学期の始めの方では学術論文の検索方法等を教えていただき、今迄このような機会がなかったことから、以後の論文収集、管理に大変役立ちました。
授業の内容、特にゴミ箱モデルと政策の窓モデルについて、現実的な分析手法であると感じました。ゴミ箱モデルが提唱されるまでの、合理的意思決定モデル、増分主義モデルでは、前者は政策形成者の能力の見誤りなどの点から非現実的な分析手法であり、後者はアジェンダの設定について一つ議論の余地があるものでした。その点、ゴミ箱モデルでは、政策形成の過程、場を「組織化された無秩序」と捉え、そこでは、問題の流れ、解の流れ、選択機会の流れが別々に存在するものとしたことで、現状を説明し得る分析手法であると感じました。
【修士論文との接点】
修士論文として「映像を用いた住民参加のプランニング」を研究しており、講義を受講したことで、自身の研究の位置を確認できたのではないかと思います。これまで、公共政策における住民参加の流れを、国民の価値の多様化、福祉需要の拡大と、それに対応しきれない行政という構図から捉えてきました。本講義を受講したことで、この認識が一面的であったということに気がつくことが出来ました。すなわち、政策科学の確立に貢献したラスウェルは、当初から民主主義の為の政策科学の確立を目指していたということです。途中、ラスウェルの政策科学はその自動化の選好ばかりが注目され、技術的専門家が台頭し、市民が政策決定の場から隔絶されるという、ラスウェルの意図した民主主義のための政策科学とはかけ離れた状況に陥りました。しかしフィッシャーによって、参加という要素を強調する形で、民主主義の重要性が再確認され、そこから参加型政策分析というものが提唱され、そこに自身の研究があるのだと感じました。政策分析者の頭の中で完結してしまうのではなく、市民に必要な情報を示しながら、市民と政策のイメージを共有しながら、共に政策を作って行く。そこでは映像がイメージの共有、行動の促進に寄与するのではないか。自身の研究が、トーガソンの言う政策分析の「第三の顔」にあてはまり、反省的対話を埋め込んだ手法として確立できれば、と思います。
―参考文献―
「第2章公共政策学の系譜」秋吉貴雄、伊藤修一郎、北山俊哉(2010)『公共政策学の基礎』、有斐閣
- 佐々木真行
【講義の感想】
講義で紹介されていたrefworksや各種新聞記事検索システム等の利用法が何より役に立った。最初の2、3回を使ってこれらの用途や使用方法を紹介されていたが、それが早速修士論文の研究計画書作成時に役立つことになった。
新聞記事検索が事例収集に有用であることは言うまでもないが、それ以上に研究の助けとなるのがrefworksである。これは、日本語翻訳文献の原題や出版年が瞬時に出てくるという素晴らしいツールである。この感想をどんな立場の人が読んでいるかはわからないが、refworksの使い方を学べるだけでもこの講義をとる意味があると思う。文献の原題を一つ一つ探してゆく作業がどれほど手間のかかることかは想像に難くないだろう。事実、私は10に満たない数の文献でこの作業を行っただけで嫌気が差してしまった。
もちろん、refworksに載っていないものもあるため、それは自分で調べなければならない。その際は、関連文献の参考文献ページやamazonでの検索が有用である。しかし、これが意外と手間だ。特にamazonでの検索はドイツ語が読めなかったこともあり、どこからどこまでがタイトルなのかわからないという情けない事態に落ちってしまった。改めてrefworksの効用を思い知る。
悪いことは言わない。早い段階でこの政策科学Iを受講し、参考文献対策や事例収集をしておくことである。地味なようだが、あなたの研究に必ず役に立つことだろう。
【自分の研究との関連】
残念ながら、講義で紹介されたゴミ箱モデルや政策の窓モデル等の政策決定過程の分析は私の修士論文の趣旨に合わないものであった。しかし、研究を机上の空論に終わらせないためには実践が必要となる。どれだけ時間がかかるかはわからないが、実践をする際に、こうした政策決定過程についての知識は、それが地方自治体レベルであるか国家レベルであるかにかかわらず、不可欠なものであると確信している。
- R.M
【本講義の受講動機(受講前)】
整備新幹線は40年以上前の1973年に出された整備計画により建設が決まるも、その直後石油危機により一時凍結され、1987年の国鉄民営化を機に凍結が解除された。自らの研究対象である整備新幹線並行在来線の経営分離という議題は、計画から20年近く経ち地方におけるモータリゼーション化など社会情勢も変化してきていた80年代末期からのぼり始め、90年末の政府与党申し合わせにより決定された。なぜこの政策の流れになってしまったのか、その判断は正しかったのか、そのヒントを見つけるつもりで本講義を受講した。
【受講後の感想及び修論との接点】
受講後、ゴミ箱モデルの話がヒントになりうると感じた。
整備新幹線計画が決まった1973年の時点で「問題」は東海道・山陽・東北・上越に続く新幹線を全国に整備するかということである。新幹線関連の議論の「参加者」は『日本列島改造論』の著者で、「国土の均衡ある発展」を掲げていた元首相の田中角栄氏である。失脚逮捕前の田中氏は大きな発言力とリーダーシップを発揮できる政治家であり、そうした政治家が主導となって進めた議論の「解」が、地方経済の自立のために全国に新幹線を整備する、となるのは必然的であったと言える。
当時は高度成長も末期で国鉄も赤字が膨らんでいた。また、東海道・山陽新幹線は在来線の東海道本線・山陽本線の線路需要逼迫の解消を目的とした増線型新幹線であったにもかかわらず、東京近郊区間を除く東北・上越新幹線はすでに増線型ではなく国土発展促進型の新幹線へと性格は変わっていた。この整備計画決定時点で開通していたのは東海道新幹線東京?新大阪間、山陽新幹線新大阪?岡山間のみであった。東北・上越新幹線は整備新幹線計画の2年前に建設工事が開始されたばかりであり、タイプが変化した新幹線の効果を証明しないままのさらなる新路線計画決定となったのである。結果として東北新幹線は東海道・山陽新幹線とともに日本における二大国土軸を形成し、上越新幹線は東京と日本海側を結ぶメインルートとなったのであるが、議論の参加者に田中氏がいなければ、整備新幹線そのものの存在がなかったかもしれないと考えることができる。
このような視点を持つことで、並行在来線経営分離問題の根本的な要因がどこにあったのかを探るきっかけになったことが、本講義を受講したなかで最も有意義であった。前期の5ヶ月間という短い期間、ありがとうございました。
2013年度秋期メンバーによるリポート(at random)

メンバー集合写真
- 千葉文彦
【授業の感想】
「〜まるで真空の中でのように〜」の言葉で始まるシラバスの授業概要。この言葉を読んだだけで、すぐさま私は『政策科学T』の履修を決めた。授業計画や成績評価方法などの、他の掲載情報の一切を授業選択の判断基準に入れずに、科目登録を行った。
よって、「ゴミ箱モデル」についても、「政策の流れモデル」についても、そして「戦略的協働モデル」についても、何の予備知識も展望も持ち合わせていない状態で、授業に臨んだ。
直観が当たった。私の研究テーマに共鳴してくれる言葉と考え方の数々が、教室内をまるで鮮やかで丈夫な生糸の様に活き活きと縦横無尽に展開されていった。
受講前、私の頭の中では、自身の研究テーマに関する知識の数々がボロ布の断片のように干からびた状態で堆積していて、か弱い風(巷に氾濫する様々な理論など)が脳内に吹くだけで、これらボロ布はほこりの様にフワフワと、ゆく宛ても定まらないままに四方八方に舞い散ってしまう状態だった。しかし受講後、私の頭の中のボロ布たちは、パッチワーク芸術のようにきれいに一体に縫製され、一着の強靭なバトルスーツの様に頼もしく姿を変えて君臨していた。
私の直観とは「上沼先生と私との人間としての相性」そのもので「〜まるで真空のように〜」このフレーズから受けた印象だけで、上沼先生の講義は私の研究テーマに呼応すると確信していたのである。
【ジョン・W・キングダンの「政策の窓モデル」と研究テーマとの相性】
では、さっそく、私の研究テーマと、キングダンの「政策の窓モデル」との相性の良さ(切れ味の良さ)について論じたい。講義前までに、私が手当たり次第に拾い集め、頭の中のゴミ屋敷にため込んだボロ布の数々が、このモデル(生糸)によって結合されていく実感を、少しでも共有する事ができたら幸いである。
なお、本レポートでは、講義中に取り上げられた『ゆとり教育の政策転換』論稿における論述展開を参考形式として、私の研究テーマである日本における「共通番号」導入の政策転換の経緯が、いかにキングダンの「政策の窓モデル」の示す「3条件」に当てはまり得るかを、端的に論じたい。
私の研究対象である「共通番号制度」とは、様々な機関が保有する個人の情報を、それが同一人物の情報であることの確認(名寄せ)を行うための制度の事である。日本では、2013年5月にマイナンバー(共通番号)法案が成立したことにより、2016年1月から、国民一人一人(中長期在留者、特別永住者等の外国人を含む)にマイナンバー(共通番号)が割り振られ、その番号運用が税と社会保障分野において開始される。
今回のこのマイナンバーの導入が決定するに至るまでには、共通番号導入を目指した政策議論が1960年代後半から一貫して継続されて来た。おおまかに以下の5つに政策議論の時期を分けることができる。@(1968年〜1975年)事務処理用統一個人コード、A(1980年〜1985年)グリーンカード、B(1996年〜2008年)住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)、C(2007年〜2011年)社会保障番号、D(2010年〜2013年)国民ID、マイナンバー。以上の5期である(と私は今のところ考えている)。
この共通番号導入を巡る政策議論では、Bの住基ネットの時期までは、共通番号システムの導入が「背番号で国民を管理する監視社会の到来だ」「プライバシー権を侵害するので憲法違反だ」「コンピュータ管理が個人をゆるがす」などとして、激しい反対意見の世論により、各機関が保有する個人情報を名寄せする装置としての共通番号システムは導入されるまでには至っていなかった。
しかし、2007年2月、「政策の窓モデル」が示す「3つの条件」を満たすと考えられる「喫緊のアジェンダ」が日本国内に生まれる。納付者を特定できない国民年金や厚生年金の納付記録が約5000万件あるとする「年金記録問題」がそれである。
年金記録問題を発生させた要因は、現場担当職員の能力不足と業務怠慢に依るものだけではなく、その背後に、一人につき複数存在してしまう可能性がある年金番号を名寄せする「共通番号」が無いがために偏在する年金記録の紐付けを困難にし、それが記録ミスを招いたとの世論が形成されたのである。
そして「3つの条件」についてだが、第1に、練り上げられた政策案が存在する事が必要であるとするものであるが、これは、共通番号導入の政策議論においては、すでに上記に示した@〜Dの時期において共通番号制導入についての政策案が約半世紀近くもの間、幾重にも構想・提案されて来た点で、この条件を満たすと考えられる。
第2に、いわゆる「問題の窓」という条件が満たされることである。「年金記録問題」が広範な国民の関心を引き付ける危機的・象徴的事件(=「衆目を集める出来事」)として政策決定者に経験され、「共通番号導入」を「喫緊の問題」として認識されたことにより、「問題の窓」が満たされたと言える。
第3に、「政治の窓」という条件が満たされるということであるが、この条件が示す『市民のムードや時代の雰囲気』について、住基ネット導入議論までの「共通番号による管理に対する社会不安(不満)」が、年金記録を契機に、年金受給可能性に対する「将来(老後)の生活不安」によってかき消されたと考えられるのと、住基ネット導入議論期において多くの住基ネット関連訴訟を提起してきた共通番号反対派が、度重なる敗訴によりすっかり疲弊しあきらめムードが定着したために、今回のマイナンバー導入期では、大きな反対世論を形成する為の体力を持つに至らなかったと考えることにより、時代の雰囲気と市民ムードについての説明がつくと思われる。また、『利益団体などの関係者の動向』については、共通番号導入に伴う莫大な金額のシステム構築利権獲得を目指す各企業の営利目標が、広告収入やシステム導入による経済効果を期待する各種メディア等による反対世論の形成を防いだ一因とも考えられる。そして、ついに『政治的な動向を集約したもの』として、市民の意向や利害関係者の意向が「共通番号」導入に動いていると政策決定者が「思った」事により、結果「政策の窓」の条件を満たしたと考えられる。
上記の諸条件を満たして行く過程で、圧倒的議席数の元に成立した第2次安倍政権において、マイナンバー(共通番号)法案はその可決に向けて大きく前進し成立したと考えられる。
以上簡略的(導入的)ではあるが、上記で示した通り、日本における「共通番号」導入政策転換は、「政策の窓モデル」が示す諸条件を満たす可能性が極めて高いので、私の研究テーマとキングダンのモデルはとても相性が良いと考えられる。
今後は、「政策決定者の問題認識」や「市民のムード」について、計量的分析を合わせて行っていくことも視野に入れながら、政策の窓モデルの切れ味と精度上げ、修士論文執筆へとつなげて行きたいと私は考えている。
そして、このような分析を経ることによって、現時点で私を含め誰も知覚していなかった共通番号制分析に関する新しい知見の「窓」が開いてくれる事を願って、本レポートを締め括りたい。
- 金子祐介
【はじめに】
国際関係論を専攻している筆者にとって、本講義は問題にアプローチする新たな視角を提供してくれた。また、修士論文を執筆し終えた後においても、本講義で得られた知見は今後、国際関係論の研究を深めるのみならず、異なった分野の研究にも大いに役立つものであろう。本レポートでは、まず、筆者の執筆した修士論文の概要について簡単に言及したい。次に、本講義を受ける以前と比較し、受講以後で得た知見・視角について検討したい。そして、最後に、本講義が国際関係論を専攻している者にとって、どのような貢献をなし得るかについて私見を提示したい。
【修士論文の概要】
東北アジアは国際秩序が激しく変動する中で、主権国家のみならず、様々な行為体による交流・協力の場として注目を集め、新しい地域として探求され始めている。現在、東アジアは国家間によるFTAやEPA、また多国籍企業による地域分業化によって相互依存を深め、経済的統合を進めている。一方で、安全保障領域に視点を移すとどうだろうか。冷戦の残滓と言われるような中国の軍事力の増加や北朝鮮の瀬戸際外交などの伝統的安全保障問題、また、環境問題など越境性をもつ非伝統的安全保障領域の問題を抱えている。こうした東アジアに対して、我々はどのように向き合い、また、どのような将来像を描いていけばいいだろうか。
以上の問題意識に立って、修士論文では、東北アジアにおけるトランスナショナルなネットワークに注目し、中でも先駆的な自治体外交を展開する日ロ沿岸市長会議の事例を取り上げた。そして、「なぜ、日ロ沿岸市長会議は冷戦期より開始され、現在まで消滅せず存続しているか」という問いを明らかにすることで、「平和構築」に向けた、地方自治体の持つ主体的契機を検証し、直線的発展史観では看過されてきた複合性をも分析することを試みた。
結論では、上記で掲げた問いに対する答えとして「日ロ沿岸市長会議が『国益』に囚われず、広範囲な分野にわたる協力を展開することで、信頼関係を構築していったからである」とした。この意味で、今日の東北アジアにおいて、日ロ沿岸市長会議をはじめとする「下方」からのトランスナショナルなネットワークが「平和構築」に向けたオルターナティブとしての意義を持ちうると結論づけた。
【本講義受講以前】
上記の東北アジアにおけるトランスナショナルなネットワークを分析すべく、筆者は次のような分析視角を構築した。すなわち、@国際環境という外的要因、A行為主体(アクター)の主体性・自律性という内的要因である。先行研究では@国際環境という外的要因に注目し、分析対象に迫るものが主流であるが、それに加えて筆者はA行為主体(アクター)の主体性・自律性という内的要因を組み合わせた分析モデルを構築した。なぜなら、行為主体の動機付けや意思を分析射程から捨象してしまうと、東北アジアにおけるトランスナショナルなネットワークの生成・発展過程が十分に分析しきることができないからである。
こうしたことを踏まえて、筆者は次のような分析視角を提示した(下図を参照)。第1段階では、国内外からの危機・変化によって、歴史的に「地域」に存在していた政治的・経済的・文化的なつながりを刺激する。この時、こうした歴史的なつながりは国内外からの危機・変化によって分断を余儀なくされることも想定される。第2段階では、国内外からの危機・変化により、各種行為体の認識の変化がもたらされる。そして、国内外からの危機・変化を乗り越えるべく、「地域」における政治的・経済的・文化的なつながりの促進を図る。こうして、第3段階では、「地域」においてネットワークが形成されるとの分析視角である。
図 修士論文で依拠した分析視角(筆者作成)
(第1段階): 国内外からの危機・変化
↓ ↑
「地域」における政治的・経済的・文化的なつながり
↓
(第2段階): 行為体の認識の変化・「地域」における政治的・経済的・文化的なつながりの促進
↓
(第3段階): ネットワーク形成
【本講義受講後】
本講義では、政策科学における諸モデル――合理的意思決定モデル、増分主義モデル、ゴミ箱モデル、政策の窓モデル――を学習することを通じて、次の二つの新たな知見を獲得することができた。
第一に、国際関係論の研究者の大多数は、問題の記述と分析に注目し、それ以降の政策の形成や実行については軽視してしまう傾向がある。実際、「分析者」と「政策実行者」との間に大きな隔たりが依然として存在していよう。これについて、ジョン・W・キングダンは次のように述べる。
私は数年前、研究者たちが公共政策に関する大統領の最終的裁定や議会での法律制定等の重要な決定について、ほんのわずかしか知っていないことを確信した。彼らは『問題はいかにして決定されるか』については多少知っているが、『問題はいかにして認識・定義されるか』についてはほとんど知っていない。すなわち、研究者たちは、政府や議会のさまざまな部署や委員会等で行われる正式の決定に関してはかなりの知識を蓄積してきた。しかし、公共政策の決定の前提となる政策アジェンダの設定と政策代替案の特定化のプロセスは、未知の領域である。
本来、「研究者」と「政策実行者」には相互関係があり、切り離して考えることはできない。しかし、国際関係論の多くの論者が、自身の役割を問題の分析に終始し、政策アジェンダの設定や政策代替案の特定化プロセスについては「門外漢」としてきたのである。こうしたことを踏まえると、政策科学における諸モデルは、「研究者」と「政策実行者」との間の橋渡しをする必要性を提起しているといえよう。
第二に、筆者が構築した分析視角と「政策の窓」モデルとの非常に親和性が高いと感じた。「政策の窓」モデルは「問題の流れ」「政策の流れ」「政治の流れ」という三つの流れに注目するものである。とくに筆者にとって興味深かったことは、なぜ、「窓」は閉じたり開いたりするのか、という点である。それは、筆者が修士論文で取り上げた日ロ沿岸市長会議の事例研究に、この「政策の窓」モデルを援用してみると、いくつかのリサーチクエスションを発見することに寄与した。
たとえば、日ロ沿岸市長会議は1970年に日本とロシアとの地方自治体間で結成された越境的なネットワークであり、その主たる目的は両者の友好親善と経済協力を促進するものであり、安全保障問題などの政治的問題は国家の専管事項として考えられていた。しかし、1979年のソ連による対アフガニスタン侵攻や1983年のソ連による大韓航空機爆撃事件を契機に、日ソ関係は冷却化したにも関わらず、日ロ沿岸市長会議は、だからこそ安全保障領域における信頼醸成が必要だとの認識に至り、日ロ沿岸市長会議において、本来の機能ではない「安全保障領域」への「窓」が開いたのである。
さらに特筆すべきことは、通例なら、国家間の緊張が存在するとき、地方自治体間のネットワークや市民間のネットワークは消滅することが多いが、日ロ沿岸市長会議の場合、消滅せず存続し、むしろ、その協力の範囲を広げ、発展を遂げてきた。
従来の国際関係論のアプローチでは、こうした複雑な現象を十分に説明しきることができなかったが、本講義で学習した「政策の窓」モデルを援用すると、複雑な現象を理解することに役立ち、かつ、リサーチクエスションに対するいくつかのヒントを投げかけよう。こうした意味で、国際関係論を専攻する筆者にとっても、政策科学の諸モデルは問題に対するアプローチに新たな分析視角を提供してくれた。
【おわりに】
本学社会科学研究科では、「地球社会論」と「政策科学論」の二つに専攻が分かれている。筆者の専攻は前者の「地球社会論」である。一見すると、両者は切り離されているように見えるが、実は、両者は互いにリンクしており、その意味では分離することはできないだろう。むしろ、両者の学問的対話は深まるべきであり、そうすることによって、複雑かつ難解な諸問題に対する処方箋が出せるのである。
筆者も、今まで専ら「問題の分析」に注目していたが、本講義を受講することで、「政策実行者」の立場に立って問題を分析し、自ら「問題の分析」と「政策の実行」との間を往還することの重要性を痛感した。さらに、本講義を受講した後、伝統的な国際関係論のアプローチのみならず、政策科学の分析モデルを学習したことで、問題を多様な角度から分析することが可能となった。ただ、政策科学の分析モデルを国際関係論に適用することには限界があろう。なぜなら、政策科学の分析モデルはあくまで国内における政策形成メカニズムに注目するのに対して、国際関係論は、国際的構造の変化および国際的行為体の動向に注目するものであるからである。
しかし、政策科学の分析モデルは国際関係論を専攻する者にとって、国家の行動を一枚岩に捉えるのでなく、むしろ、「問題の流れ」「政策の流れ」「政治の流れ」といったように構造的に捉えることのヒントとなろう。さらに、国際的構造の変化を分析する際にも、これらの三つの流れから読み解くことも可能である。たとえば、なぜ1996年という時期に「京都議定書」の採択という「窓」は開かれたのか、という事例を一つ取ってみても、冷戦期から環境問題という「問題の流れ」はあったが、冷戦期では、環境問題は副次的問題として捉えられており、喫緊の課題は米ソの軍事的緊張をいかに回避するかという「政治的問題」が優先されていたが、冷戦崩壊後、環境問題や経済問題があらたな脅威と認識されたため、環境問題に対する「政策の窓」は開いたのである。
このように、筆者のみならず、国際関係論を専攻している者にとっても、政策科学の分析モデルは既存の視野でなく、新たな視野から問題にアプローチすることを可能にし、研究のさらなる発展に貢献するものと考えている。
【参考文献】
- 秋吉貴雄、伊藤修一郎、北山俊哉(2010)『公共政策学の基礎』有斐閣、22-42頁。
- 小島廣光(2001)「問題・政策・政治の流れと政策の窓:NPO法の立法過程の分析に向けて」『經濟学研究』第51号第3巻、31-84頁。
- Kingdon, J. W. (1995) Agendas, Alternatives, and Public Policies, 2nd ed.: N.Y., HarperCollins College Publishers.
- 山内豊季
【授業の感想】
政策科学Tでは、ゴミ箱モデルの基礎的知識からキングダンの政策の窓モデル〜3つの流れの構造について丁寧に教えて頂いた。多くの問題からある問題がアジェンダとして浮上し、特定の政策が選択される所以は、「問題の流れ」「解の流れ」「政治の流れ」の3つが合流する時、政策の窓が開かれ、特定の問題が浮上し、政策が選択されると理解した。
この政策の窓モデルは、公共政策の分析という点では非常に妥当性のあるモデルであると認識できる。しかし、この「政策の窓」とは3つの流れが合流しなければ窓が開かないという点において、帰納的考え方から、政策の決定、結果があって「政策の窓」モデルが構築される。したがって、現在浮上している問題や解、政治が、流れの何処に位置しているのか把握する、また、窓を開くためには、流れをどう誘導すれば合流できるのか、という計画的アプローチが、他の文献を調べたがあまり的確に論じられているものがなかった。
「政策の窓」モデルは、非常に公共政策研究の上で有効なモデルでるあるが、現在の政策において何処の窓が開いてないのかを知り、さらにどうすれば窓は開くのかという政策の選択、合意形成までのデザインができるようになるのが、今後の展望であると考え、将来の政策モデルに期待したい。
【自分の研究との関連】
コミュニティデザインに関する研究をしている。住民主体の自治、地域運営、地域政策に関する仕組みと「政策の窓」モデルを比較することは非常に面白いのではないかと考えている。
広井(2009)は『「コミュニティの中心」は外部との接点、あるいはコミュニティにとっての「外に開かれた“窓”」である場所だ』と述べている。この“窓”はキングダンと比較できる一つの要素となりえるかもしれない。活発なコミュニティとは政治の流れを逆流してでも、地域の課題・問題に対して解決策まで取り組み、実施することが可能である。つまり、窓が開かれるのではなく、自ら窓を空けるというなら、またそこに潜在する住民またはコミュニティのエンパワーメントやシビックプライドが窓を開けたり、流れを操作していると考えられる。
極論で恐縮であるが、「政策の窓」モデルはマクロな視点で述べられるが、ミクロな地域単位の政策の流れを分析するとまた少し違う見解がみられるかもしれない。以上のようなリサーチクエスチョンを持ちながら今後の研究に活かしていきたいと考えている。
【参考文献】
- 広井良典(2009)『コミュニティを問い直す-つながり・都市・日本社会の未来』、ちくま新書
- 紫牟田伸子(2012)『クリエイティブ・コミュニティ・デザイン』、フィルムアート社
- 姚希
【授業の感想】
本学期の政策科学Tでは、「公共政策学の系譜」、「問題・政策・政治の流れと政策の窓」及び「ゴミ箱モデル」を中心として学習した。この中で一番印象を残っているのは「政策の窓のモデル」と「ゴミ箱モデル」である。
「政策の窓モデル」とは、政策代替案の選択による正式な決定と決定された政策の実行の前提となり、問題の認識・定義に基づく政策アジェンダの設定と複数の多様な政策代替の生成・特定化の二つのプロセスにもっぱら焦点を合わせ、全プロセスを分析・解明しようとするモデルである。講義の中で、レーガン政権の1989年度連邦予算編成という事例を挙げられて、政策の窓モデルが明らかにする。政治の流れが政権交代と連邦議会での共和党優位を生み出し政治の窓を開いた。政治システムはかなりの間、多くの分野で保守的な政策案を生み出した。これら政策案は予算案の中に取り込まれ、1970年代に国民が認識していた多くの経済的な問題と結びついた。政策企業家は、開いた問題の窓を利用して、予算項目の優先順位を大きく変化させること位成功した。
「政策の窓モデル」は、アジェンダ設定と政策案の決定までを対象とする。政策形成システムにおいては@問題の流れ、A政策の流れ、B政治の流れの3つの流れがあり、決定的な時点に政策の窓(問題の窓と政治の窓)が開くことによって、政策案の決定が推し進められることを示す。
「ゴミ箱モデル」とは、コーエン、マーチ、オルセンによって提唱されたモデルであり、実際に行われる意思決定は、規範的なプロセスを踏んでいないという理論である。探索をする中で出た何かの「問題」やなんらかの「解」は独立して存在し、意思決定にかかわる人はまるでゴミ箱に投げ入れるかのごとく「問題」や「解」を投げ入れる。そして、解決に必要なエネルギーが溜まった時にあたかも、満杯になったゴミ箱が片付けられるかの如く、選択機会に片付けられる。つまり、意思決定されるのである。それは、政策形成を通して関与する人々や組織が、@不明確な選好、A明らかでない技術、B流動的参加をベースとして活動することにより、組織化された無秩序の中で政策形成プロセスが形成されると捉えられている。
ゴミ箱モデルは、基本的には意思決定の要素として「選択機会(会議の場)」「参加者」「解」「問題」の4つを指摘している。集団における意思決定を行う場合、会議も回数を分けて実施すると状況も変わり、また時間と共に参加者の考え方も変わり、問題の捉え方も変わる。意思決定を行う場面は、まるでゴミ箱のようにたえず色々なモノが出たり入ったりして、最終的に期限になったときの状況で意思決定が行われる。集団における意思決定は、必然的に生み出されるものではなく、4つの要素が偶然に結びついた結果でしかないという考え方である。
【自分の研究との関連】
私の研究テーマは「中国の国産化粧品のブランド戦略」である。中国市場で、化粧品工業は新興工業として、注目されている。中国の化粧品市場はこれから大きな成長期に入ると予想される。すでに多くの海外ブランドが進出し、資生堂などの日本企業も積極的に中国市場向けのブランドを立ち上げた。中国は安い人件費を生かした大きな生産・輸出基地であるとともに、近年の著しい経済発展によって、国民の購買力が高まりつつある巨大な消費市場でもある。現在、中国はアメリカと日本に続き、世界第三の化粧品市場となっている。しかし、中国化粧品売上高で外国系製品と輸入品は6割となっているのに対して、国産品はわずか4割を占めている。海外ブランド品は圧倒的な市場優位に立っていることが明らかである。これは、中国の消費者がいかにブランドを重視しているかがわかる。
しかし、よく知られているブランドを持っている中国企業は少ない。外国の有名なブランドと競争する時、競争力は非常に弱いと考えられる。そのために、国産化粧品市場を開くカギには、化粧品を生産する大国から化粧品のブランドを生む強国に転換することである。そのためには、まず国産化粧品工業に関するブランド戦略や経営モデルなどを研究することが必要になる。
授業の内容から見れば、私の研究内容と直接的な繋がりがないと感じる。しかし、政策科学を受けて、論文を書くことに役立つと思う。例えば、「ゴミ箱モデル」理論によると、問題を確認したうえで、アジェンダを設定して、解決方法を探すといったような流れが研究内容に対する大変参考になると思う。
- C
【授業の感想】
今学期の政策科学という授業では、コーエン、マーチ、オルセンによって提唱されたゴミ箱モデルとキングダムの著作で紹介された政策の窓モデルに重点を置き、また、ゆとり教育のケースを例として挙げ、公共政策学の基礎と理論の立て方について紹介してくださった。最初は自分にとって未知に溢れた公共政策学であったが、先生が詳しく説明してくださったおかげて、今は、とてもとはいえないけど、公共政策学という分野について知ることができ、今後の研究だけでなく、社会の中の一人としての生活にもたいへん役に立てる知識であると思う。
「政策の窓」モデルは、 逆の言い方をすれば、 (1)政治的課題として認識されいる、(2) 政策アイデが練られている、(3) 政権や関係省庁が推進の立場にっている、とう条件を満たさない限り「『政策の窓』は開かれない」とも言える。どのような状況で政策の窓は開くのかは、政策の窓モデルの事例研究に関してもっとも注意すべき点であると思う。
【自分の研究との関連】
修士論文のテーマは「日本の三大都市圏における人口移動」であり、三大都市圏において全体、核心都市と都心部の流入と流失、移動人口の年齢と性別分布、もとの居住地、移動要因など、さまざまな方面から三大都市圏の移動パターンの差を検討することによって社会要素との関連を見いだすことを目的とする。
人口移動は、一見して人が自ら移動するかどうかを選ぶ社会現象であったが、この過程においても、政策が影響要素の一つとして作用している。政策により、人が状況を評価し、また、実際の状況に応じて政策を立てる政治側も、いろんな施策をする。このような両面的な、ダイナミックな動きの中で、ゴミ箱モデルや政策の窓モデルが適用すると思われるので、自分の研究の中で取り入れる可能性があると思う。
- C.C.
【授業の感想】
2013年秋学期の政策科学の授業では、最も印象に残ったものは1970年代にマーチ、コーエン、オルセンが提唱した「ゴミ箱モデル」である。最初は変わった名前だなと思っていたが、詳しく理解して行くと、あいまい性下の意思決定モデルだということが分かって、興味を惹かれた。
今まで、政策の施行における意思決定というのは、きっと、合理的なプロセスを踏みながら行っていくと考えていた。しかし、この授業で取り上げられたゴミ箱モデルはそうではない。「人間は合理的な意思決定ができない」という前提で、実際に行われる意思決定は合理的なプロセスを踏んでいない。「組織化された無秩序」のもとで意思決定が行われるという考えである。
具体的に言うと、意思決定の要素には、「問題の流れ」、「解の流れ」、「参加者の流れ」、「選択の機会」という4つの流れが存在し、比較的相互に独立している。選択機会は、問題、解、参加者が投げ込まれるゴミ箱と見立て、政策決定はそのゴミ箱の中で偶然に結び付き、意思決定機会が満ちたときに結果が出るという考えである。
今まで、マーケティングと語学を中心に勉強してきたので、政策科学に関わることを接触する機会が少なかった。しかし、この授業では学んだことのないモデルの話が沢山聞けて大変勉強になった。この授業によって、政策を策定するの背後にある意思決定のプロセスに関心を持つようになった。
【自分の研究との関連】
私の研究テーマは食のマーケティング戦略です。特に、近年確実に伸び続けている分野、「中食」を中心に研究している。
中食とは、すでに調理された状態で販売され、そのまま持ち帰ってすぐに食べられる食品(弁当類、惣菜類)などを指す。家庭内で食べる「内食」とレストランなどへ出かけて食事する「外食」との中間に位置するという意味で使われるようになった造語である。
このテーマについて深く研究することにより、企業により明確な戦略提案ができるのみならず、高齢者をはじめ、各世代の人たちに、よりやさしい食環境を提供できるとも考えられる。
政策科学Tを履修している間、ゴミ箱理論を含め、自分の研究のなか近いものを一つ見つけた、それは、「食育」である。
ここ数年、偏った食習慣、欠食など食生活のアンバランスにより、子どもは肥満、それども痩身傾向にあり、人々の健康を取り巻く問題が深刻化している。日本政府はこうした現状を改善しようとするため、平成17年に食育基本法を、平成18年に食育推進基本計画を制定した。食べ物を生きた教材として給食を充実させるだけではなく、地元の産物にも活用でき、域経済の活性化、地域への愛着につながると思われる。この政策を策定する背後にはどのような意思決定が行われていたのかについて、興味を持つようになった。今後の研究も表面的なものだけではなく、その影に隠されたの一面にも詳しく考察していきたいと考えている。
- X
【授業の感想】
前期に引き続き、政策科学を受講した。後期は、北山俊哉(2010)『公共政策の基礎』の第2章公共政策学の系譜と、小島廣光「問題・政策・政治の流れと政策の窓:NPO法の立法過程の分析に向けて」を原文で読み進めた。
具体的にいえば、政策過程モデルであるゴミ箱モデル、政策の窓モデルの理論について学習した。ゴミ箱モデルを改作した政策の窓モデルについては、不十分のではないかという疑問があるが。小島先生は、政策の窓モデルを、日本のNPO法案の成立過程に適応できることを、例証した。
「ゴミ箱モデル」では政策形成に関する組織を「組織化された無秩序」とした上で、意思決定構造に@問題の流れ、A解の流れ、B参加者の流れ、C選択機会 の流れが存在するとし、その選択機会は「さまざまな種類の問題、解、参加者が投げ込まれるゴミ箱」と考える。問題は解決される場合もあるし、未解決のまま別のゴミ箱に移っていく場合もある。さまざまな流れの合流(結び付き)によって、急激な政策変化を生み出す可能性が大きくなる。
「政策の窓モデル」は、アジェンダ設定と政策案の決定までを対象とする。政策形成システムにおいては@問題の流れ、A政策の流れ、B政治の流れの3つの流れがあり、決定的な時点に政策の窓(問題の窓と政治の窓)が開くことによって、政策案の決定が推し進められることを示す。数ある問題(イシュー)の中から、ある問題(イシュー)が議題(アジェンダ)の俎上に上るのか。その答えがここにある。
モデルの学習の最後に、日本の80年代から2001年までの、ゆとり教育の政策転換の動態をこの政策の流れモデルで説明した。
【自分の研究との関連】
私は、いま、日本の能楽と中国の崑劇の比較考察というテーマの研究をしている。内容的に言えば、後期の政策科学の授業との関係はあまりない。が、修士論文を書くにあたって"政策科学"で用いられる方法論、方法的には、大変参考になると思う。
最後に、新たな認識を得られた政策科学研究を受講できたことを深く感謝申し上げます。
2013年度春学期メンバーによるリポート(at random)

メンバー集合写真
- A.A
【Before&After】
Before=モハメド・ユヌス氏に“出会う”まで、After=モハメド・ユヌス氏に出逢ってから、そして、今後―これが、上沼先生との邂逅である。
このような機会を与えていただいたことを、心より感謝も申し上げなければなるまい。
さしてあるとも思えない残りの人生をどのように使うのかを、「娑婆」の喧騒からしばし離れて考えてみたい、その時節である、という思念が、早稲田の杜に佇むことになった由縁である。
早稲田大学の“第二校歌”といわれてきた「人生劇場」の一節、「時よ時節は変わろうとままよ」ともいかなくなった。
この思いの“肩を押した”のが、2011年起きた福島原子力発電所事故であった。
近代合理主義の“最高傑作”が、原子力産業と核兵器である、。その挙句が、近代の“背骨”を折った今回の事故なのであると考える。近代が「近代」を自己否定したのである。
この歴史の弁証法が、私を早稲田に導き、近代を超えるべく、ユヌスに合わせたのである。
【我が修士論文のテーマとの相関について】
1ので記述したような修士課程での営為の問題意識から、人間存在の存在論的意味の探求を、親鸞の思想から読み取ること、これが、修士論文のテーマです。
よって、親鸞思想を探求する目的は、現代を形成する思想的原理である西洋近代合理主義による人間の存在論的意味を親鸞思想に見出すことになる。
上記の目的意識を本講座に即して敷衍すると、親鸞思想の哲学的探求により見出した人間の存在論的意味を基にして、市場原理を超えた社会構成の方向性を見出すこと、ということになる。
修士論文の結論で記述する予定の親鸞思想は、西洋哲学の専門用語で表現するならば、@自然主義の貫徹された人間主義、即ち、「絶対他力」、「必然即自由」A「悪」=「煩悩」=人間の自由=人間の本質、*「悪」は、「善」と自己同一性にある「悪」である。B人間の自己回復=自己解放は、@の「自覚」の獲得、となります。また、人間の本質規定は、西田哲学的に言えば、宇宙的必然性=「絶対者」を、これと「絶対矛盾的自己同一」(西田)にある人間存在―が、これの内容を認識し、実現=表現する「存在者」(ハイデガー)である。
上記の結論から、人間存在の社会的価値は、「利他」となり、これを基礎とする社会構成原理は、ドイツ観念論、並びにカール・マルクスを援用すると、人間の類的本質である「共同性」幻想的共同性ではないーである。
「共同性」は、経済的には市場原理を超え、政治的には民主主義を超える。因みに、親鸞思想の「利他」からは、社会構成原理として、以上の「共同性」が導出される。ロバート・パットナムの「ソーシャルキャピタル」において示された「互酬」概念は、親鸞思想から必然性を持って導きだ出される「利他」=「共同性」まで発展させることが可能である。
本講座において、私が追求しようとしたのは、この可能性と、どのような方向性を持って発展させるか、を「ソ−シャルキャピタル」、特に「互酬」に着目して、考察することであった。
この観点から、ユヌスの「ソーシャルビジネス」は、資本主義を否定はしないものの、資本主義の体内で、愛本主義とは別の「非営利・協同」の原理で、貧困のない人間の生活を創造することを目指すものといえる。これは、市場原理ではなく「非営利・協同」=「利他」=「互酬」によって「ソーシャルキャピタル」を「組織化」することによって、社会的総労働を比例的に配分し「共同性」に基づく持続可能社会を形成する、ともいえるだろう。
今日、ネオリベラリズムが質的に“もう一段階”を画そうとしている。仁平典宏の言うように、楽しさと苦しさを引き受けての自己実現を「互酬」概念の核に包摂する「新しい公共」は、既に、ネオリベラリズムに抱きかかえられている。シャンタル・ムフのいうとおり、民主主義は、社会的対立・矛盾によって運動する。全方向への運動ベクトルを持つものである。さて、如何。
「政治」を「人間が人間たらんとする生の営み」と認識するならば、そろそろ、われわれは、民主主義を超えるものを求めるべきではないだろうか。
- 坂口文子
【授業の感想】
授業で取り上げていただいたバングラデシュのグラミン銀行元総裁ユヌス氏、元東京銀行を退職し米国で移民向けの金融サービスを始めた栃迫氏の話が印象に残っている。 前者は、貧困国でのマイクロファイナンス、後者は、名目GDPランキング1位のアメリカでのマイクロファイナンスであり、対照的な国でのマイクロファイナンスの話だった。
両者に共通するのは、資本がないために貧困から抜け出せない人に手を差し伸べる金融ビジネスをはじめたことだ。
経済大国アメリカでも、働く場所がない、稼ぐことができないひとに、今まで目が向けられていなかったようだが、そこに目を向け、彼らが自立出来うようなビジネスを立ち上げた話には、感銘した。
先日、ジェフリー・サックス著書の『貧困の終焉』を読んだが、その中でバングラデシュの位置づけは、極度の貧困からは抜け出し、経済開発の「梯子」の一段目に足をかけている状況と表現されていた。食べるものがない、等の極度の貧困から抜け出すことができても、その後、何らかの手を差し伸べないと経済開発の「梯子」を上ることができないのがバングラデシュの状況だと思慮する。そんな状況下、ユヌス氏がマイクロファイナンスをはじめ、貧困層向けの融資を行ったことで、貧困層に貧困の罠から抜けだす可能性を与え、彼らの自立への手伝いをした。その後、ユヌスのマイクロファイナンスへの賛否は様々であり、営利目的でマイクロファイナンスを行う金融機関も出てきたり、当初行っていた返済義務についての「連帯責任」についても問われ始めた。ユヌスに対しての批判が少なからずあるが、私は、ユヌスの行った初期のマイクロファイナンスは、融資を受けてそのお金をビジネスに生かしきれた場合は、貧困層が経済開発の「梯子」を上るための糸口としてはきわめて優れていたと考える。このような援助がなければ、有能なビジネスができる能力がある人も資本がないために何も行動を起こせず、貧困の罠から抜け出せないからだ。問題は、マイクロファイナンスで貧困層相手のビジネスで利益を得ようとする悪徳な業者であり、マイクロファイナンスという仕組みそのものは、貧困層に希望を与える仕組みだと考えている。
栃迫氏の米国における移民向けビジネスは、「政策科学U」の授業を受け、初めて知ることができた。
米国に出稼ぎに来ている移民が銀行口座も作れず、働いた給料の大半が送金手数料や換金手数料で搾取される現実を初めて認識した。
低所得者や弱者から、必要以上のお金を搾取している経済システムは許されるのか、考えさせられた。
このような状況ではいつまでも低所得者や弱者は貧困の罠から抜け出せない。
先日読んだスティグリッツ著書の『世界の99%を貧困にする経済』では、アメリカは資本主義国で競争の原理を働かせるはずが、親の所得で子供の所得や地位が決まっていく不平等な社会であることが論じられていた。所得階層間の移動性が小さく、アメリカはもはや機会均衡の国ではなくなっているとスティグリッツは述べる。上位1%の収入は増えているが、中間層以下の収入は減っていて、格差が拡大しているのが現状である。
自由競争主義、民主主義を唱えている米国において、誰でも平等に競争できる社会になるべきだと思慮する。
そんな状況下、貧困の罠からなかなか抜け出せない移民のためのマイクロファイナンスを考案し、米国内で誰にも頼ることができない移民の母国への送金手数料を格段に下げ、さらには銀行口座をもてない移民に融資を行うという画期的なシステムを考案した栃迫氏には感銘した。ウォルストリートの数ある巨大銀行は、多くのエリートが働いているがこれまで、移民には目を向けなかったのだろうか。同氏のビジネスを通して、貧困の罠から抜け出せない移民などに、働く機会やそのための資本が与えられた。はじめは、移民向けのビジネスに関心を示さなかった金融機関が次第に、栃迫氏のビジネスに関心を示し、北米、中南米を中心に彼の作り上げたシステムが広がっていっている。
サックスによると開発は、公共セクターと民間セクターの援助双方が必要であると述べている。公共インフラ、教育などは公共投資でカバーできるが、マイクロクレジットのように、人々の生活に直結し、自立のために手を差し伸べるのは民間セクターの助けが必要だと思う。サックスの著書『貧困の終焉』361ページに、「援助は、政府による直接的なサービス供給と、小作のへのマイクロファイナンスお重要な農業資本財の提供などによる資本への公共支援の二本立てにすべきである」と述べられている。特に、栃迫氏が述べているように、「金融は体内の血液」であるため、人々の自立にはきわめて重要な分野である。このようなマイクロクレジットを利用して、貧困国であろうと、経済大国であろうと、貧困層の人が貧困の罠から抜け出し、「貯蓄」できるような社会、努力すれば報われる社会になってほしいと思う。それが若い世代の「希望」にもつながるからだ。
【自分の研究との関連】
私の研究テーマの大枠は、「開発経済学」である。開発経済学で必ず扱われる「マイクロファイナンス」について、理解を深めることができた。「マイクロファイナンス」は、中所得以下の国々の話かと思っていたが、経済大国アメリカでも必要とされていることが分かった。その意味で、「開発経済を学ぶ」ということは、いわゆる開発途上国だけではなく、先進国経済にも目を向けて学習していく必要があると思慮する。私はまだ「開発経済学」を学び始めたばかりだが、この学問の奥深さ・スケールの大きさを、この授業を通して感じることができ、非常に有益だった。授業では、ビジュアル教材を利用してくださったので、単に講義を聞くより目からも入ってくるので、理解しやすく、関心を持ちやすかった。
【参考文献】
- ジェフリー・サックス(2006)『貧困の終焉』、早川書房
- ジョセフ・E・スティグリッツ(2012)『世界の99%を貧困にする経済』、徳間書店
- 趙可
【授業の感想】
2013年前期の政策科学Uの授業は、「ソーシャル・キャピタル」について映像資料やプリントアウトしてきた資料等を使い、分かりやすく、様々な視点から学ぶことが出来た。
講義を受ける以前、ソーシャル・キャピタルへの印象はあまりなかった。本講義では、近年急速に研究が進む「ソーシャル・キャピタル」について、その背景をはじめ、世界各地における実践、現在の日本の諸問題への応用や今後の課題等について、複数の文献や資料を用いて論じられた。「ソーシャル・キャピタル」とは、宮川公男によると「人間のつくる社会的組織のなかに存在する信頼、規範、ネットワークのようなソフトな関係」と概説される。 授業を通して、ソーシャル・キャピタルという「資本」の存在を実感することが出来た。
特に、第11回、中小企業の連携では、ETV特集「“小さな金融”が世界を変える〜アメリカ発 元銀行マンの挑戦〜」の映像を見たとき、ワシントンの移民のところで、インターネットで五年ぶり家族と会えられる時にはすごく感動しました。同じ異国で生活している私はなんとなく彼の気持ちがわかると思いうので、共感できる。なんとかしたい、手助けしたい、という思いこそ、ソーシャル・キャピタルだと考えられる。
【自分の研究との関連】
私の研究テーマは「中国における高級ブランドと企業のコミュ二ケーション戦略」である。本研究の目的は、激変する今日のマーケティング環境に適応する効果的なコミュニケーションデザインの在り方の研究を達成することを主眼とし、中国における高級ブランドのマーケティングコミュニケーションの新戦略提唱を実施する。内容的に言えば、自分の研究は政策科学の授業と直接的な関係があまりないだと思う。
だが、コミュニケーション戦略もソーシャル・キャピタルの一つだと考えられる。また、授業で取り上げられたさまざまな調査方法や研究方法が今後修士論文執筆、研究に非常に役立つものであった。
- 佐々木真行
【授業の感想】
ソーシャル・キャピタルについては「調整された諸活動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワーク」(パットナム、2001、206-207頁)と、文面通りの定義で使用可能であると考えていた。
ところが、グラミン銀行、バングラデシュへの飲料水浄化事業二件、杤迫篤昌氏の移民向け送金サービスと、これに付随したローンサービス等々、ソーシャル・キャピタルの可視化事例を見てゆくうちに、修士論文に用いる際には絞り込む必要があるということが実感できた。より正確には、「信用」という点である。
あくまで現段階での仮説にすぎないが、規範やネットワークその他のソーシャル・キャピタルは、信頼によって醸成することができるという点である。ただ、この信用とは、実践対象から実践者に対する信用だけではない。実践者の実践対象に対する信用も含まれてくる。
【自分の研究との関連】
さて、私の研究テーマは「地域共同体再生のための地域通貨」であるが、この信用の贈与は最重要要素としてもよいくらいに大きい。今枝によれば、地域通貨はそれを受け取る側が地域通貨を信用している必要があり、これを受け取るということは、地域通貨を渡す側に対して信用の贈与を行っているのだという(今枝、2008年、184頁)。考えてみれば確かにそうだ。法定通貨のように国家という保証人なしにただの紙切れを受け取るのだから、地域通貨に対する信用がなければ成り立たない。受け取る人間は、渡す人間に対して目に見えない信用というソーシャル・キャピタルの一要素を贈与しているのである。 この信用がどのように醸成されうるのかという点に関しての言及は、ここでは、既存の活動の利用や地域でのつながりを新たに構築してゆくことによる物語の共有を通してなされるものと考えている、という程度にとどめておく。
しかし、連帯感や共助体制といったソーシャル・キャピタルを醸成するためにソーシャル・キャピタルを醸成するというトートロジーではないかという指摘が考えられる。 言い換えれば、信用してもらうためには信用が必要なのだ。これは、パットナムに対するものと同様、目的が前提となってしまうという批判である。
確かに、地域通貨導入の目的はソーシャル・キャピタルの醸成も含むが、問題はソーシャル・キャピタルの醸成ないし増大である。導入前の信頼獲得は目的ではない。流通によるつながりを構築するための手段としてのソーシャル・キャピタルである。
また、無視できないのが経済圏の囲い込みである。2050年までに人口は3,300万人減少して人口密度の急激な低下を招くため、すなわち「地域的凝集を伴う人口減少」となるため(国土交通省、2011、9頁)、経済規模も急速に縮小し、コンパクトシティ化の必要性が高まる。その中で労働人口は3,500万人もの大幅な減少も同時に生じるため、多くの地域共同体では、流入する貨幣量よりも、企業を介して外部へ流出する分の方が大きくなってしまう。
人、物があっても金がないために地域が麻痺するのを防ぐという目的、あるいは、法定通貨で測れない価値を拾い上げるという目的が、地域通貨にはあるのである。よって、地域通貨導入のためのソーシャル・キャピタル醸成は、トートロジーではない。
最後に、ここで述べた内容は現段階の仮説に過ぎない。より正確に、より有意義な議論ができるよう、今後も研究を進めてゆきたいと考えている。
【参考文献】
- パットナム、D『哲学する民主主義』2001年、NTT出版。
- 今枝俊哉『コミュニティ再生の方位と原理――新しい労働運動および互助システム形成に見る近代理念の弁証法』2008年、早稲田大学出版部。
- 国土交通省国土計画局『国土の長期展望』中間とりまとめ、2011年、国土交通省国土計画局。
- 穆c
【授業の感想】
前期の講義では、テキストの読解や事例の映像資料視聴を通して、今日における政策の形成と実行において重要な概念となったソーシャル・キャピタルの意義を理解することができた。
先生の指示により、授業開始まで各自PCにてメールの確認や検索、執筆などの作業を通して、時間を有効に使うことができた。また、先生が授業の資料などをコースナビに置いてくださったので、自主的に勉強したり、関連情報を検索したりすることができた。そして、レビューシートに感想を書き、先生からのコメントをいただくことができた。これにより効率的に予習、復習することができた。このような授業の進め方はマルチメディア環境下での学習に非常に役立った。
今学期の講義では、立命館大学教授、佐藤誠先生の論説「社会資本とソーシャル・キャピタル」を中心に展開された。ソーシャル・キャピタル論の概説及びロバート・パットナムへの7つの批判などを学ぶことができた。また社会資本とは大きく異なる内容で理解されたソーシャル・キャピタルの重要性が、国際協力などの分野で指摘されるようになってきたということを確認した。テキスト論文「社会資本とソーシャル・キャピタル」のほか、田中洋子(2013)「グローバル工業化が変える世界」(シリーズ@〜E)と渡邊奈々(2007)「社会起業家という仕事」といった文献資料も先生が用意された。授業前に持った疑問はソーシャル・キャピタル理論の展開、経済やコミュニティへの影響、中小企業との提携であった。授業を通してそれらをより包括的に理解することができた。
「ソーシャル・キャピタル」という概念は信頼、規範、ネットワークを中心とした非常に抽象的な概念であると学んだ。私が講義を受ける前のソーシャル・キャピタルについて知っていることは、「ロバート・パットナム」についてだけだった。本講義においては、その概念について上述の教材を用いて学んだだけでなく、ソーシャル・キャピタルが企業や地域社会において活かされている具体的な事例についても学んだ。そして「ソーシャル・キャピタル」をより具体的に理解するために、映像資料等を用意され、非常に分かりやすく、様々な角度から学ぶことが出来た。
例えば、クローズアップ現代「市民バンクが被災地を支える」、NHK「“世界を潤せ”ソーシャル・ビジネス最前線」、栃迫篤昌のMFIC「“小さな金融”が世界を救う
」など映像資料が取り上げていた。また、ETV特集「“小さな金融”が世界を変える〜アメリカ発 元銀行マンの挑戦〜」は、信頼の力で、アメリカに出稼ぎする貧困層の移民たちが銀行口座開設を支援または、融資をすることを通して、貧困生活から抜け出そうというドキュメンタリーであった。そして、今村晴彦、園田紫乃、金子郁容『コミュニティのちから――”遠慮がちな”ソーシャル・キャピタルの発見』において、日本におけるソーシャル・キャピタルは「遠慮がちなソーシャル・キャピタル」であると論じている。一般的に強い自発性に基づいたソーシャル・キャピタルが議論されてきた中で、「遠慮がち」に着目したものは日本におけるソーシャル・キャピタルを考える上で非常に参考になった。さらに、NHKクローズアップ現代「働くみんなが“経営者”〜雇用難の社会を救えるか〜」の映像を通して、ディーセント・ワークというのは、働きがいがある、人間らしい仕事であると勉強になった。先生が指摘されたように、ディーセント・ワークを実現するには困難な状況だが、徐々に拡大し時代の流れも少しずつその方向へ変わっていくと思う。最後に、講義の中に一番興味深かったのは、「M・ユヌスのソーシャル・ビジネス戦略」というテーマだった。グラミン銀行の関連の映像資料を通しより深く理解することができた。一つの資料は、NHK未来への教室(第一、二部)「連帯の銀行が貧困を救う」、「貧困の中で育つ起業家精神」だった。もう一つの資料は、クローズアップ現代「“貧困層ビジネス”グラミン戦略の光を影」という映像だった。また、ユヌスのグラミン銀行関連のトピックスを先生からコースナビにリンクしていただいた。特に、グラミン銀行総裁ユヌス氏解任に関する記事に対して、レビューシートにも書かれたように、衝撃的であった。この記事に関しては、直接の解任理由はグラミン銀行設立法違反ということだが、本当はユヌス総裁がグラミン銀行の資金100万ドルを流用したという疑惑が原因だと考えられている。しかし,ユヌス総裁の支持者に言わせれば,その疑惑自体はユヌス総裁とハシナ首相の政治的対立(2008年の総選挙)に根差したでっち上げなのだと言う。
これらの事例から、ソーシャル・キャピタルとは、さまざまな社会関係に適用できることを感じた。講義では、議論や測定された数値だけではなく、映像資料のおかげで「ソーシャル・キャピタル」の持つ力をより鮮明的に実感できた。
【After:自分の研究との関連】
私の修士論文のテーマは、「日本企業における外国人留学生の定着問題」である。現段階では研究目的は二つを考えている。一つ目は、外国人労働者の離職者数・離職率についてだ。この外国人労働者の離職者数・離職率が共に大きい背景として、日本の従来の雇用制度と外国人が求める人事スタイルの間にギャップがあると考えられる。そのギャップが生じる原因を解明する事が第一の研究目的である。二つ目は、外国人留学生の職場定着難の改善についてである。上述のギャップを埋めることができれば、留学生にとって安定的に働きやすい環境の整備及び定着問題の解決を実現できると考えられる。そのために、どのように環境の整備を行えばよいのかを考察する、というものである。
講義で得た知見を基に私は自分の研究について再考したいと考える。なぜならソーシャル・キャピタルは企業の組織論を考える上では切っても切りはなせない概念であるからだ。そして、私の研究テーマは上述した通りであるが、私の研究においてもソーシャル・キャピタルはキーワードとなり得るだろう。また、講義の前半で、上沼先生が取り上げていただいたマイクロ・クレジットについては個人的には大きな視座を得ることが出来たといえる。そしてこの講義を通じてソーシャルキピタルそのものだけでなく、研究手法についても学んだ。これからは文献を読み進めるのと並行して、さまざまな具体例に触れるようにしたい。そうすることで、文献の中の事例ばかりに縛られることなく、他の事例も参照したい。
また、今期の授業を通じてソーシャル・キャピタルを醸成させる方法や政策の全てを学べた訳では無い。しかし基本的な知識を得るための教材、そして実在する事例を映像から学ぶという形式は、非常に理解しやすかった。
- X
【授業の感想】
政策科学Uの授業では、佐藤誠の「社会資本とソーシャル・キャピタル」という論文を読んで、「ソーシャル・キャピタル」の基礎概念を学んだ。そして、「ソーシャル・キャピタル」について映像資料を使って、いくつか日本国内外の例をあげて、分かりやすく学ぶことができた。
講義を受ける前にソーシャル・キャピタルとは、社会経済や企業の資本などのことのではないかと思ったが、実はそうではないということを講義が受けたからわかった。例えば、ハニファンによると、ソーシャル・キャピタルは比喩的な言葉であり、不動産・資金・金銭などに関係なく、人々の日常生活に欠かせず感知されるもの。即ち、個人ないし家族から成る社会集団の構成員相互の善意、友情、共感、社交などのことである。
今ソーシャル・キャピタルとは、人と人、人と社会といった間の「つながり」や関係性やコニュニティのことを指している。貧困や地域過疎化など現代社会に抱いた様々な問題はソーシャル・キャピタル理論を活用することによって解決できる。ソーシャル・キャピタル理論はもっと重視すべきだ。という論点があちこちから聞こえる。正直に言って、このような議論に対して、最初、それは理想的な社会のではないかという疑問を抱いた。しかし、実例の映像を見て、そういう疑問がだんだん解消された。例えば、「“小さな金融”が世界を変える〜アメリカ発 元銀行マンの挑戦〜」は、枋迫篤昌さんという元バンカーがマイクロファイナンスの成長を促す仕組みを事業化したマイクロファイナンス・インターナショナル・コーポレーション(MFIC)を創立し、先進国アメリカにいる「出稼ぎ移民」たちを安くかつ迅速的に母国に送金できたり、融資してもらえたりして、彼らを貧困生活から抜け出したというすばらしい事例である。
【自分の研究との関連】
自分の研究テーマは政策科学という授業とは直接的な関係がない。自分の専攻分野と異なる分野の成果を取り入れる際の方法論を身につけて、批判的摂取により自らの研究をより豊かに発展させるスキルを獲得することをめざすために、この授業を受けた。そして、そういう点を常に意識して講義を参加してきた。実際講義を参加したら、先生が、資料の集め方や先行研究の整理する方法に関する説明は、自分の研究にとって非常に役に立つと思う。また、今回の講義から色々ソーシャル・キャピタルに関する知識を学んだので、後期の講義も期待している。
2012年度秋学期メンバーによるリポート(at random)

メンバー集合写真
- Y
【授業の感想】
政策科学Uの授業では、金子郁容先生の『コミュニティのちから―”遠慮がちな”ソーシャル・キャピタルの発見―』や、渡辺靖先生の『アメリカン・コミュニティ』、宮川公男先生の「ソーシャル・キャピタル論」などを教材として使用し、「ソーシャル・キャピタル」について学んだ。「ソーシャル・キャピタル」という概念の提唱者として、ロバート・パットナムは名高いが、本講義においては、その概念について上述の教材を用いて学んだだけでなく、ソーシャル・キャピタルが企業や地域社会において活かされている、具体的な事例についても学んだ。
わたしは、地域コミュニティや市民政策などの分野にかねてから関心を抱いていたため、講義に参加する前から「ソーシャル・キャピタル」という言葉自体は知っていた。ますます複雑化した社会において、我々がより良い社会を築き上げていくには、「ソーシャル・キャピタル」や「コミュニティのちから」、「絆」などという要素が欠かせない、とはよく聞く話である。たしかに、言いたいことはわかるのだが、その概念は曖昧で、それはあくまで理想郷では…?という印象があり、ソーシャル・キャピタルが失われてしまったと言われている地域社会において、再びそれを築き上げ、それが機能することは可能なのだろうか、と講義を受ける前には疑問に思っていた。
しかし、講義を受け、日本だけでなく世界中のさまざまな具体例を知ったことにより、ソーシャル・キャピタルに対するわたしの考えは、多少なりとも変わったように思う。たとえば、イタリアの中小企業の産業集積地であるプラート市において、企業がソーシャル・キャピタルを活用し、収益をあげている事例が講義の中で紹介された。これにより、ソーシャル・キャピタルは必ずしも地域のなかの住民同士の関係という文脈において活かされるものではなく、企業同士の関係においても有効であることを知った。そのほかにも、足こぎ車いすやマイクロファイナンス・インターナショナルなど、ソーシャル・キャピタルを活用したたくさんの実例が取り上げられた。
これらの事例から、ソーシャル・キャピタルとは、やや曖昧で具体的に形の決まったものではないかもしれないが、さまざまな社会関係に適用できることは確かそうだと感じた。講義を受ける前に抱いていた疑問がすべて解消されたわけではないが、基本的な知識を得るための教材と実在する事例を映像から学ぶという形式は、非常に有意義であったと思っている。
【自分の研究との関連】
わたしは「地域における多文化共生の実現とその課題」をテーマに、研究を行っている。この講義の中で学んできた「ソーシャル・キャピタル」という概念を、自分の研究の中で用いるかどうかはまだ定かではないが、この講義の形式は、自分の研究を進める上で用いて、活かしたいと考えている。
古典的、あるいはその分野で主流の理論や概念を、文献を通して習得することはもちろん研究を進める上で必要不可欠であるが、そのような文献を読み進めていくうちに、わたしは壁にぶつかってしまうことがよくある。
それはたとえば、先述したような、「ソーシャル・キャピタルとはあくまで理想郷でしかないのでは…?」という考えが一度頭に浮かんでしまうと、その考えからなかなか離れることができなくなることだ。しかも、その理論に代替するような、ほかの有力そうな理論や概念が何であるのかを見つけ出せずにいると、「ソーシャル・キャピタル」という概念を知識として持っていても、その理論や概念に対する自分の意見を持てないままにふわふわと漂うような状況に陥る。
だが、今後再びわたしが壁にぶつかったときには、この講義の、文献を読み進めるのと並行して、さまざまな具体例に触れるという形式を、是非とも活用したい。もちろん、文献のなかでいくつかの事例は紹介されているはずであるが、その事例ばかりに縛られることなく、他の事例を参照することを忘れずにいたい。文献から一度離れて、文献以外の場所で取り上げられている事例を学んだ上で、もう一度文献に立ち返る、というやり方を今後の研究を進める上で取っていきたい。
- 顧寅凡
【授業の感想】
2012年後半の政策科学IIの授業では、宮川公男・大守隆『ソーシャル・キャピタル』、渡辺靖『アメリカン・コミュニティ』をテキストとして、「ソーシャル・キャピタル」を中心に勉強した。
「アメリカン・コミュニティ」のまとめ
授業では特に第二章「ダドリー・ストリート ボストンのコミュニティの再生力」を説明し、当時の映像VTR資料も見た。この内容に対して、専攻ではないから、はっきりまとめることができない。しかし、資料を読んで、VTRを見て、単純な感想が浮かんだ。貧しい人々が自己を救う話だと思う。最初は貧困ライン以下で暮らす住民が四十パーセントを超えた。火災など問題で、地獄みたいな生活で暮らした。
貧困生活を克服するため、自発的にコミュニティ組織を組み立てた。当初、組織の委員会の人数がわずか4人しかいなかった。目立つ成果がなかったので、住民たちは真に地区のコミュニティ代表する組織、住民主導による組織づくりを求めていったのである。結局、コミュニティ代表組織の構成方法が変わった。そのダドリー地区の人々の中、各階層を代表できる人をコミュニティの理事とした。
できる限り住民の心の声を聞く、要求を満たすために作ったこのコミュニティは、その地区の復興に目立つな役割が達成した。
中国共産党の下で成長した私として、デモクラシーに対する一貫した感想は、低効率性、多数派の暴政であった。無論、国家事情等でデモクラシーの制度は確かに問題がある。しかし、国内の事情、国民生活等、最大限で全国民の幸福を役に立つため、デモクラシーの下での住民コミュニティは一番いい組織だと思う。
「ソーシャル・キャピタル」のまとめ
1章でのソーシャル・キャピタル論が政策等に与えた影響についての概観は、秀逸である。社会科学の理論が社会情勢から中立的ではあり得ないことがよくわかる。
2章のタイトルが印象的だった。題して「ひとりでボウリングをする」。93年に少なくとも一度はボウリングに行ったアメリカ人は80年から10%も増え、連邦議会議員選挙で投票する人を三分の一も上回ったというのに、クラブのメンバーとしてボウリングする人はその間に四割も減ったと指摘したのである。それは仲間と飲食するビールやピザの売り上げを減らしただけでなく、会話するチャンスも奪い、ソーシャル・キャピタルを減じた。
社会科学研究科での1年の勉強を通じて、市民社会等民主主義の概念をよく受け入れた。世の中の幸福の定義はなんだろうとよく思い込んだ。現在中国で金銭万能論など認識の上、やっぱりお金持ちになれば、それは一番幸せだと思う人は多い。中国のとある評論家はそれに対して、「官僚に対して不満の根源とは、不正待遇を受けることではなく、もし自分は官僚ならば、不正待遇を受けることはあり得ないという嫉妬である。」と批判した。
現在の中国で、政府は「精神的文明の構築」を提唱している。単なる経済的な成長は社会の幸福ができず、他人を助けて、国家建設を支持することも重要だと主張している。
皮肉だが、社会主義の中国の中、NGOなど市民社会の要素はまだ少ない。一般市民として、NGOに似ている組織とは政府イベントを支持する民間ボランティア組織しかない。中国の民主化の任務はまだまだであろう。
【自分の研究との関連】
今考えている修論のテーマは、中国の所得分配である。着目点と言えば、格差問題である。経済発展によって、中国は著しく成長ができたが、市民社会、ネットワーク関係が、逆に改革開放以前より低下してきた。
「自分で自分を救う」、これは本授業で学んだソーシャル・キャピタルの根源だと思う。中国の膨大な地域格差、都市内格差は経済発展の不平衡の原因もある。しかし、国民は他人のせいで自分自身が不正を与えられたと思って、他人が改善すれば(官僚腐敗で政府に処分されるなど)自分は幸せになれると信じている。すなわち、自分の幸福は他人に寄与するという認識がよく頭に受け入れた。
当然、格差問題に対して、税制、福祉等政府政策の役割が非常に重要である。ボストンの事例のように、もし貧しい人たちが、隣の人とネットワーク関係を作ったら、できる限り、一定の生活水準を上げる事もできるだろうか?
中国共産党の独裁統治にたいして、EU、アメリカはずっと批判している。しかし、今中国の国民たち自身は、民主主義の理念を理解したのだろうか?たとえ、国家が民主政府を作っても、本物の民主国家とはいえないだろう。政府の努力、国民の自分救済、の両者が相まってはじめて、中国の調和社会が達成できるであろう。
- 清野希
【授業の感想】
今学期の授業は、「ソーシャル・キャピタル(SocialCapital)」について映像資料等を使い、非常に分かりやすく、様々な角度から学ぶことが出来た。講義を受ける以前のソーシャル・キャピタルへの印象は「ロバート・パットナム」、「地域との結びつき」などといった印象を持っていた。また日本においては核家族化が進行し地域との結びつきが薄れていることから、ソーシャル・キャピタルは減少していると考えていた。
しかし、猪口孝『日本政治の特異と普遍』(NTT出版、2003年)の「第3章日本におけるソーシャル・キャピタルの基盤拡充」を読むことで、減少しているわけではないことが分かった。それによると、@過去50年間続いてきた民主主義体制化で、日本のソーシャル・キャピタルは着実に増加してきたこと、A工業化された民主主義国家では、人間関係が非常に複雑になり、交流の輪が広がる傾向があるため、過去数世紀にわたって主に個人がじかに向き合う環境や集団的な環境の中で蓄積されてきた日本のソーシャル・キャピタルが、以前よりも個人主義的になると同時に拡大していったと述べている。
確かに、社会が個人主義的になったことでソーシャル・キャピタルが減少しているという方は短絡的だったのかもしれない。日本では近年、NPOと呼ばれるような市民社会組織が増加傾向にあるなどから、市民の活動する場が増えていると考えられる。日本においては、1998年に特定非営利活動促進法によって、さらにNPOは認知されていった。内閣府によれば、特定非営利活動促進法に基づく団体は、2012年12月31日時点の認証数は46,975団体のぼるという。さらに、社会の個人主義化が進んでいると思われる東京などの都市部に、多くの団体が存在する。これは都道府県による人口差があるが、都市部においても市民活動は促進されていることになるのではないだろうか。
また、今村晴彦、園田紫乃、金子郁容『コミュニティのちから――”遠慮がちな”ソーシャル・キャピタルの発見』において、日本におけるソーシャル・キャピタルは「遠慮がちなソーシャル・キャピタル」であると論じている。一般的に強い自発性に基づいたソーシャル・キャピタルが議論されてきた中で、「遠慮がち」に着目したものは日本におけるソーシャル・キャピタルを考える上で非常に参考になるものであった。
【自分の研究との関連】
私の研究は国際関係の中でNGO(Non-Government Organization)について研究している。また地域においてはカンボジアにおけるNGOを扱う予定である。そのため本講義において「ソーシャル・キャピタル」を扱えたことは有意義であった。
日本において金子郁容は「遠慮がちなソーシャル・キャピタル」があるという意見を述べていた。このように国や地域によって「ソーシャル・キャピタル」の形や要素などは違っているのだろうか。私がカンボジアにおけるNGOの発展を考えていく中で、このような視点を得ることが出来たことは大きい。カンボジアは1991年にパリ和平協定で紛争が終結したが、ポルポト時代に社会インフラやコミュニティが崩壊した。そのような歴史を持つ国はどのようなコミュニティ形成をしてソーシャル・キャピタルはどういう形なのか。本講義によってそのような興味が沸いた。
また、市民の活動組織であるNGOの展開を考えることは、市民社会の形成やソーシャル・キャピタルのベースとなるコミュニティの把握に繋がってくるからだ。また、そのような日本とカンボジアのコミュニティの発展とNGOなどの市民社会活動組織形成の違いを把握することにおいても、ソーシャル・キャピタルという視点も面白いのではないだろうかと考えた。
このように本講義でソーシャル・キャピタルを学べたことは修士論文執筆、研究に非常に役立つものであった。
- 李龍文
【授業の感想】
2012年後期の政策科学Uの授業は、アメリカの政治学者ロバート・パットナムによる概念「ソーシャル・キャピタル」とコミュニティ―の再生を中心に展開されていた。
授業の最初は、PDF資料の回覧方法、メモの取り方、オンライン辞書の引き方などを詳しく説明した。マルチメディア環境での学習に非常に役立ったと思う。授業のテキストは英語版の『Handbook of Social Capital』の他に、学生のニーズに応じて、『コミュニティのちから”遠慮がちな”ソーシャル・キャピタルの発見』、『アメリカン・コミュニティ』、「日本におけるソーシャル・キャピタルの基盤拡充」、「ソーシャル・キャピタル論 歴史的背景、理論および政策的含意」といった文献資料も用意された。授業前に持った疑問(例えば「ソーシャル・キャピタル」理論の展開、測定基準、政治経済やコミュニティへの影響)をより包括的に理解することができたと思う。
また、「ソーシャル・キャピタル」という概念は信頼、規範、ネットワークを中心に、非常に抽象的な概念である。これをより具体的に理解するために、授業の中ではいくつかの映像資料が用意された。例えば、映像資料『ダドリー通り―破壊された街の再生の物語』は、犯罪率の向上、居住環境の悪化、地域経済の不振などの問題に直面しているボストンにあるコミュニティが、住民の力により「ソーシャル・キャピタル」が蓄積され、再生へと向かったというドキュメンタリーであった。また、「“小さな金融”が世界を変える〜アメリカ発 元銀行マンの挑戦〜」は、信頼の力で、アメリカに出稼ぎする貧困層の移民たちが銀行口座を開設したり、融資してもらったりすることができ、貧困生活から抜け出したというドキュメンタリーであった。議論や測定された数値だけではなく、映像資料のおかげで「ソーシャル・キャピタル」の持つパワーをより鮮明に実感できたと思う。
【自分の研究との関連】
私の研究テーマは「中国における少数民族コミュニティの崩壊と再生」である。私は中国出身の朝鮮族であるため、特に中国の延辺朝鮮民族自治区のコミュニティ再生問題に関心を持っている。
1991年中韓国交樹立を分岐点とし、昔連帯感の強い朝鮮民族コミュニティがだんだん崩壊し始めた。韓国への出稼ぎ労働者の急増に伴い、様々な問題が日々深刻になっている。例えば、出稼ぎ労働者の家庭収入がもともと自治区で農業をする家庭より遥かに上回り、貧富の差が拡大する問題。両親の長期不在により、留守児童の教育問題や青少年犯罪問題、高齢者の介護問題。漢民族に同化され、朝鮮語と朝鮮族の生活習慣を維持することが難しくなる問題。
私は常に、深刻化した問題をどうやって解決するのか、朝鮮族コミュニティをどうやって再生へと向かわせるのかを考えている。私は今回の授業を通じて、コミュニティの再生に「ソーシャル・キャピタル」論が強い力を持っていることを確認した。そのため、私の論文に「ソーシャル・キャピタル」を取り入れようと考えている。
- 林翠緯
【授業の感想】
ダドリー・ストリートについて
ソーシャル・キャピタルという言葉を初めて見たとき、社会経済や企業、利益などのような概念を指すことだと思ったが、実際は差が大きかった。
その定義からすると、すぐ分かるように、以下の三つの異なる定義がある。(1)OECD(経済協力開発機構)の「規範や価値観を共有し、お互いを理解しているような人々で構成されたネットワークで、集団内部または集団間の協力関係の増進に寄与するもの」。(2)パットナムの「人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率を高めることのできる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」。(3)佐藤修の「ナレッジ、リレーション、トラスト、ブランド、マネーという五つのキャピタルを提供し合うもの」。
今、ソーシャル・キャピタルと呼ばれ、人と人、人と社会といった間の「つながり」や関係性が、様々な分野で重視され始めている。事例を取り上げると、アメリカのダドリー・ストリートはその例の一つと言える。一九七〇年代の終わり、ダドリー地区の約三割にあたる千三百の空き地は、不法放棄されるゴミで溢れかえっていた。トラックが運んでくるゴミの量は毎日六百トンを超えた。警察もパトロールをほとんどしないため、麻薬の取引が公然と行われた。この地区に住んでいる人は大部分が黒人で、貧困ライン以下で暮らす住民が四〇パーセントを超え、マサチューセッツ州全体で最も貧しい地区の一つとなった。保険金目当ての放火が絶えず、家々は燃え尽きていった。
しかし、こんな絶望的な状況でも住み続けた人々がいた。自分自身の意思でそうした者あるいは、よそへ移り住む余裕が無かった者たちが、コミュニティ再生への戦いを挑み始めた。一九八四年にボストン市の再開発局による大規模なスクラップ・アンド・ビルド計画がマスコミにリークされたのが契機だった。計画そのものは既に頓挫していたものの、長らく投資対象からはずされていたこの地区が、民間ディベロッパーの投機ターゲットとして浮上し始めた。危機感と焦燥感から、住民の間でいよいよ何とかせねばという意識が高まっていた。
地元組織の協力のもと、非営利組織「ダどリー・ストリート・ネイバーフッド・イニシアティブ(DSNI)」の立ち上げに成功し、翌年、約二百人の住民が参加するなか、最初のミーティングを開催した。DSNIの目的は、従来型の福祉サービスやプログラムン野提供、箱モノの建設ではなく、住民のイニシアチブに任せることにある。現在、DSNIへの参加住民は三千七百人、十年前に比べほぼ倍増した。DSNIは戸別訪問を重ね、住民のニーズを聞いて回った。「私たちの街にゴミを捨てるな」というキャンペーンを立ち上げた。車、タイヤ、洗濯機、テレビ、冷蔵庫、アスベスト(石綿)、そして残飯。異臭のあまりはいてしまう子供や、ネズミの異常繁殖などによる衛生状態の悪化から病気になる住民が出るほど、いろいろな深刻かつ喫緊の問題であった。
一九八六年、多くの住民ボランティアが参加したキャンペーンは大きな反響を呼び、新聞やテレビでも取り上げられた。レモンド・フリン市長も応援に駆けつけ、市がゴミの除去と投棄を防ぐフェンスを設置すること、違法なゴミ捨て場を閉鎖することを約束した。郵便ポストが二ヶ所に設置されたことも大きかった。行政を動かした。行政が動いてくれた。そして、何よりも、ハガキ一枚出すのに三十分も歩くかなくて済むようになった。翌年には、ダウンタウンへと通ずる通勤電車も再開通した。目に見える変化は希望の兆しとなった。
かつて廃棄物が散乱し、ネズミが繁殖し、雑草が放置されていた空き地は、手入れの行き届いた美しい共有地へと変わった。毎夜のように耳にしていた消防車やパトカーのサイレンの音、そして不法放棄される金属やガラスの音は、タウン・コモンのフェスティバルの音色へと変わった。家の焼ける臭いや腐敗した残飯の臭いは、有機栽培された野菜の香りへと変わった。今日でも、貧困と犯罪の温床と化しているインナーシティは全米で二百地区以上あるとさるが、そうした地区にとって、ダドリー・ストリートはまさに「希望のストリート」となった。
なぜこういった混乱しているダドリー地区がきれいになるのかというと、まず、住民たちは地区内の問題意識を持ち、そして地区の活動、会議などに積極に参加させ、お互いにコミュニケーションを取り合って信頼を生まれ、徐々に地域の構成員が帰属意識を形成したうえで、自ずと共同に連携して現有の住宅環境を改善しようとした。その一方で、政府代表であるレモンド・フリン市長の行政の資源を支援することがあるし、非営利組織(DSNI)もその地区共同体の一部となって住民に従来型の福祉サービスやプログラムを提供することでもあった。すなわち、この地区においては住民団体や地域政府、非営利組織などが合意して共同でその地区の問題意識を共有するにもかかわらず、さらに相互信頼し、協力して問題を解決していくことである。要するに、人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を改善できるようになった。それはいわゆるソフト・パワーをもつソーシャル・キャピタルという概念である。
参考文献:
大守隆「つながりが生む新たな社会」『THE WORLD COMPASS 2004 May』
渡辺靖「ダドリー・ストリート―コミュニティの再生力」『アメリカン・コミュニティ』新潮社
- 宮川真紀
【授業の感想】
今学期において政策科学Uを選択したのは、産業連関分析論や都市コミュニティデザイン論を履修し、従来の経済学や都市政策論などでは解決が困難な現代社会の諸問題を、地域やコミュニティといった観点から考察する研究に興味を持ったためであった。政策科学に関する具体的な理論、応用事例などについての事前知識はほぼない状態で授業に臨んだ。
本講義では、近年急速に研究が進む「ソーシャル・キャピタル」について、その歴史的背景をはじめ、世界各地における実践、現在の日本の諸問題への応用や今後の課題等について、複数の文献、資料を用いて論じられた。
「ソーシャル・キャピタル」とは、宮川公男によると「人間のつくる社会的組織のなかに存在する信頼、規範、ネットワークのようなソフトな関係」と概説される。ソーシャル・キャピタル理論は、ロバート・D・パットナムが1970年代から20年に渡りイタリアの20の地域を調査した研究を礎にして形成されたとされる。地域において、投票行動、組織加入など社会参加率の高い地域ほど成功していることから、市民参加に関する規範とネットワークを体現しているソーシャル・キャピタルが、効果的な政府や経済発展の前提であると論じている。戦後経済成長を遂げたアメリカにおいて、諸外国の成長による競争力の低下やそれに伴う人員削減等で景気が減速し「大きなUターン」を迎えたが、この背後にはソーシャル・キャピタルの減退があると指摘されている。中産階級が郊外に移転することで、通勤時間が長くなり地域活動に参加しない、あるいは空白化した都市部での犯罪が増えるインナーシティ問題等があげられる。テレビや電子化による余暇時間の私事化・個人化の進展で、大勢で楽しむものであったボーリングを1人で行うbowlling aloneという概念のように、voluntaly comunityがなくなりつつあるという懸念である。
アメリカの転換期に荒廃した都市を再生した例として紹介された、アメリカ・マサチューセッツ州のダドリー・ストリートの事例が印象的であった。白人の郊外流出で地価が下落し放火によって保険金搾取、空地になるとゴミが不法投棄されるという「インナーシティ」状態であった街を、住民のボランティアによるキャンペーンや住民主導のコミュニティ開発によって都市再生に導いたというケースに、ソーシャル・キャピタルの有効性を認識した。
また、ソーシャル・キャピタルがユニバーサルデザインと親和性が高いという指摘も興味深かった。一般的にバリアフリーという用語は、弱者を手助けするという、一方向の概念であったが、ユニバーサルデザインは障碍者、高齢者、貧困層など排除してしまうことから敵対化、社会不安を生むが、social inclusion、つまり社会に内包することで課題が帰結される。他人事ではなく社会の課題として取り組み、行政、企業、NPOなどが補完関係になることでより推進されるというのは、これからの時代にますます必要になってくると思われる。
授業を通して、ソーシャル・キャピタルという「資本」の存在を実感することが出来た。これまで資本とは、貨幣、土地など有形のものだけとみなされたが、もはや有形の資産だけでは社会の発展に寄与しないといえる。近代化資本主義社会化により、経済発展、消費の増大、生活水準の向上が進んだが、それとともに郊外化、地域社会の衰退、経済格差、環境汚染などの社会問題も浮上することを人類は経験した。資産と生産拠点があるだけでは、地域社会が活性化せず、投資効率も悪い。そこで、人と人、人と社会のつながりや関係性という資本が必要となる。「つながり」や「信頼」などは、感情的・心理的な概念のように捉えがちだが、エリック・M・ウスラナーによる「他人への信頼(most people can be trusted)と国レベルのイノベーション、国際化、情報化、市場開放には大きな関連性があり、その国の経済成長、経済格差、汚職・腐敗などにも影響をもたらす」との指摘のように、「信頼」と経済社会との関連も研究されている。授業において、見えないものを形にする困難性があるが、代理変数を調査することで政策的に操作可能になるという指摘がされたように、ソーシャル・キャピタルを経済理論として確立させることが重要であるという印象を持った。つながりや信頼、あるいはソーシャルやコミュニティといった、これまでの経済学では重要視されてこず、おそらく社会学的な文脈で論じられてきた概念を、どのように理論的に構築し、経済政策、都市計画などに応用するかが今後求められるのではないか、と考える。
【自分の研究との関連】
科目履修生のため研究テーマは確立していないが、地域社会におけるライフサイクルと労働、女性の働き方と消費者の側面とのバランスについて関心を持ち、研究している。
少子高齢化、過疎化が進み、ジェンダーバランスも未だ解消されない現代日本社会においては、経済弱者の生活基盤の確立が重要である。しかし、地方を例にとると、低賃金労働しかなく、仕事を求めて都市に若年人口が流出し、地域独自の発展が望めない構造ができあがっている。生まれた土地で育ち、就労し、生涯を過ごすという自然なサイクルが困難になっている。女性に限定すれば、都市においても非正規雇用が増えていることから就労自体が難しく、自立の機会が減り、選択の幅がさらに狭い。
現代の日本は、戦後の経済成長から一転不況を迎え、豊かな時代の政策に歪みがきているという点で、アメリカの「大きなUターン」の時代と類似しており、その再生に活用されたソーシャル・キャピタル理論が応用できるのではないかと考える。一方、一昨年の東日本大震災においては、国の推進する原子力発電所の事故により地域に甚大な被害が及び、国の有する資本が、地域社会という社会資本を犠牲にする場合もあるということを認識した。
経済成長や国益を優先する社会においては、市場競争が奨励され、個人が自己責任で競争に打ち勝つ新自由主義的な人間像が利益を有するシステムとなっていたが、その仕組みが通用しない時代背景になっていることは疑いがない。今後は、本講義で学んだように、これまで経済弱者だった層を社会に内包することで、新たな経済活動を生み出す可能性がある、という視点を持つことが必要であると考える。
2012年度春学期メンバーによるリポート(at random)

メンバー集合写真
- ジョネイ
【授業の感想】
2012年前期の政策科学Tの授業では、秋吉貴雄・伊藤修一郎・北山俊哉『公共政策学の基礎』、小島廣光・平本健太『戦略的協働の本質――NPO,政府,企業の価値創造――』をテキストとして、「公共政策学の系譜」及び「ゴミ箱モデル」を中心に勉強した。
<「公共政策学の系譜」のまとめ>
政策科学はもともと、政治家や官僚など政治決定者の権力の強さ、経験や知識の分析によって、研究を行ってきた。しかし、このような研究は政策過程の決め方を資料として残せることができるが、モデル化することができないため、一般人が共感しづらかった。政策科学は政策決定の合理化を目指すために、政治学に科学的分析を導入し、政策分析者である専門家の知恵を適用しながら、政策決定を行うようになってきた。管理科学という客観的な研究手段を運用し、合理的な意思決定を行うようになった。研究の目的は最少のコストで最高の便益をもたらす政策を作るということであった。しかし、このような単一した価値観で考えた政策は、複雑な現代社会の様々な現実的な問題を解決することができなかった。また、一般市民はこのような専門家の考え方を理解できないため、政策決定の場から離れ、政治に対する熱心が徐々に冷めていくようになった。
社会を構成する多元価値観を基づいて、政治決定者は完全に合理的な意思決定のプロセスを政策過程に実用した。ある社会問題・争点・課題に対して、まず、決定の枠組みと評価基準を決める。次に、すべての政策代替案を出し、それぞれの利点と欠点を分析して評価する。その後、最も好ましい政策代替案を選び、政策立案として決定し、執行する。最後に、政策を実施し、様々な研究や過去の経験によって政策を評価する。
しかし、このような政策過程を経過したとはいえ、政治家だけではすべての問題を解決できるとは限らない。なぜなら、民主主義の政策科学を実現するために、市民のニーズに合った政策や、市民に受容しやすい政策を作らないといけないからである。政策過程において、市民の協力や知恵も必要になったため、利害関係者だけでなく、市民の参加も不可欠である。そこで、政治決定者が中心とした政策過程の仕組みはが、市民の参加によって大きく変わるようになった。政策分析者の専門家たちは、政策決定者の政治家との議論の過程において市民に対して助言と論証を与え、自ら参加するようになった。市民、専門家、政治家というすべての参加者が平等な立場で見解を表明し、相互和解によって合意が得られ、政策案を作るようになってきた。
<ゴミ箱モデルのまとめ>
ゴミ箱モデルは、1970年代にマーチ、コーエン、オルセンが提唱したモデルである。「計画・目標・課題→すべての選択肢を挙げて評価→決定→実行」のような完全的な合理性に対し、現実的にはよく発生する「やり過ごしによる決定」の状況をよく説明した。 ゴミ箱モデルは国の政策に限らず、早稲田大学の総長選挙やロンドンオリンピック中国の女子体操団体の出場メンバーの決定など様々な場面で適用できると思われる。
【自分の研究との関連】
私の研究テーマは、「日本における保健機能食品のブランド戦略――鹿茸に関する新たなブランド構築方法を中心にして――」である。本研究の目的は、知名度の低い漢方薬材「中国産鹿茸」を、有名なブランドに発展させるためのブランド構築方法を研究することである。
鹿茸(日本語では枝角、中国語名ルーロン)とは、梅花鹿または馬鹿の雄ジカから生え、まだ骨化されていない幼い角のことである。中国においては、鹿茸は貴重な漢方薬として位置づけられている。生薬の一種として2000年以上使用されてきた歴史がある。
鹿茸は高麗人参と同様、中国東北地方の名産物である。しかし、高麗人参と比較すると鹿茸の知名度は未だに低い。特に、日本の消費者にはあまり知られていない。中国東北地方には高品質の鹿茸が多く存在するにもかかわらず、販売の方法が効果的でないため、マーケットが小さくなりつつある。その理由の一つとして、ブランド構築が盤石に出来ていないことが考えられる。つまり、高品質のものが必ずしも強いブランドになるとは限らないということである。鹿茸の知名度を高めるためには、どのようにブランドを構築すべきかを解明する必要がある。
内容的に言えば、自分の研究は政策科学Tの授業と直接的な関係があまりない。しかし、先生の学術的論文の書き方に関する説明は、自分自身にとって大変勉強になった。特に、先行研究をいかに分類し、整理すべきか。また、先行研究を踏まえたうえで、自分のオリジナリティーをどう示すべきかについて、考えさせていただいた。そして、英語で書かれた文献の読み取る力と翻訳する力の大切さも実感し、インターネット上の資料の集め方や、PDFでの編集作業の仕方なども習得できた。
- 林翠緯
【授業の感想】
公共政策学はどのように形成され、展開したのかというと、2つの知識が無視できないのである。それは政策科学の構成要素とした「in の知識」と公共政策のプロセスに関する「ofの知識」ということである。「in の知識」とは公共政策の決定に投入される知識であり、特定の政策問題に対する解決案となる公共政策を決定する上では、多様な知識が要求される。
また、「in の知識」としては、公共政策そのものに関する知識があり、ほかは個別政策領域に関する専門知識も含まれる。その一方で、「ofの知識」とは、公共政策のプロセスに関する知識である。そして、公共政策のプロセスには政策決定、政策実施、政策評価という段階があり、「ofの知識」によって、どのように各段階が行われているかが示される。また、「ofの知識」では、政策プロセスに参加しているアクターとその行動に関し、政策にどのような影響を及ぼしているかが示されるのである。
「in の知識」と「ofの知識」については、実は、「in の知識」より「ofの知識」のほうがもっと面白いと考える。特に、「ofの知識」の進める過程の中では、自身の視野をより広げる概念を含んである。例えば、?社会を構成するさまざまなグループ間の相互作用によって政策が決定されるという多元主義の概念 ?各種プログラムの政策実施、評価 ?知識活用への関心?アクターにとっての自己の利益目的最大化 ?アクターの行動の分析視角として保有する理念(アイデェア)?アクター及びアクター間の政策学習などの概念である。もし「ofの知識」を自分の論文に運用できれば、内容は必ずより充実すると考える。
以上の2つの知識のほかに、授業の中で深い印象を残したのはゴミ箱モデルのコースである。
ゴミ箱モデルの本質は、組織化された無秩序にある。組織化された無秩序は、不明確な選好、不明確な技術、流動的参加構造の三要素によって形成される。そして、その組織の意思決定構造には、問題の流れ、解の流れ、参加者の流れ、選択機会の流れ、の4つの流れが存在する。政策を制定する過程の中で各段階が同時に進めることは特徴であり、最後は偶然的な方式で新しい政策を完成するようになった。例えば、NPO法の立法過程はそのどおりである。
今、社会でいろいろなNPOに関する活動がいよいよ行われてきた。一方で、社会の中で複雑な問題もいっぱい出てきた。「解決する」という仕事はいつも政府だけ独立で実行できると考えられるが、時代が日々少しずつ変わってきたあと、社会課題の解決することはすでに政府自身のことではなく、それは政府の財源と人力などが徐々に不足になったわけであり、そして、企業は社会を支える役割としてのもう一つの力となった。近年に至って、NPOも徐々に成熟化となり、それに、その組織の中で社会の様々な団体を集めたので、今、すでに厖大な組織となった。何年もの経験から、NPOがすでにかなりの能力を持つようになった。したがって、政府、企業とNPOなどが共同的に社会の支える柱として協働すれば、確かに新しい社会観をもたらしたと考えられる。
【自分の研究との関連】
最近、マスコミからさまざまな生活保護に関する不正受給の現象が大量に報道された。自身もちょうどその社会の趨勢に従って、台湾と日本の生活保護法の改正することを研究しようと考える。実は、不正受給の問題を解決する方法は法改正だけで十分ではないのである。例えば、生活保護の受給者に関する失業、心理、家庭などの問題について、法律ですべてを包括することができないので、政府のほかは、企業とNPOの協力も必要である。企業側は雇用の対策を提出でき、NPO側も受給者に社会参与の活動を提供すれば、少なくとも社会の負担はそれによって減少するかもしれないと考える。その一方で、生活保護法の改正については、政策科学の「ofの知識」の概念から考えたら、すなわちいわゆる多元、政策の実施、評価、利益の最大化、知識の活用、アクターの行動のアイデェア、アクター間の政策学習などの知識をすべて考慮し、活用できれば、生活保護から生じる問題も改善できるようになったと考える。確かに、今回の講義から豊かな政策知識を学んだので、後期の講義を期待している。
2011年度前期メンバーによるリポート

館林さんと
2010年度後期メンバーによるリポート(at random)

メンバー集合写真
- 森 岳大
【授業の感想】
この授業では、主に1950年代から1990年代までにおけるイギリス社会のソーシャル・キャピタルの変化について、Peter. A.Hall著“ The Role of Government and the Distribution of Social Capital”を中心に講義が展開された。
授業を通じて得たことは、第一に、学問的研究を行う上で「尺度化することの重要性」である。
ソーシャル・キャピタル概念の生みの親であるRobert D. Putnamは、ソーシャル・キャピタルを「お互いに定期的に交際する度合い、そうすることによってつくられる信頼、互恵関係、相互利益」であると定義し、友人を招待した回数などでソーシャル・キャピタルの増減を測ろうとした。そして、実際にアメリカにおけるソーシャル・キャピタルの減衰現象から一つの理論仮説を導き出し、それと政治との関連を探ろうとした。それを明らかにすることで、政府によってソーシャル・キャピタルを増加することが可能になると考えたのである。これを受け、Peter. A.Hallはアメリカのソーシャル・キャピタルの理論仮説がイギリスの社会にも適用されうるか否か、イギリス社会特有の因果関係があるのではないかといった問題意識を持ち研究を進めていった。いずれの場合も、@理論仮説を設定→A仮説の検証のための尺度を設定→B仮説の検証(因果関係の追求)といった順序に沿って研究が進められていた。こうすることで、自らの研究に普遍性を持たせ、より汎用性の高い理論を構築することが可能となる。とくに、ソーシャル・キャピタルといった適用範囲の広い研究用語の場合、まず、それをいかにして定義し、その上でいかにしてそれを測るのかといったことを明らかにしておくことが、研究を進めていく上で重要なことであると思った。
第二に理解したこととしては、「フィールドを限定することの重要性 」である。Peter. A.Hallの研究の結果、イギリスにおけるソーシャル・キャピタルはRobert D. Putnamがアメリカで見たほど減衰していないことが分かった。これは、イギリス社会特有の事象、具体的には@教育制度の根本的な転換、A英国社会の階級構造に起きた経済的政治的変化、B英国独特な政府の活動形態といったことが原因とされる。このように、経済的、社会的、政治的環境の違いによって、理論の適用範囲(適用可能性)や因果関係に変化が生じることがあるので、先行研究の理論を援用して現代の社会事象を研究する際、あるいはある地域の理論を他の異なる環境に適用させるといった際は、とくに注意が必要である。果たしてそれが自分の研究フィールドにも適用されうるかどうか、他の因果関係が考えられるのではないか、十分配慮して研究を進めていかなければならないと思った。
授業の中身自体とはやや外れるが、第二と関連して、第三に「量的調査と質的調査の関係」もこの授業を通じて考えさせられたことである。授業の中で、統計データの限界とライフサイクルの効果によって結果に違いが生じるといったことがあると紹介されていた。このことからも分かるように、量的調査は傾向は分かりやすいが、なぜその結果が生じるのかといった因果関係については、不十分なところがある。反対に、実際に参与観察やフィールドワークによって事象を研究していく質的調査では全体としての傾向はつかみにくいが、それが起こっているのはなぜかといった因果関係の追求には適している。したがって、これら両方を適宜使用して研究を進めていくことが、より実証性の高い研究へとつながっていくと思う。
以上、三つが、凡そこの授業を通じて得られたことである。
【自分の研究との関連】
今後の自分の方針としては、「持続可能なまちづくり」についての研究を進めていきたいと思っている。
近代化による画一的な大規模開発の結果、「地球規模での環境問題」「地域間格差」といったことが現在課題として挙げられている。したがって、今後は地域の固有の伝統や文化、社会的価値といった側面に重点を置いた、地域独自の持続可能なまちづくりの促進が求められるところである。このような問題意識から、実際に持続可能なまちづくりを進めているとされる地域を研究分析し、その促進要因を追求する中で、将来の社会構築に向けて一石を投じたいと思っている。
その際、今回の授業の中で学んだように、まずは「持続可能性」といった研究用語について定義しなければならないと思う。そして、その上で、何を持ってそれを測るかといった尺度を設定することが必要不可欠であろう。また、「まちづくり」といった用語も非常に適用範囲の広い用語であるので、定義が必要である。
また、事例研究として、外国の地域における持続可能なまちづくりについて研究したいと思っているが、今回授業で学んだように、フィールドを限定し、その地域の文化、歴史(背景にある条件)について十分に調査することが必要であろう。というのも、それによってはじめて理論としての汎用性が生じてくるからである。
さらに、今回みてきたように、因果関係は視る人の視方によって多様に想定されるので、より実証性を高めるためにも、質的調査と量的調査を適宜駆使していかなければならないと思う。
- 今井辰彦
【授業の感想】
政策科学Uでは、ソーシャルキャピタルをテーマに授業を行った。使用したテキストはROBERT D.PUTNAMのDemocracies in Flux The Evolution of Social Capital in Contemporary Societyである。テキストではイギリスにおけるソーシャルキャピタルの歴史と発展過程を学ぶことができた。ソーシャルキャピタルは日本語では「社会資本関係」と訳されることが多い。パットナムは「信頼・規範・ネットワーク」をソーシャルキャピタルの重要な要素と位置付けている。すなわち、人と人とがつながる水平的なネットワークが社会の効率を高めていくことができるということである。もちろん、「信頼・規範・ネットワーク」などは目に見えない、正確な数値で表すことのできないものである。では、どのようにしてソーシャルキャピタルを表しているのだろうか。
パットナムはソーシャルキャピタルの特徴を2つ提示していた。一つは対面で他社との交流を行う、2つ目は共通の活動への参加や関与である。ボランティア活動など、共通の活動への参加が人と人とのつながりを高めていくことができる。
さらに一緒に共通の活動を行うことで互恵関係が築かれるのである。特に、テキストでは教育水準の高まりや人口の増加がソーシャルキャピタルへの参加を高まらせると述べていた。また、ソーシャルキャピタルに関連する団体の種類にもニーズがあり、ある種類の団体は増加するが、他方減少していく団体もあるということである。授業を通して感じたことはつながりを形成していくことには時間がかかるということである。特に情報技術が発達した現代では、人と人が対面し、共通の活動を行う機会は減少している。ソーシャルメディアの発達が他者とコミュニケーションを取ることを活発にしている反面、他者と直接向き合い、話をすることを阻害しているのかもしれない。どのようにしてネットワークを築いていくべきか。既存の情報技術を上手に活用できる道はあるのか。そうした問題を考慮しながらソーシャルキャピタルを考えていくべきだと考える。
【自分の研究との関連】
災害時においてもソーシャルキャピタルのようなネットワークの働きが重要であると考える。特に市町村などのミクロレベルでの災害対応については行政だけの取り組みでは手が行き届かない。したがって、NPOや町内会などの地域が一体となって助け合いを行える社会を実現していくべきだと考える。特に、地域とのつながりの希薄化や高齢者の一人暮らしが社会問題として取り上げられる一方で具体的な解決策が提示されていないように感じる。災害時にも地域のつながりの希薄化は問題である。高齢者がどこに住んでいるかわからない、助けが必要な時に、誰を頼ればいいのかわからないなど、他者との交流が少なくなっただけで表面化してくる問題は多岐にわたる。
したがって、災害対策においてもソーシャルキャピタルのような目に見えない資本が大切であると考える。こうしたつながりをつくることは難しい面も多々あるが、地域をつなげるネットワークの存在が、例え目に見えない形であっても社会に寄与していくことができるのではないだろうか。
- 掲 蕾
【授業の感想】
今学期の授業ではロバート・パットナム(Robert Putnam)の編集した『Democracies in Flex?The Evolution of Social Capital in Contemporary Society』をを教材として、ソーシャル・キャピタルについて、勉強した。ちょっと恥ずかしいことで、上沼先生の授業を取る前に、ソーシャル・キャピタルその言葉しか聴いたことがない。そしていろいろな事例を読みながら、ソーシャル・キャピタルについては、より深く理解できるようになった。
ソーシャル・キャピタルは、人々の協調行動が活発化することにより社会の効率性を高めることができるという考え方のもとで、社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念である。基本的な定義としては、人々が持つ信頼関係や人間関係(社会的ネットワーク)のことと言って良い。上下関係の厳しい垂直的人間関係でなく、平等主義的な、水平的人間関係を意味することが多い(ウィキペディア)。それはウィキペディアから取った定義で、言い換えれば、ソーシャル・キャピタルは道路や空港のような見える資本ではない。むしろ市民一人一人の間で信頼関係などのコミュニティーのネットワークを形成し、人々の精神的な絆である。例えば、住民のNPOへの積極的な参加や活発な寄付・ボランティア活動は、ソーシャル・キャピタルを豊かにする重要な要素である。
著者のパットナムは、地域のボーリングクラブには加入せず、一人で黙々とボーリングをしている孤独なアメリカ人の姿を象徴として、アメリカにおける「ソーシャル・キャピタル」の衰退状況を、包括的な州ベースのマクロデータを基に実証分析した。その結果、アメリカにおいては、政治・市民団体・宗教団体・組合・専門組織・非公式な社交などに対する市民の参加が減少していることが幅広く検証されたことがわかった(東一洋、2003)。この事実を知っていた頃、同じ先進国である日本は、ソーシャル・キャピタルにはどうなるのか、と私は非常に興味を持っていた。2010年の日本のニュースを読み返すと、暗い報道が頭の中にたくさん入ってきた。日本の孤独死や不明高齢者問題や幼児の虐待死など、このコミュニティーを失う「無縁社会」と言える日本にとって、痛ましい悲劇だ。日本でも、米国と同じような現象に直面しているように見える。何故こうした望ましくないことが起きたのか、一つの見解は現代の市場社会がもたらした豊かさである。核家族化や若者の大都市志向は主要な原因と捉えられている。この解決策として、2011年1月来日、米ハーバード大教授であるマイケル・サンデル氏こう述べている。(前略)市民社会が手がけるのが理想だ。宗教的な共同体が担う場合もあれば、町内会が担うこともあろう。国家は支援できるが、国家に完全に頼ることは難しい。かつて大家族が担った役割を果たすには、市民社会から発生したものが望ましい。マイケル・サンデル氏はソーシャル・キャピタルの向上に対する活発的な活動を提唱したと言えるだろう。豊かなソーシャル・キャピタルは、犯罪や児童虐待を減らし、高齢者や障害者の生活の質を改善し、ひいては行政コストを減らし、地域経済の成長を促進することを考えられる。
2010年年末のある寄付行為に端を発する、全国的に広まるタイガーマスク運動は真冬な12月に人々の心には春風のように吹いてきた。菅直人首相は2011年1月12日に、「本当に心温まる活動だ。共助の精神を大切にしたいと改めて思った」と述べた。この新しい市民活動の発展と共に、これからソーシャル・キャピタルが豊かにする可能性も期待されている。今同じアジア国であり、高度経済発展期とも言える中国には、加速発展がもたらした社会問題が山ほど積んでいる。その中の一つとして、ソーシャル・キャピタルはまだ十分に注意されていない。現在日本社会にあった問題は、これから中国が遭う問題かもしれないので、参考として、学ぶべきと考えられるのではないだろうか。
【自分の研究との関連】
私は今、中国に進出した日本企業の人材管理について研究している。内容から見ると、ソーシャル・キャピタルとあまり直接なつながりがない。しかし、経済活動の主役は人間であり、その人間同士の関係が経済パフォーマンスに影響を与えるのは当たり前だろう。例えば、ソーシャル・キャピタルが提唱した人々の信頼関係からみると、信頼の水準の高さは競争力の高さと等しいと考えられる。なぜならば、契約を結ぶとき、互いの信頼が薄い社会だと、品質や納期に関する情報を集めるのにコストがかかるが、信頼の厚い社会では、そうした取引コストを抑えることができる。それは一つの例と挙げたが、実際にソーシャル・キャピタルが様々な経済効果をもたらしたことが検証されたのである。これからの研究には、もしソーシャル・キャピタルの概念を導入したら、もしかすると人材管理その古い問題には、新しい研究方法が見つかるかもしれない。
- 市川 慧
【消費社会化とソーシャルキャピタルの関係から考えた研究へのヒント】
自身は消費社会に関する事象を専門として研究しているが、近年世界中で観察される社会の消費社会化という現象とソーシャルキャピタルの可能性を考える上で、本講義は大変興味深かった。
あえて社会の消費社会化という視点から、ロバート・パットナムのアメリカにおける社会資本の衰退の研究を単純に理解するなら、消費社会化による個人の自由の深化により社会活動が個別化(個人主義化)し、社会成員による相互行為が消滅したものとして読み解くことができる。
社会が消費社会化されることによって集団的行為が断片化されるということは、我々の生活感覚のレベルでも容易に想像がつこう。パットナムの研究はいわばそのような常識知を、詳細に分析したものと言える。
ピーター・A.ホールによる本論文は、この常識知とは反対のベクトルを向いたものである。すなわち、イギリスのソーシャルキャピタルの活動レベルはここ数十年低下していない、ということを論じたものであったが、それは(1)小中学校教育をはじめとした教育システムの劇的な変更による、国民の高教育化(2)経済的、政治的発展、生活の状況の変化による、階級全体の曖昧化、中産階級の増加(3)政府によるボランタリーセクターの支援政策、によって達成されているというものであった。
経済が発展して社会がサービス産業化することにより、労働者階級と中産階級の中間であるサービスクラスが登場し、階級がクロスボーダー化した。中産階級が増大し、彼らが活動の中心を担うことでソーシャルキャピタルのレベルが維持されることになったわけであるが、そもそも消費行為とは「支払い」をすれば誰でも、同じようなサービスを受けられる行為形式なのであって、社会成員の行為態度や価値規範意識を平板化させるような要素が本来的に含まれている。半ば強引であるが、消費社会化による階級社会意識の平板化は、消費社会化の良い点であったと言えるのかもしれない。
もちろんアメリカの例にも顕著なように、消費社会化はソーシャルキャピタルにとっては解体圧力であり、人々の絆を消失させる側面を持つ。それを手当てするものとして、(1)や(3)のような、政府による働きかけが重要になってくる。
翻って世界有数の消費大国である日本にとっても、イギリス型のソーシャルキャピタル形成の政策を研究することは重要であろうと思われる。
しかし、イギリスのボランティア、ソーシャルキャピタルの歴史は、数世紀にわたって積み上げられてきたものであり、日本にその政策を拙速に適用することはあまり有効ではないかもしれない。そこで日本においては、消費社会であるという特徴を生かした、商業セクターを利用した新しい人々の結びつきの可能性も考えられるのではないか、といった研究の新しいヒントが生まれた。
- チョン・チヒョン
【授業の感想・修士論文との関連】
政策科学の後期授業では、Peter A Hallが研究した「GREAT BRITAIN− The Role of Government and the Distribution of Social Capital」を教材として、「social capital」 理論を勉強した。 後期の授業を通じて、「social capital」という用語を初めに聞き、その理論について分かるようになった。
「social capital」理論は、 Robert David Putnamによって定義され、その定義を説明すると次のようになる。「social capital」は社会資本であり、社会資本は、社会構成員の相互の利益のため、調整及び協同を促進する規範、信頼、ネットワークである。社会資本は、生産が可能である物理的資本とは違い、人間関係の中に存在するものである。しかし、社会資本は、物理的資本、人的資本のように生産を増加させる役割をしている。 すなわち、私たちがよく知っている「市民参加活動」と類似な意味で解析できることであろう。
Peter A Hall は、イギリスのソーシャルキャピタルの変化過程をアメリカのことと比較し、変化過程において表れていた両国の異なった部分について、特にイギリスの特徴をより詳しく説明した。
イギリスでソーシャルキャピタルが変化してきた様々な理由があるか、その中でも特に印象に残っていることは、女性の教育水準の向上によるソーシャルキャピタルの変化である。
私がなぜこの部分に対して深い関心を持つようになったか。それは、私の研究テーマである介護保険制度の創設背景にも、女性は非常に重要な意味を持っているからである。
Peter A Hallによると、 イギリスでは、教育制度の発展によって、男性中心の教育制度が女性にも拡大された。そのような変化によって、ソーシャルキャピタルも大きく変化した要因になったと説明している。
では、ソーシャルキャピタルが介護保険と何の関連性があるのか。現在の介護保険制度が単独の保険制度として扱われている代表的な国がドイツと日本、韓国である。 この三ヶ国が介護保険を導入することになった共通の要因の中の一つが女性就職の増加にともなう介護の必要性である。女性就職の増加が説明できる多くの要因があるが、その中の一つが女性教育の拡大ということを省けないと考えられる。女性教育の拡大は、ソーシャルキャピタルを変化させた重要な要因であり、これが発展して女性就職の増加とつながってきた。また、介護保険制度の形成つながる大きい枠組みで考えられるだろう。
では、今後の高齢社会において、ソーシャルキャピタルはどのような意味であり、どのような姿であろうか。 イギリスの事例を見れば、女性教育の拡大によってソーシャルキャピタル変化が進行されてきたが、今後は、高齢化進行によって、高齢者によるソーシャルキャピタルの変化があるのではないだろうかと考える。
社会的活動から引退した高齢者は、今まで過ごしてきた自分の規則的な生活パターンが崩れることになり、それによって社会的孤立感を感じている。 このような状況の中で高齢者自らが多様な市民参加活動を作り出すことによって、彼らの経験と知識などを教え、自らが社会に貢献しているという認識を作る必要があると考える。また、高齢者の市民参加のみではなく、高齢者のための市民参加活動を通じて、介護保険制度において保護受けることだけではなく、高齢者が過ごしている場所で保護受けて生きていくことが、より理想的社会の姿ではないか考える。
2010年度前期メンバーによるリポート(at random)

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- チョン
【授業の感想】
キューバミサイルの危機を一例とするごみ箱理論についての前期の講義は非常に興味深かった。
学期の初めにはゴミ箱理論に関する基礎知識の不足とキューバミサイルの危機についての事前の知識が全くなかった状態であり、私にとっては standard decision makingが当然な政策過程であった。
もちろん前期が終わった今の時点で、このような標準モデルが全部間違っていると思っているわけではないが、政策過程に対する新しい観点を持つようになる契機となった。 特にキューバミサイルの危機に対する理解力を高めるために上沼先生が準備した映画はキューバミサイルの危機に関する知識のみでなくごみ箱理論を理解するのに十分なものであった。 無論この映画により講義に対する興味を感じさせて下さった先生に感謝致す。
decision making by objectionの内容の中で興味深かったことの一つは、議論の中で取り上げられた選択肢が競争関係でない順次的な過程だということである。選択肢決定過程で様々な選択肢の中で最善のことを選択することが当然だと思ったが、実際の政策過程では様々な選択肢らの順次的過程を通じて競争でなく、相互的関係を持っているということが分かった。また、このような過程の中で目標が発見され、確立されて行くということは今までの standard モデルとは違っていた。
もう一つは政策過程でGood or Badの評価方式に対する批判と、そのような政策過程の中で最高の答案を得ることは難しいということである。単純に考えてみれば、すべての政策過程は最高の結果を引き出すための活動だと思われがちだが、私たちが生きていく日常の生活で皆が満足できる結果を得ることは思ったように簡単なものではないということである。 従って、皆が満足できる結果が得られないということであれば、危険の負担が少ない皆が望まない結果が出ないように政策過程が進行されるということだ。 常に正解でなければ、誤答だと考えてきた私に、これからの研究を含んだすべての過程の中でGood or Badのみを考える思考がどのくらい危険なことかを考える契機になった。
【自分の研究との関連】
現在の予想研究テーマは、介護保険で等級規定による介護予防サービスという主題を通し日韓比較研究をすることである。
介護保険は様々な機能を遂行するために作られた。その中で代表的な役割は介護保険を通じ介護が必要な状況を事前に予防することと、その進行の速度を緩和させることを通し、高齢化社会での介護による経済的負担の節減および社会統合をなすことである。
特に、現在日本と韓国の介護保険の等級規定は多くの差があり、そのような差が介護予防といかなるつながりを持つのかに対し考察してみようと思う。
このような予想研究テーマとdecision making by objection、ごみ箱理論との直接的な関連性を見つけるのは簡単ではなかった。だが、日本と韓国の介護保険の中で等級規定に対するものがどのような方法で議論されてきたのか、また、このような議論を通じ意志決定の要素をごみ箱理論と関連付けて考えてみると日本と韓国がなぜ今のような等級規定を持つようになったのか理解できると思う。 また、これを通じてこのような意思決定の要素の差が結局、現在の介護予防の結果にどういう風に関連してきたのかについて比較研究が可能ではないかと思わせた。
今の段階での等級規定に関する意思決定の要素の差が介護予防サービスにどのような影響を与えたのかを確かめてみるということは非常に興味深いことであると思う。
- 今井辰彦
【授業の感想】
政策科学1ではPaul A. AndersonのDecision Making by Objection and the Cuban Missile Crisisをテキストに「キューバ・ミサイル危機」におけるアメリカ合衆国の意思決定の過程を従来の意思決定モデルとAndersonの考える新しい意思決定のモデルとを比較した。授業ではキューバ危機を題材にした映画や資料を参考にしながらキューバ危機の全貌を踏まえた上で意思決定モデルを考察した。
キューバ危機は、1962年、当時のKennedy大統領の政権時代に起きた。当時アメリカと対立していたソ連がカストロ政権下のキューバにミサイルを設置した。
キューバにミサイルを設置することは、ソ連にとってアメリカを威嚇する機会になる。政策科学1ではソ連の行動に対するアメリカの対応、特にExComにおける意思決定について考察した。
従来の意思決定モデルとは、テキストでは以下のように定義されている。
@意思決定に関する目標が予め決定されている。
Aその目標に従って、競合する複数の選択肢の中から1つだけを選び実行する。
B選択肢は択一的であり、排他的でもある。
キューバ危機の場合は、海上封鎖やミサイル基地を破壊するなど複数の選択肢が挙げられる。そして、この中から確率的に一番成功する可能性が高い案を選択して、その他の選択肢は採用されることはない。しかし、従来の意思決定モデルはあまりにも理論的であり、現実的ではない。
Andersonの提案する意思決定モデルは、従来の考えを転換するものであった。それは以下のような手順で行われる。
@最終的な目標は意思決定過程の中で決められていく。
A複数の選択肢は競合せず、時間の経過と共に順次的に変化していく。
B議論や論証、様々な意見に基づいて最終的な目標が決まる。
このAndersonの指摘は、実際のExComの会議に当てはまっていた。
ExComでは当初、キューバから危機の原因であるミサイルを取り除くという目標のために、様々なアイディアが話し合われた。ミサイル基地を攻撃するべきだとするairstrike派が優勢であったが、マクナマラ国務長官のmissole-is-a-missileという言葉にも表されるようにairstrikeはキューバのミサイル基地だけを取り除くことはできない。そして、ロバート・ケネディのパールハーバーを連想させるような奇襲はアメリカの道徳的伝統に反するという反対意見の流れの中で、最終的に海上封鎖を行うという結論になった。海上封鎖を行いながら禁輸措置や外交交渉などその他の選択肢を取ることができるからである。さらに当初の目標が変化し、最終的にアメリカの伝統を守りながらキューバからミサイルを取り除くという目標になった。
この意思決定モデルを勉強してから、実際の社会の出来事に目を向けると、このモデルのように意思決定が行われているよう感じる。
日本では普天間基地問題、世界では北朝鮮に対する対応など、最終的な目標を明確に定めているのではく、様々な対応策を検討しながら最終的な政策や目標を定めているのではないだろうか。
【自分の研究との関連】
私の修士論文のテーマでも政策科学1で学んだことが当てはまる。
修士論文では、「災害時における行政の情報政策」に関して執筆していく予定である。
災害時に行政がどのように被災者等に情報を提供していくのかを考察していく。この時に行政はどのような情報を提供していくかを迅速に判断しなければならない。情報を提供するにあたっても被災地の状況を把握し、行政の対応策を決定しなければならない。
その時にも行政は最初から明確な目標が定まっている可能性は低い。専門家や現地のスタッフなど様々な立場の意見を集約して、多様な選択肢を検討する。その選択肢を順次的に行っていく中で最終的な目標が定まる。目標に従い被災者にどのような情報を提供していくかが決まる。また、被災地の現状は時間と共に変化していく。
したがって、被災者が必要とする情報も自ずと変化していく。その時にも行政は多様な選択肢の中から目標に合った政策を実行していかなくてはならない。
災害時において、行政はどのように意思決定していくべきなのか。
行政担当者だけでも国ー都道府県ー市町村など様々なアクターが存在する。それぞれの立場からの考えをどのように考え、まとめていくのか。また、都市部ー地方部での対応の違いなど検討しなければならないことは多岐にわたる。そして、行政の意思決定の過程にはどのようなプロセスが起こりえるのか。私自身にまだ明確な答えは定まっていないが、今回の授業を通して深く勉強していきたいと感じた。
2009年度後期メンバーによるリポート(at random)
 
メンバー集合写真
- A
【授業の感想】
【自分の研究との関連】
【修士論文のテーマ】
- B
【授業の感想】
【自分の研究との関連】
【修士論文のテーマ】
2009年度前期メンバーによるリポート(at random)

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- 方 明(ホウ メイ)
【授業の感想・修士論文との関連】
前期の政策科学の授業では、Robert D.Putnam編『Democracies in Flux』を教材に、social capitalを中心に勉強した。social capitalとは、人々の協調行動が活発化することにより社会の効率性を高めることができるという考え方のもとで、社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念である。基本的な定義としては、人々が持つ信頼関係や人間関係(社会的ネットワーク)と言って良い。上下関係の厳しい垂直的人間関係でなく、平等主義的な、水平的人間関係を意味することが多い。
このsocial capitalという概念は、私が研究している社会福祉にとっても大きな意味を持っている。社会福祉において、19世紀末から20世紀にかけて、政府が国民の最低限の生活を保障するために一定の役割を果たし始めるようになった。
例えば、19世紀半ばまでのイギリスでは、民間セクターが主要な役割を果たし、公的セクターは最小限の社会防衛的な役割を果たすのみであった。しかし、19世紀末以降、政府が最低限の生活を保障し、政府の役割が強まっていくなかで、公私の関係は徐々に逆転していくようになった。20世紀に入ると、市民生活の維持・向上のために政府が積極的な役割を果たすべきであるという社会権的な考え方が強まっていった。さらに、第二次世界大戦を経て社会福祉国家体制が成立したことで、公的セクター中心の体制が決定的となり、民間セクターの役割は退くことになった。日本においても、第二次世界大戦後の社会福祉は、福祉国家体制のもとで公的責任を中心にして形作られた。
しかし、福祉国家システムを整備した先進資本主義国の経済成長が鈍化・停滞したことによって財政をめぐる危機が訪れた。また、女性の労働市場参加が高まり、家族やライフスタイルの変化といった社会の変化が、福祉国家のあり方に大きく影響を与えた。
さらに、福祉国家の政府組織の運営面では、官僚組織の硬直化・非効率という問題点も出されるようになった。
そのため、多元なニ−ズに対応できるように、福祉多元主義が登場した。特に、ボランティアやNPOなどの私的なセクターが重要なものとして位置付けられた。日本の社会福祉基礎構造改革においても、利用者の主体性や市民参加を重視する立場や、私的セクターの独自性・長所を生かそうとする観点が重視されている。住民参加による地域福祉計画の策定も行われている。介護保険制度も導入され、政府のみならず、NPOやコミュニティーケアのような民間セクターの役割も強まっている。
今後、社会的介護のような社会的ネットワークづくりや、信頼関係の構築、福祉分野の市民参加を活発化すべきである。つまり、social capitalの果たすべき役割はより大きなものとなっていくであろう。私の研究は、公私の連携に着目するものであり,social capitalの視点からヒントを得ることができた。
また、この授業で取り上げたRobert Wuthnowは、social capitalについて様々な調査を用いて分析していた。この分析は、これから修士論文を仕上げるにあたって、どのように調査をするか、どのような方法論で研究するかなどの参考になり、非常に示唆に富むものであった。
- 山田 徹
【授業の感想・修士論文との関連】
授業では、ソーシャル・キャピタルを題材として、町田市のソーシャルキャピタルの事例や渡辺靖氏のアメリカのコミュニティの事例、ジェイコブズ、スコッチポルの文献等を講読した。その後、政府の調査資料等を交えながら、ロバート・パットナムのソーシャルキャピタルについての見解を更に展開したロバート・ウスノーの文献を主に講読し学んだ。
定義が曖昧で、計測困難なソーシャルキャピタルを、アメリカにおいて長期に及ぶ定期的な全国調査データから、ウスノーは四つ(Associations, Trust, Civic Participation, Volunteering)のカテゴリーに分けて考察している。もちろん、調査方法や調査自体が比較できないという曖昧さがあることを念頭に置きながらも、これらの4つのカテゴリー(それぞれ4つをさらに細分化して)をソーシャル・キャピタルの指数として、主に1970年初頭と1990初頭の変容した数値データを比較しながら、ソーシャル・キャピタルについて考察している。
アメリカ社会は1980年代、レーガン元大統領の新自由主義経済政策を皮きりに、その後所得格差が拡大した。その所得格差が広がったように反比例して、パットナムによれば、1970年代初頭に比べて、1990初頭はアメリカ社会全体のソーシャル・キャピタル(上記の4つに分けた)の指数が下がっているという。
しかし、ウスノーはさらに、パットナムの見解に対してひとつの疑問を投げかける。ウスノーによれば、ソーシャル・キャピタルの指数が下がったのはアメリカ社会全体ではなく、社会の周縁部分に属している人たち(ここでは低所得者層の人たちのことをいう)が下がったのであって、高所得者層のソーシャル・キャピタルの指数は下がっていないという見解を述べ、この違いに着目している。
全講義を通して率直な感想は、「ソーシャル・キャピタルは結果論のような部分が大きく、分析的なものとして用いるための要素が多いのではないか」というものだった。 修士論文のテーマは、「途上国における現地民のソーシャルキャピタルを活かしたコミュニティ開発」であり、行政、NGO・NPO、現地民の連携強化によってソーシャル・キャピタルを醸成させ主体的なコミュニティ開発がいかに可能かというものであり、今期をかけて、そのソーシャル・キャピタルを醸成させる方法や政策のヒントだけでも得られればと思っていた。もちろん講義では、ソーシャル・キャピタルの研究者達の研究体系を理解するということを主眼におき、ソーシャル・キャピタルを醸成する方法・政策論までは踏み込まなかったため一概には言えないが、ソーシャル・キャピタルを醸成させるにしても長期的な政策が必要であり、その一案を提示するには難しいことが分かった。
しかし、かく言う私自身もソーシャル・キャピタルをテーマに取り上げながら、「あなたの言う具体的なソーシャル・キャピタルとは?」という問いには答えられない。そういった意味で、今期にウスノーの文献でソーシャル・キャピタルの指数の基軸を理解できたことは、今後のソーシャル・キャピタルを私なりに用いるとしても、大きな収穫であった。
また、閉じたネットワークのみでのソーシャル・キャピタルが成熟されると、そのコミュニティ内で排他的になってしまう可能性が高くなるため、その限界を知ることができたとともに、開かれたネットワークの上でのソーシャル・キャピタルの醸成が必要であると分かった。講義の最終回で、上沼先生が紹介していただいたマイクロ・クレジットについても個人的には大きな視座の発見であったため、これらのことを踏まえながら、研究を進めていきたいと思う。
- 澤野理絵
【授業の感想・修士論文との関連】
授業ではロバート・パットナム(Robert Putnam)の編集したDemocracies in Flexを読み進め、パットナムの理論に切り込んでいく形で「周縁(Marginalized)」について注目したロバート・ウスノー(Robert Wuthnow)の「ソーシャル・キャピタル」論を学びながら、ウスノー、およびパットナムの研究の姿勢を確認していった。授業で扱った他の資料や、個人的に読み進めていたパットナムの他の著書からも参考にしながら「ソーシャル・キャピタル」について、自分の研究にどのように生かせるか、新しい提案の形でまとめることとする。
パットナムは『哲学する民主主義』において、「社会資本の構築は容易ではないが、社会資本は、”民主主義がうまくいく”ための鍵となる重要な要素である。」と締めくくっているが、その前に「制度改革が政治行動に及ぼした影響を導き出すには20年で十分だろうが、文化や社会構造のより深いパターンへの影響を突きつめるのにはそれでは足りない」と言及している。同書の中で、イタリアにおける州の制度パフォーマンスの研究を通して、実効的な政府とは何か、市民共同体の起源は何であるかを検証し、そしてそれを支える「社会資本(ソーシャル・キャピタル)」という(当時)新しい概念を打ち出したパットナムでも、地域の文化的差異については前提として述べるに留め、あえて検証はしていない。むしろ、「文化 対 構造」の論争は自分たちの議論の文脈では的外れとしている。
グローバル化する現代において、日本においても、多様なコミュニティと多様な価値観が混在し、地域の世代間の交流や共同体としての自覚を失ってきたが、その価値を再確認し高めていこうとする取り組みが盛んに謳われるようになってきている。
また、そのミッションを行政だけが担うのではなく、民間や、NPO、特に市民と共有し、積極的な「市民参画」と「公共的ガバナンス」が進められようとしている。
ただ、小さな島国である日本でさえも、地域の格差は避けて通ることができず、またその差は、経済的な差や、自治体のパフォーマンスの差であることも否めないが、もっとも大きな差は「文化資源」の差ではないかと考える。(ここでは配布資料にもあったフランス社会学者ピエール・ブルデューのいう「文化資本」とは異なる概念として、純粋に文化的な特性のある地域の資源を指して「文化資源」とする。)
パットナムが、「制度パフォーマンス」を測定したことで証明した「社会資本(ソーシャル・キャピタル)」の重要性と「社会的信頼、互酬性の規範、ネットワーク」の要素は、この「文化資源」の考えと相反するものではなく、むしろそれを起点に応用している考えではあるが、「集合行為のジレンマ」とパットナム自身が指摘するように、より良い「社会資本(ソーシャル・キャピタル)」を実現するためには、常に創造の「好循環」を生み出さねばならず、破壊の「悪循環」への危険性を孕んでいるという点で、優れている「社会資本(ソーシャル・キャピタル)」を持つ共同体と、それを持っていない共同体の格差を広げてしまう可能性がある。
「好循環」にしても「悪循環」にしても、それらが「自己強化的self-reinforcing」であることを指摘しているが、本来、社会資本(ソーシャルキャピタル)は理想的な手段と状態を指す概念であって、持つ、持たないに依存する単純なものではないはずである。その点でいうと、ウスノーが言うように社会資本(ソーシャル・キャピタル)が減少していると一概に言えない、現代的なネットワークの構築に注目する必要があり、また、それぞれの地域の特徴に留意した政策が必要であると考える。
つまり、ここで提案したいのは、パットナムが唱えた「水平的ネットワーク」やそれを支える「社会資本(ソーシャル・キャピタル)」を前提としながらも、地域によって異なる「文化資源」を元に、その地域特有のネットワークや政策が生まれる必要性と、その「文化資源」が互いに疎ではなく、多様な文化が互いに関与しあい、交流し、‘共生’に留まらず‘共創’していく「多文化共創」社会の必要性である。
「文化資源」が指す‘文化’とは、いわゆる文化施設(劇場、美術館、映画館)だけを指すのではなく、公園、神社、教会などの公共施設、大学や語学学校などの教育機関、商店街や地元企業の商業機関、観光場所、またそれらの持つ「人的資源」を含む概念である。
文化資源について、ロバート・パットナムは「哲学する民主主義」では触れていなかったものの、「孤独なボウリングBowling Alone」にて、「文化や芸術はイデオロギーや社会的、民族的起源を共有することが必要ない」という点を強く評価している。また、
Arts manifestly matters for its own sake, far beyond the favorable effect it can have on rebuilding American communities. Aesthetic objectives, not merely social ones, are obviously important. That said, art is especially useful in transcending conventional social barriers. Moreover, social capital is often a valuable by-product of cultural activities(p411)
と指摘するように、芸術はそれ自体に理由があって、アメリカのコミュニティ再生のためにあるものではなく、社会的な目的よりも、美学的な目的が重要であるが、それゆえに、社会的なバリアを越えるのに有効な手段であり、文化活動を行なうことで、社会資本(ソーシャルキャピタル)は価値あるものとなるとしている。
『哲学する民主主義』でも、「レクリエーション団体」「文化団体」や「スポーツクラブ」の加盟について、その数を整理しているが、「文化資源」は、単体でその数を整理することに意味はなく、むしろ、運営側に市民がどれだけ携わっているのか、行政、民間その協動がどれだけ進んでいるのか、その政策過程に注目し、分析していく「政策科学」型であることがキーワードとなる。
ウスノーが最後に
With association levels and volunteering at comparatively high levels by cross-cultural standards, the United States may have enough social capital left to function as democracy with little loss of effectiveness
と述べたように、アメリカでは結社やボランティアが異文化間を越えていくことでソーシャルキャピタルが創造される。その結果、ウスノーが指摘した社会的な「中心 priviledge」と「周縁 marginalized」の境界も超えることができる。
こうして、行政も一アクターとして捉え、市民参加型行政から、「行政参加型市民社会」へと変革していくこと、そしてそれぞれの地域が持つ「文化資源」の交流と共創によって新たなソーシャルキャピタルの価値を創造する「政策科学」型「多文化共創」社会を提案として、今回のまとめとする。
- 袁 静美
【授業内容と授業への感想】
前期の授業では、ソーシャル・キャピタルの概念の提唱者であるロバート・パットナムが編集した『Democracies in Flex』の第二章(United States:Bridging the Privileged and the Marginalized?―Robert Wuthnow)を主な文献として、アメリカのソーシャルキャピタルは、果たして一般的に論じされたように1950年代以来段々減少してきたのかという問題を巡って行われていた様ざまな調査と分析を読みながら、その方法を学んだ。
ソーシャル・キャピタルの概念は、「社会問題に関わっていく自発的団体の多様さ」「社会全体の人間関係の豊かさ」あるいは地域力、社会の結束力と言われている。概念が抽象的であり、ソーシャル・キャピタルの数量化は非常に難しい。ウスノーはDemocracies in Flexの中で、社会資本を測る指標として、Association(組織)、Trust(信頼)、Civic Participation(政治活動への参加を指している市民参加)、Volunteering(ボランティア活動)を挙げている。そのうえで、4つの指標の具体的な状況を明らかにするために、アンケート調査を行い、得たデータを受けた教育程度、人種、収入、居住地域等の角度からの分析に基づき、アメリカ社会でのソーシャル・キャピタルが減少しているのは社会の周縁の部分(Marginalized)であり、特権のある人達(Privilege)のソーシャル・キャピタルは減少していない、と結論を下した。
ソーシャル・キャピタルという概念はアメリカで発祥されたが、近年日本においても、市民の自発的行政参加や市民団体と行政による協働の町づくりを推進するための原動力となる地域力の基礎をなす概念として注目されている。授業での資料としていただいた金子郁容氏の『関係のメモリー』では、1970年代後半以来町田市成瀬台地区のソーシャル・キャピタルの形成事例があげられている。成瀬台地区では、住民一人ひとりが関わる活動の中で培われた連携が、連鎖し、大きなネットワークが構築されてきている。自治会、自治会連合、PTAの結成、青少年対策委員会の設立、ラブホテル建設規制条例制定運動、住民が運営を担う社会福祉法人創和会の設立等を通し、教育、高齢者介護、施設整備費などの問題が効果的に解決された。
成瀬台地域の事例から見ると、ソーシャル・キャピタルが豊かな地域は、政治的コミットメントの拡大、子供の教育成果の向上や、近隣の治安の向上、地域経済の発展、地域住民の健康状態の向上など、経済面社会面において好ましい効果をもたらしていると言えよう。
上海に生まれ、育った私は、上海さらに中国のソーシャル・キャピタルはどうでしょうか、と考えずにいられない。近年NPOや市民福祉企業、ボランティア活動等は徐々に台頭しているが、経済が急速に発展しつつける一方、格差がもたらした問題も深刻である。だんだん疎遠になる人間関係、公共問題に対する薄い関心、たまに耳にした格差への不満による社会への報復行為、ボランティア活動に冷淡な興味…それに対して、社会への信頼を育てること、地域の住民たち自発的な協力、親密な社会的ネットワーク(共産党が提唱している「和谐社会」ではないだろうか)の構造は切実で長期の問題である。「成瀬は一日にしてならず、である。」と金子郁容氏が『関係のメモリー』で指摘している。
【自らの研究との関連】
私は、いま、日中戦争の間に日本が中国の東北地区(いわゆる満州)において実施していたメディア政策が当地ないしは中国の人々の生活にどんな影響を与えたかを巡って研究している。内容的に言えば、前期の政策科学の授業との関係はあまりない。が、メディア政策が生活に与える影響はソーシャル・キャピタルのように抽象的である。どんな具体的に測量できるカテゴリーに分けて研究するか、そして従来の政府の立場からの結論から脱却するために、どのように普通の民衆を対象としてアンケート調査を行うかといえば、方法的には、大変参考になると思う。
2008年度後期メンバーによるリポート(at random)

スコッチポル『失われた民主主義』
- 中野えり子
【政策科学Uの受講を終えて】
政策科学Uの講義では、R.パットナム"Democracies in Flex"の序章と、第3章のT.スコッチポルによる"From Membership to Advocacy"を原文で読み進めた。
先日(2009.1.21)アメリカ史上初のアフリカ系大統領オバマ氏が就任したが、この歴史的な出来事をリアルタイムで眺めながら、講義ではスコッチポル女史の論文に触れ、米国草創期からのコミュニティの歴史的変遷−米国民主主義の起源・経緯・変容−について考える機会を得たのは有意義だった。
パットナムは、強固な地元コミュニティが市民の参加性を高めてきたとして、地域的交流の重視を強調した。これに対しスコッチポルは、確かにコミュニティ活動などの市民参加が民主主義を形成してきたが、それは決して地元コミュニティの密度の濃さ−絆の強さ−に依ってではなく、全国ネットワークを持つ複数のコミュニティに参加することで、市民活動はなされてきたという。それぞれの地域に組織があり、そこから代表が選出され、その代表が集まって支部を作り、さらにそれが全国組織につながる、そうした全国ネットワークを持つ団体が、会員を募り活動することでアメリカの民主主義は築かれたということだ。 そしてスコッチポルは失われたのは地元コミュニティではなく、この全国ネットワークのコミュニティだとして、その理由に、1950年代後半以降、市民権運動や公共利益を求める市民運動の組織が、一部の専門的な政策唱導(Advocacy)グループによって運営される形に変化したことを挙げる。
これは「市民によるメンバーシップ組織」から「専門家によるマネージメント組織」への変容、とも言い換えられるが、その背景にあるものとして、"コミュニケーションメディアの変化(テレビ・IT利用)"、"財源の変化(多数の会費から一部の高額な寄付)"のほか、"高学歴女性の役割の変化(地方における地域コミュニティの大黒柱的役割から都市中央部でのキャリア志向)"なども挙げられていて興味深い。
今回の米国大統領選挙では、候補者のテレビCMはもとより、若者が興じるゲームソフトに候補者のCMが組み込まれるなど、メディアを駆使した選挙戦が繰り広げられたが、ここには政治活動委員会(PAC)の存在がある。PACとは、候補者個人や政治的な目標の実現のために巨額な資金を集めて提供する組織だが、これはまさに、スコッチポルの言う「専門家によるマネージメント組織」と言える。
スコッチポルは、「市民によるメンバーシップ組織」から「政策唱導−個別専門的に問題解決−する専門家によるマネージメント組織」への変容は、"専門家"が、市民を大量動員する必要性より、メディアを駆使して支持者や裕福な寄付者を募る合理的・機能的手法を優先するため、90年代以降民主主義が「失われた」状態に入る、と主張した。
しかし今回の大統領選挙では、スコッチポルが憂慮した、まさにその手法により、これまで「沈黙」と「不参加」を余儀なくさせられていた「市民の意思」が、結果に反映されたとはいえないだろうか。スコッチポルは論文の最後で、市民は現代社会適した形で自発的に結合し、エリートはより一般市民の利益について配慮するよう提言している。それが今回の選挙に限って言えば、ある程度実現されたように思われ印象に残った。不断の時間の流れの中で、より効果的な「政策」を生み出すには、ソーシャルキャピタルを形作る「市民意識」の分析と考察に加え、その発動を促す「仕掛け」の重要性を痛感した。
修論テーマが「民主主義の発展と市民意識」なので、今回の講義は、米国民主主義を考える上で大変参考になり、アメリカ、EU、日本など民主主義社会の背景にある「市民意識」と政治的リーダーが抱く民主主義への「理念」、そしてそれがいかに機能しているかを考察する手掛かりを得ることもできた。
最後に、細かい質問や要望に応えて下さった上沼先生に心から感謝致します。
(社会科学研究科1年)
- 橘 麻由
【授業の感想】
今や地域政策、まちづくりの現場でもソーシャルキャピタルという言葉は、期待を持って扱われ、それは人と人の関係性、ネットワークという見えない資源の重要性にようやく焦点が当てられるようになってきた状況が反映されている。
講義では、パットナムが言ったソーシャルキャピタルに対してのスコチポルの論を追ってくことがメインであったが、そこで興味深かったことは、初期の自発的結社のあり方が、アメリカの政治制度である連邦制の3層構造を模したような形態をしていたと指摘されていることである。もちろんソーシャルキャピタルということでは、そこで生まれるネットワークこそ実際に効力を発揮する資源であるだろうが、それはアメリカの制度的な特色により可能になったと考えられる。スコチポルの論ではアメリカの建国から独立戦争、南北戦争、そして第二次大戦と、結社のあり様が歴史的な文脈で分析がなされていたが、それはアメリカという地域と、その固有の歴史的文脈が作ってきた制度様式であり、政治的な領域も、自発的市民運動の領域も、その様式の上に行われているという見方もできる。つまり、ソーシャルキャピタルを築くような制度のあり方を考えることが、これからのソーシャルキャピタルにとってのキーなのだろうということを感じた。ここでの制度はもちろん、法制度ばかりではなく、歴史的な慣習も含めた文化の様式である。
では、これらの文化の様式はどうやって作られるのであろうか、それこそ、スコチポルの言うように、ひとつの理論がそれらを運命づけるのではなく、産業の変化、それによる都市化、その前提となる技術革新、さらなる技術革新など、様々な要因が重なり合っていくものであり、それらの要因により生まれた制度の相互作用によって歴史的文脈が編まれていくという観点は、自分が日々地域というフィールドで感じている視点にかなり近いものである。
現代では、アメリカでもこのような初期の市民運動中心の自発的結社から、一部の専門家主導の市民運動に変質してしまった上に、さらにグローバリゼーションという、国家の制度を内蔵した世界規模の構造が出来上がってしまった。思うに、それが構造といえるほどきちんとした枠組みを為しているかは別としても、価値観が多様化し、多様な次元の層で異なる様式の制度が存在し、それぞれの律で好き勝手に動いている一方で、グローバリゼーション特有の文化様式も持ち合わせている、複雑な様相を呈しているのが現状ではないかと感じる。それらはどちらも並存していると考えている。
ソーシャルキャピタルに関して、修士論文に生かせると感じたのは以上のような切り口である。ソーシャルキャピタル、すなわち都市地域をフィールドとする自分には、地域や人のネットワーク、関係性であり、まさにそれらが持続的、自立的な地域マネジメントのために重要であるのだが、それらのネットワークが生きるようなしくみがないと、現在の主体が多様化している地域でのまちづくりは難しい。だが、うまく相互作用するような制度と、その先のソーシャルキャピタルの理想的なあり方の共有が、ソーシャルキャピタルそのものを作ることはできないとしても、自律的な制度的方向性を導くために重要となり、ソーシャルキャピタルが、地域づくりの実践においてどのような位置で捉えられるか、そのあり方について、従来のコミュニティという観点より広い枠組みからから探っていきたいと思う。それは、多元的社会であるアメリカを事例にした論と、さらに多様化した世界との比較からも感じた点である。
(早田ゼミM1)
- 渡部奈々
ソーシャル・キャピタルというと、社会的なネットワークとそこから生まれる規範、価値、信頼といったソフトな関係を意味することが多く、ゆえに社会関係資本と呼ばれている。授業で扱ったDemocracies in Fluxの編者であるパットナムもソーシャル・キャピタルを「協調的行動を容易にすることにより社会の効率を改善しうる信頼、規範、ネットワークのような社会的組織の特徴」と定義している。
しかし規範、価値、信頼などは集合財であり、社会関係資本と区別するべきだと主張する研究者もいる。社会関係資本とは社会的ネットワークを通じて得られる資源であり、ネットワークそれ自体は社会関係資本ではない。このことは私にとって目からうろこであった。それまで定義があいまいで計測不可能なソーシャル・キャピタルは漠然としたものでありながら、長寿、低犯罪、市民社会、共生といったポジティブな事象についてくるキーワードであった。
なぜパットナムをはじめとする多くのの社会学者たちがソーシャル・キャピタルと集合財を混同するにいたったのだろうか。それは、1830年代にアメリカを旅したフランス人トクヴィルによるアメリカ民主主義の観察にまでさかのぼることができる。トクヴィルはアメリカの民主主義と市民社会の健全さを高く評価し、アメリカ人は民主主義が根付き栄えるために必要な公共心に富む「心の習慣」を持ち合わせていると結論づけた。しかし1980年代以降、アメリカにおいて社会的つながりと市民的積極参加の減少が観察され、ソーシャル・キャピタル減退論へと発展したのである。つまり、パットナムは古きよきアメリカに存在した町の暮らしと、各町に多く存在した団体組織(教会、クラブ、友愛組織、組合等)への積極的参加を「ソーシャル・キャピタルが豊富にある状態」とみなしたのである。
この理解は、集団や社会ネットワークの閉鎖性・緊密性を強調するものであり、社会関係資本の一面しか語ることができない。コールマンも同様に、閉鎖的なネットワークが社会関係資本に固有の利点を生み出すと考えている。それは、閉鎖的なネットワークが信頼、規範、権威、制裁などを維持、増幅するからである。このようなネットワークはメンバーが同質的になる傾向が高く、メンバー間での表出的行為(共感等)が多く見られる。しかし社会関係資本の活用に際して、情報や影響力の伝達という点から、ネットワーク内のブリッジや構造的隙間、弱い紐帯を重要視する研究も増えてきている。
私自身の関心である貧困コミュニティを考えると、そのコミュニティ内で閉鎖的ネットワークが構築されるのは悪いことではないが、貧困者間における相互扶助だけでは生活向上が見込めないという事実を理解する必要がある。貧困コミュニティと異質のコミュニティや組織、人間を結ぶ紐帯(またはシナジー)なしに地域改善や開発はありえない。そのコミュニティに存在する教会は多くの場合、異質な団体としてコミュニティやメンバーに働きかけをし、次第にコミュニティのメンバーが教会というもう一つのコミュニティに属し、資源へのアクセスを持つようになるのである。
スコッチポルの研究は、全国的ネットワークを持った団体組織におけるメンバーシップから専門家によって運営されるアドボカシーへの変遷を明らかにしている。しかし、この変遷は同じ線上に位置するものなのだろうか。全国的組織の衰退とは別の次元でNGO等の専門家組織の興隆が起こったとは考えられないだろうか。1970年代以降のアメリカにおける権利運動や公共善を求める運動は新しい社会運動として広く理解されている。スコッチポルは20世紀半ばまでのアメリカでは全国的ネットワークを持つ組織に参加することで市民参加がなされていたと述べているが、その市民参加の形態も変化しているのではないだろうか。つまり、人々の実感する市民の概念というものが町や州規模から国家ひいては地球規模に拡大しており、その中での参加はPTAや友愛団体への参加と異なるはずである。グローバル市民とはそれを端的に表す言葉といえよう。しかしだからといって、個人の生活から親戚・友人つきあいや助け合いが消滅したわけではなく、コミュニティという物理的な枠を超えた親密な閉鎖的ネットワークが伸びているのである(バートのコミュニティ解放論)。
フリードマンは、自然発生的な地域活動の限界から外界との仲介者となる外部エージェントの必要性を示した。NGOが国家と市民社会の間の仲介者としての役割を担うことにより、NGOは制度化(フォーマル化)され、国家から補助金を得てプロジェクトに参入する。このような過程において、物質的、政治的な力と引き替えに、NGOの独立性は失われ、大衆組織との直接的、継続的接触が犠牲となる。つまり、NGOが外部エージェントとして力を剥奪された人々の側に立っていたのが、外界との仲介者としての役割を果たす上で、次第に国家の側へ立場を移行する現象が生じた。したがって、NGOが貧しい人々のエンパワーメントの立役者としての能力を失うことにより、人々は自分たちの政治的な代弁者を他に持つ必要が出てくる。外部エージェントが国家との仲介的役割を果たす一方で、コミュニティを代表する内部エージェントが必要となってくる。つまり、今日のNGO運動において、専門家(エージェント、代弁者)なしの草の根組織には機動力や動員力が付随しないのである。スコッチポルの理想とする全国的なネットワークを持つ組織における市民参加は、どこまでの専門性を認めているのかが不明確である。
まとまりに欠けるが、今回の授業はソーシャル・キャピタルと市民参加について思索を深める機会となり、今後の博士論文に生かしてゆきたいと思う。
- YO
【講義を通じて】
本講義では米ハーバード大学教授ロバート・パットナムが提唱した概念である「ソーシャル・キャピタル」について学んだ。パットナムはそれを「相互利益のために調整と協力を容易にする、ネットワーク、規範、社会的信頼のような社会的組織の特徴を表す概念である」と定義する。
現代の政治や社会に関する理念の根幹にある民主主義が、社会問題に対するわれわれの自発的参加姿勢に大いに依拠していることは当然である。そのためには個々の市民が自分の属する社会集団に対する帰属意識や特定の問題に関する利害関心を共にする素地がなくてはならない。それによって相互のコミュニケーションや情報の共有を円滑にする社会関係、ソーシャル・キャピタルとは、社会が蓄えてきたこのような無形の「資本」のことを指して言う。それは地域社会や一国の政治的決定、果てはグローバル社会における貧困・環境問題などを考える際にも重要となる非常に汎用性の高い概念と言える。そしてパットナムは本講義のテキストであるDemocracies in Flux: The Evolution of Social Capital in Contemporary Society(2002)のINTRODUCTIONにおいて、現代のポスト工業社会においてこのようなソーシャル・キャピタルがいかに変遷していくのかについて実証研究を交えた考究が必要だと主張するのである。
講義ではその後、アメリカの歴史社会学者であるTheda Skocpolの論文"UNITED STATES: From Menbership to Advocacy"を原書で読んだ。そしてそこで彼女が論じるアメリカの近現代史におけるさまざまなassociationの勃興から変遷の意義について検討する傍ら、時折いくつかの補助資料を通じてソーシャル・キャピタルをめぐるさまざまな言説や事例について学ぶ機会を得た。なかでも栃迫篤昌氏のマイクロファイナンス・インターナショナル・コーポレーションに関する議論は興味深かった。これは通常の金融サービスにアクセスすることができない出稼ぎ移民や途上国貧困層を「信頼」をベースにして支える新しいビジネスモデルであり、その理念に現代のグローバル社会における新しいソーシャル・キャピタルの一類型を見出せるのではないかという先生の主張は大いに参考となった次第である。
【自分の研究との関連】
もともと長時間労働問題や過労死の研究をメインとしようと考え、本講義の受講を決めた。労働問題に関する組合の意義と可能性や、賃金所得と結びついた労働現場とは異質の地域コミュニティにおける非経済主義的な市民参加の契機としての地域通貨について、「ソーシャル・キャピタル」というその当時の自分にとって未知の概念から何を学びうるかということに大きな関心があったからである。その意味では、近年の労働時間法制をめぐる議論の中心にある組合再生論 の検討や、アメリカのイサカアワーをはじめとした地域通貨の成立要件を考える際に、ソーシャル・キャピタルを有効なキーワードとして論じることは可能なのではないかという手応えはつかめたように思う。
しかし、指導教授と相談し茫漠としていた自分の問題意識を整理し直していくうちに、このような諸問題の背景にある思想研究に特化した論文を書くことにした。そのためソーシャル・キャピタルをはじめ本講義で主に学んだことを核にして自身の研究を進めること断念しなければならない、というのが今の正直な思いである。
ただ試行錯誤はこれからも続く。本講義で学んだことを温めつつ、日々の現実認識や古典的思想の現代的解釈に役立てていきたい。(了)
2008年度前期メンバーによるリポート

橋さんと担任
【雑感】
橋 徹(トランゼミ D2)
政策科学Iの授業において、政策過程モデルであるゴミ箱モデル、政策の窓モデルの理論について学習した。
合理的意思決定論では、特定された問題に対して、所与の条件などから合理的な代替案が導出され評価軸を固定することで合理的に最終的な政策が形成されるとするものであるが、現実の政策形成過程を観察すると、このような「問題⇒合理的な解答の選択」といった流れで政策が形成されることはなく、すなわちこの理論によって現実の政策過程を説明することができない。
このような問題意識から、現実の観察に基づくモデルとしてゴミ箱モデルが提起されている。
ゴミ箱モデルの基本は、問題の流れ、解の流れ、参加者の流れ、選択機会の流れ、といった流れがパラレルに存在し、ある選択機会によって、様々な種類の問題、解、参加者が交差することで、政策が形成されるというものである。このような選択機会を「様々な問題、解、参加者が投げ込まれるゴミ箱」と比喩し、最終的に選択される政策は、ゴミ箱の中にどのようなゴミが入っているか、ゴミの処理方法の2つの関数で決定されるとする。
このモデルを基本とし、各流れ自体にパターンや規則性があること、政策アクティビストの役割等を込みしたモデルが政策の窓モデルである。
さて、このようなモデルは確かに、政策過程をより現実に即した形でとらえる枠組みとして頑強に構築されているように思う。
しかし、授業の当初に持った、このモデルで現実を説明できたとして、どのようなインプリケーションがあるのか、という疑問はなかなか拭えない。ある政策分野について、基本的な意思決定構造とその要素のふるまいや相互関係について分析することによって、例えば、各流れに属するアクターの役割を認識し、各アクターが意図する政策形成に向けて戦略的に行動するための支援ツールになるのだろうか。
この頑強なモデルに触れて手前勝手に得心する部分がある。
一つには、「政策に唯一無二の正解はない」ということが理解できる点である。あるいは「人間はある問題に対して唯一無二の正解にたどり着くことは困難である。」と言った方が正しいのであろうか(それは抽象概念上の社会計画者にしかわからない?)。結果はゴミ箱に入っているゴミ次第という解釈は、まさにこの事を示唆しているようにも思える。
よって、このように形成される政策は、政策実施後に選択として不適切であったと評価される場合もある。その場合は、また新たな問題として認識されるのだろう。このような政策プロセス上のフィードバックが働くことで、社会は様々な問題群に柔軟に対応していく、あるいは変化に適応していくといったイメージがこのモデルの含意としてあるのかもしれない。
それでは、「ただなすがままに」が実は正解なのか、ということになるが、それではあまりにも非効率であろう。よって、政策フィードバックがよく機能するような、例えば政策の事後的な評価といった、社会が学習するシステムは意識的に強化すべきであろう。 このことはゴミ箱モデルや政策の窓モデルの範囲外の話ではある。しかし、このフィードバックシステムの必要性は、ゴミ箱モデルの適用範囲が限定的であることと関連する。
つまり、大つかみに言えば、その社会なり組織が対象としなければならない「問題の強さ」において、非常に強い問題(あるいは目的)に対峙しなければならない社会や組織にはこのモデルは適用できないのではないか、ということである。
非常に強い問題に直面しない社会や組織であれば、基本的には「なすがまま」の意思決定プロセスによって選択を行い、選択結果のフィードバックによって修正を行うことで全てが許容されるであろう。しかし、非常に強い問題、例えば戦争、国家の安全保障、企業における持続経営、巨額投資などといった分野では、間違えてもとりかえしがつく、といった許容範囲が狭い問題群であり、これらの意思決定に直面する社会や組織においては、ゴミ箱モデルの適合性は決して良くないのではないかと推察する。
2007年度後期メンバーによるリポート(at random)

メンバー集合写真
- S・O
【授業の感想】
ある問題が取り上げられ意思決定がなされていく際に、その問題に対して合理的な決定が積み重ねられていくわけではないことは、政治の世界や歴史を振り返ってみても明らかである。また、わざわざ政治や歴史の例を持ち出さずとも、出席者の利害によって決定が左右される会議等、自分自身の実生活からも実感できることである。このような、経験に基づく実感に近い、「問題を取り巻く様々な要因が絡まりあって作り出される大きな流れの中で、人々の利害や周囲の状況がたまたま一致した際に問題として認識され意思決定がなされていく」とする「ごみ箱モデル、政策の窓モデル」の考察は、論理によって合理的に積み重ねられる「理論」と、実際には様々な要素が絡まり合わざるを得ない問題が起きる「現実」との統合を目指すものという印象を持った。これらのモデルの考察を行った本授業は、社会科学を学ぶ上で示唆に富んだものであり、非常に有意義なものであったと思う。どうもありがとうございました。
【自分の研究との関連】
様々な社会構造の変化を要因として、地域社会の崩壊、人と人との絆の弱体化が指摘されている現在において、新たな地域社会の創出、人と人との絆の回復の可能性を、人々が自発的に参加し協力する地域ボランティア活動の場に求める。そして、いくつかの実際のボランティア団体による取り組みを通して、社会関係資本・ソーシャルキャピタルが創出される可能性を考察していきたい。このような自分の研究に対して、今回学んだ政策科学のテーマがどのように活かされるであろうか。
「ゴミ箱モデル・政策の窓モデル」によれば、意思決定には、人々の利害や周囲の状況など、合理的な判断だけではない、その問題とは直接関わらない様々な要素の影響が非常に大きい。そして、意思決定の際に「人は合理的判断を下すことができる」としてきた「合理的意思決定モデル」とは異なり、「ゴミ箱モデル・政策の窓モデル」は「人はある問題に関しての合理的判断を必ずしも下すことができない」ことを意思決定の前提としており、そこにある種の人間観の転換が起きていることを見て取れるのではないだろうか。つまり、「ゴミ箱モデル・政策の窓モデル」での意思決定は、各人の行動規範・主観や偶然性に負うところが大きく、モデルに「人間・現実」の要素を組み入れたとも言えるだろう。
以上のことを自らの研究分野に引き付けて言い換えれば、「統計からはじき出されたデータや、頭の中で組み立てた理論だけでは、一人ひとりが置かれた状況や立場、信条等によって異なる多様な現実の意思決定の全てを把捉できない」ということになるのではないだろうか。つまり、地域に住む人々・ボランティア活動を行っている人々など、現実を築いている「人間」を対象として観察することなしに、現在起きている現象を捉えることはできない。研究を進めていく際には、一人ひとりの「人間」についての考察を総合化することで作られる、蓋然性を踏まえた多様な「現実」の流れを意識して考察を進めなければ、表出する結果・データの裏に隠れた事実を見逃がしかねない。このことは、研究を進めていく際に、常に認識しておかねばならない「戒め」となったように思う。
- 川口かしみ
【修士論文のテーマ】
社会における、特に雇用の場での男女格差の問題の状況から、憲法14条の男女平等規定の意義について考察していきたいと考えている。
憲法14条は、法の下の平等を定め、性別による差別禁止を明記している。これまで、男女雇用機会均等法などの個別法が徐々に制定され、法制度の平等は整備されてきた。それにも関わらず、現在においても、男女格差は是正されてきているとはいえ、賃金格差や非正規労働者の女性の比率の高さなどの実態から、依然として雇用における男女格差は存在しているといえる。
しかし今後、人々の意識の変化などから、労働者の働き方やライフスタイルが多様化し、個人化していくと考えられる社会変化にも注目し、人々を男性・女性のグループの集合体として捉えていくことより、むしろ女性・男性としてのひとりとする個人を単位として捉え、その個人を尊重させることによって真の男女参画が実現され、雇用における男女平等を達成していくことを自己決定の観点からも言及しながら議論し、改めて平等規定の意義について考察していく。
【授業を受けて】
法の理念を達成させる一方法として政策がある。法の規定があっても社会における人々の生活はその理念の方向に進んでいかない。すなわち、具体的な政策の施策により、人々にとってよりよい生活のための方向性が打ち出され、それが実行されていくことで法の理念は達成されていく。そのために、人々にとってよい生活とは何か、人々のニーズに合い、実現可能な方法は何かなどを考えて政策形成がなされなければならない。このようなことから法律を勉強していく中で、それに裏付けられている政策を理解することは不可欠であると考え、政策のモデルやその背景を勉強するために本講義を受講した。講義では様々な政策モデルに触れたが、特にデンマークのフリースクールのケースを取り上げて学習したゴミ箱モデルは大変興味深いものであった。
【ゴミ箱モデルのまとめ】
ゴミ箱モデルとは、コーエン、マーチ、オールセンによって提唱されたモデルであり、実際に行われる意思決定は、規範的なプロセスを踏んでいないという理論である。それは、政策形成を通して関与する人々や組織が、@不明確な選好、A明らかでない技術、B流動的参加をベースとして活動することにより、組織化された無秩序の中で政策形成プロセスが形成されると捉えられている。
意思決定要素には、@問題の流れ、A解の流れ、B参加者の流れ、C選択の機会の流れが存在し、各流れは独自のパターンを持ち、他の流れとは独立して流れ続いている。その中で様々な問題が選択機会の中に投げ込まれ、様々な解が検討されていることから、選択機会は、様々な種類の問題、解、参加者が投げ込まれるゴミ箱と考えられ、政策決定はそのゴミ箱の中での選択として捉えられる。これによる意思決定の場合、参加者が出たり入ったり、時間と共に参加者の問題の捉え方も変化したり、何を求めるのかという定義も頻繁に変化したりして、曖昧な状態で意思決定が行われるのである。このように、集団における意思決定は必然的に生み出されるものではなく、意思決定の4つの要素が偶然に結び付き、それによって左右された結果でしかないという考え方である。
また、このモデルは全員のベストな解を話し合いから模索するよりも、ある程度の段階で意思決定をして、行動をしながら最適な解を導き出していくことに合理性を導き出していくことも特徴的であり、私は特にこの点に関心を持った。
【自分の研究との関連】
上述のゴミ箱モデルを自分の研究対象である雇用における男女平等の政策問題と関連させて考えていく。
国際的な外圧により、日本では1985年に男女雇用機会均等法が制定された。それによって、雇用の男女平等に向けた政策が展開されていった。しかしそれは実際、女性労働者を対象としたものであるが、多くの場合、労働市場において女性労働者は家庭責任を負う前提の下での雇用であり、そのため、非正規労働者などの補助的労働者とされたのだった。すなわち、それは安価な労働力としての女性の労働力化がはかられたに過ぎなかったものだったのである。その状況において、女性労働者が労働市場で正規労働者として働きたいのであれば、女性労働者は男性労働者と同程度の基準で働く男性なみの平等を目指すものであり、女性は労働と家庭責任という二重の負担を負うことになり、そこに政策の限界があったと考えられる。
しかし、近年、社会や労働環境の変化などにおいて従来の男女の働き方を見直す動きから、男女平等を促す政策が展開されているように考えらえる。それは、企業中心社会における過労死・過労自殺を引き起こす従来の男性の働き方や家事労働に参加したいと考える男性の増加の一方で、働く意欲のある女性の増加などの変化、また今後の少子化や労働力の不足問題の点からも男女が同等に家庭生活や労働市場の両分野で活動していくことが求められていることである。このようなことから国家はワーク・ライフ・バランスの考えを打ち出し、企業に男女の働き方の見直しをさせようとしている。
前者の政策の実行状況、人々の意識の変化、社会の問題の変化などにおいて、雇用現場でのジェンダー問題における格差是正のため平等の定義も女性の男性なみの平等からワーク・ライフ・バランスにおける男女の平等と変化していった。
このように雇用における男女平等政策を考える際に、どのような政策の制定がそのときの社会の男女平等に適切なのかという議論は変化していく。それは、ゴミ箱の中の問題、解、参加者は時間や人々の意識、社会の変化などに反映され、それによって選択の機会も変化していくことで、従来の議論や定義の内容とは大きく異なり、上述の意思決定要素が偶然に結び付いたものとも考えられる。
最後に、ゴミ箱モデルを学習し、これまで自分が触れなかった政策モデルの理解を補うことが出来、今後の政策を考える際のヒントを得たことから、私にとってこの講義は大変有意義であった。
- 周 少丹
【授業の感想】
昨年10月3日から始まった「政策科学」という講義では、上沼先生は政策形成の理論を中心に紹介し、詳しく説明してくれました。授業は最初、日本のNPO法の形成過程を「政策の窓モデル」を用いて捉えている小島廣光の本の先行研究の部分、つまり、「政策の窓モデル」に至ったまでの「合理的意思決定モデル」「増分主義モデル」「エリートモデル」「ゴミ箱モデル」の由来および特徴を詳しく説明してくれて、その途中、先行モデルの欠乏点を検討し、小島はいかにして自分のオリジナル議論に至ったのかという論文作成に問題意識からユニークな研究への結びつきの方法を訓練させてくれました。また、授業の概要以外に、上沼先生はいかにして早稲田図書館の電子資料およびインターネット上の資源を利用するかも教えてくれました。この二つの点でいえば、政策科学という授業には、私のような修士1年の人にとってとても価値があると思っています。
【自分の研究との関連】
「政策科学」という授業に参加してよかったと思っています。なぜこういうかというと、自分の研究にヒントを与えたからです。
わたしは携帯電話におけるコンテンツ産業について研究しています。携帯電話研究には、一つ問わなければならない問題があります。それは、「携帯電話はいったい何なんだ」かです。一般的に、携帯電話といったら「携帯電話機」であり、通話ツールの一つと思う人が多いかもしれない。しかし、それは、携帯産業の人にとって、ユビキタス社会のデザインを目指す人たちにとっても難解な問題です。これは、携帯電話はいつも変わっている現在・未来進行形的なものだからです。携帯電話が20年ほど前に誕生したときは、間違いなく電話の延長として開発されました。しかし、その後、SMS(Short Message Service)やi-modeなどの通信機能、また現在では、music playerやテレビとしても使われています。将来、携帯電話は一体どんな形で私たちの生活に定着するのか想像が尽きません。技術的論者は、携帯電話が新しい技術誕生の度に変わると言いますが、社会構築論者はこれに猛反対で、ユーザの使用によって社会的に構築されるのだと主張しています。また、技術と使用者以外に、産業界は何をどう望んでいるのか、政府は如何にして携帯電話をパブリック・メディアの一面を活用し得るのか、といった色いろな声が存在するわけです。携帯電話は、このような力学作用の中で進化しています。このような力学作用は、一定のルールがなく、「組織化された無秩序」の状態ではないかと考えています。
わたしは強いて携帯電話の進化に、上沼先生が紹介してくれたゴミ箱モデルで当てはめて理解すると、「問題の流れ」「解の流れ」「参加者の流れ」が以下のように見えるではないかと考えます。
「問題の流れ」:携帯電話を一体どのようなものにすべきかという、究極の問題である。この問題は新しい技術が活用されたたびに、社会のコミュニケーション様式が変わるたびに、問われるものである。
「解の流れ」:前述のように、携帯電話は進行形的なものである。電話の時代には、携帯電話というのは「電話回線のない電話」である。携帯電話が普及し始めた時点では、「携帯電話は誰のものか」について、色いろな案があったが、結局お金に困らないビジネスマンたちのものになった。また、携帯接続料金が下がった後、携帯電話は若者に愛用されて、そうなると「ほかに、携帯電話にどんな機能をつければいいか」に対して、「携帯ゲーム」「メール用の絵文字顔文字」などつけられてきた。その解の流れとしては、「通話」→「SMS」→「i-mode」→「Internetアクセス」→「デジタル・カメラ」→「Music player」→「ビデオカメラ」→「テレビ」→「windows office」→「携帯小説」等など。
「参加者の流れ」:参加者の流れには「生産者」と「消費者」に分けられ、「生産者」は携帯キャリアと携帯電話メーカとコンテンツ提供者に分類され、他方、「消費者」は一般の携帯ユーザーである。しかし、携帯の消費者は均質的なものではなく、最初の消費者はビジネスマン、後はビジネスマンから若者に広がってきて、今は老人も子供も使えるようになってきた。携帯電話は参加者の構成が変わるたびにも変化するため、消費者を一元的ではなく、時系列で捉えたほうがよいと思う。また、携帯電話は生産者からの影響も大きい。たとえば、メーカの場合、東芝は独自のCMOS技術とSD生産の技術を持ち、写真や録画などの映像機能を強調している。一方、ソニーの場合は、音楽機器の技術を持ち、音楽や映画などコンテンツも生産するので、音楽中心の携帯電話をデザインしている。さらに、携帯キャリアやコンテンツ両方に進出するウォルト・ディズニーも日本携帯産業に進出して、どのような携帯電話の概念を持ち込んでくるのかが期待されている。
携帯電話は進化しています。そのため、「選択機会の流れ」もみんなが見てきたような流れて変化してきています。そもそも、携帯電話はどんな力によって変化してきたのか、各種の力がどんな目的で動いているのかについてはグチャグチャの状態でしたが、ゴミ箱モデルを用いて、とりわけ「問題の流れ」「解の流れ」「参加者の流れ」を考え、また、「選択機会の流れ」とあわせて各種の力が携帯事業以外の事業の成果を携帯電話に影響して、将来の携帯電話をデザインしていくでははないかと思い始めました。
要するに、ゴミ箱モデルは携帯電話を考えるパタンを与えてくれた思う。
【参考】
以上を図式化しました。
- 張 真
【修士論文のテーマ】
近年、女性起業という就業形態がよく注目されている。女性が起業する動機そして起業するために社会からどれほど支援策をもらえるのかについて、論じたいと思う。
日本のビジネス社会では、男尊女卑が今でも続いている。女性は入社しても、自分がやりたいことを実現できない、もしくは、働きたいけど働く場所がないといったような状況はよく知られている。このような環境の下で、女性たちは、自分のやれる範囲で起業することが少なくない。起業を目指す人は、極力円滑にその希望を実現できるよう、起業するときに必要な知識やノウハウの不足を補う機会の提供、そして、人的ネットワークの不足を補うサービスなどの社会的な支援を求めている。必要な支援策がどのようにつくられるか、そして、いかにうまく使われるかについて考察してみたい。
【授業から学んだことと関連】
起業希望者に対する社会的な支援策が必要である。現実には、昇進昇格に限界があったりし、女性にとって任される仕事の範囲に限界があるなど、企業内で女性のキャリア・アップを妨げる理由があることから、女性たちが起業という就業形態を選ぶことになる。しかし、女性が前職での経験が不十分なため、開業した後様々な困難に直面してしまう。 起業を希望する女性が、必要とする支援で一番多いのは「起業準備、事業計画、資金調達などのノウハウを修得するためのセミナー」である。この支援策を決定するために、「ゴミ箱モデル」が妥当だと思う。
「ゴミ箱モデル」によると、参加者たちは問題を確認したうえで、アジェンダを設定して、政策を求める。例を挙げると、起業を希望する女性は直面する問題を設定して、そして、いくつかの政策案、例えば、起業準備や事業計画、資金調達などのノウハウを習得するためのセミナー、あるいは、起業に関する相談窓口などを探っていく。このモデルによると、起業を目指す女性の希望に添って、支援策を形成することができると考える。
2007年度前期メンバーによるリポート(at random)

R・パットナム編著のテキスト
- S・O
【授業の感想】
最近頓に「人々のつながりの希薄化」が語られる傾向にあるように思われる。確かに「サザエさん」に出てくるような、ご近所の家庭に、「お醤油を借りる」「おすそわけをする」といった濃密な関係を持つ地域社会は、日本社会において、総じて減少傾向にあるとなんとなく認識していた。
こうした、「なんとなく」というレベルでしか捉えられてこなかった現象を実証的に研究対象とし、その重要性を分析したロバート・パットナムの功績は大きく評価されるべきであり、ソーシャルキャピタルが社会においてどのような役割を果たしうるのかを指摘した研究は非常に示唆に富んでいるといえよう。
また、パットナムが日本だけではなく、アメリカ・イギリス・スペインなど先進諸国各国のソーシャルキャピタル事情を比較検討し、地域性を最大限考慮しながらも、その全体の傾向の中にある普遍性を探ろうとしていた点も興味深い。
そして、パットナムが挙げた経済的に豊かな西欧の国々だけではなく、アフリカや中近東、あるいはオセアニアの島国など世界中の国々のソーシャルキャピタル事情を知ることで、経済的には貧しいといわれている途上国の、経済的指標には直接表れてこない「豊かさ」の根源を考察していく研究も興味深いのではないかと思った。
【自らの研究との関連】
2006年の文部科学省の調査によれば、現在不登校を理由に年間30日以上欠席した小中学生は12万人を超えており、中学生に限れば、40人のクラスに一人は不登校・ひきこもりと呼ばれる子どもが存在する計算となっている。また、学級崩壊を引き起こすクラスも多く、日本の教育は今や大きな見直しを迫られている。
私自身の研究テーマとしては、そうした日本の教育の中でも特に「地域教育」を取り上げ、その重要性を指摘すると共に、研究を実践の活動へと活かしていきたいと考えている。
現在、私は、子どもたちを地域の中で育てることを目的としたNPO活動に参加しているが、活動を行っている実感としても、昨今の子育て環境は非常に厳しいものであると感じている。
その理由としてはいくつもの要素が挙げられるが、その一つとして「地域社会」の崩壊が挙げられるだろう。かつては子どもたちの目標となる「お兄さん・お姉さん」、また、自分よりも小さく、お世話が必要な「幼子達」が地域社会に存在しており、それを見守る「大人たち」、ちょっと口うるさい近所の「おじいさん・おばあさん」の存在も合わせて、様々な年代の人々が集まる地域の中で子どもを育てていた。しかし、核家族化が進んだ現在では、異世代による地域での教育は現実的に困難である。
こうした「地域社会のつながり」=「ソーシャルキャピタル」の減少が、子どもたちの教育にも大きな影響を及ぼしていることは間違いのないところであろう。
そして、私が実践の中で感じていたのが「社会的つながり」の数値化の難しさである。「社会的つながり」は、実際の活動において確かに感じることができる。子どもの親御さん方と関わりあう中で、何気ない挨拶や日常会話が増えていき、ついには親御さんが自らボランティアに参加してくださるようになる。また、初めは私たちスタッフに遠慮して少し遠巻きに見ていた子どもも、継続的に参加するうちに、おんぶに抱っこにとまとわりついてくるようになる。こうした実感としてのつながりの強まりは感じることができたとしても、それがどのようにして研究対象となりうるのか、今まで考慮し続けてきた課題であった。
今回、政策科学の授業においてソーシャルキャピタルという概念を学び、客観的な数字にはっきりと表れにくい「社会的つながり」を、数値化し研究対象とするための方策の一助を学んだ。客観性を得うるデータとして「社会的つながり」を学問の対象とすることは、まさに私が追い求めていた方策であり、私の今後の研究において非常に意義深いものとなるであろう。
パットナムは、ソーシャルキャピタルを新たに作り出すことは非常に困難であるとしている。しかし、今私たちに求められているのは、現在の社会や文化に適合した、今までとは異なる形でのソーシャルキャピタル、「人と人とのつながり」を作り出す方策を探ることである。私は、「地域教育」という視点から、新たなソーシャルキャピタルを作り出す方策を実践と研究の相互連関の中から見出していきたいと考えている。
- 沼田真一
【ソーシャル・キャピタルと修士論文について】
「ソーシャル・キャピタル」という考え方をはじめて知ったのは、諸富徹氏による『環境』を読んだときだった。いままでなんとなく感じてきたことが明確な言葉に書き出されていたその本をまさにかじりつくように読み込んだ。
当時、愛・地球博にスタッフとして参加していたこともあり、環境問題にどのようにアプローチしていくかは非常に重要だったのだが、自分がイベントを作る側に立っていることもあり、経済という視点を踏まえて環境問題を読み解きたかった。その自分の問いに見事に答えてくれたのがこの本だった。
そもそも、なぜ「ソーシャル・キャピタル」を自分が研究の一部とするようになったかは、まさにこの自分の仕事に大きな理由がある。
自分の仕事がイベントを企画することだと告げると、多くの人は、イベントの一回性を批判の対象とする。イベントは目的ではなく、手段だと私は考えている。学部時代から都市計画の研究で、特に地域活性化を目的とした場合、どうしても、各業種やセクターの連携が必須であるのだが、その連携はどうにもうまくいかない。市民団体も含めて、強力なミッションを持っていればこそ、同じ分野でさえ、些細なミッションの違いが、存在を否定しあうような敵同士となったり、古くからの因縁の中で、どうにも協力できない状況になってしまっていることばしばしばある。
経済的な地盤沈下だけでなく、環境、教育、福祉、防災など、地域の抱える問題はさまざまであり、その最前線で奔走する人間も、あまりの忙しさで現場から離れることができず、根本的な課題解決に至らないまま孤立無援の状態であることが多い。分野別に活動する人々も、同様な問題に困り果てていることさえ知らないことが多い。スピードと結果を求める社会で、我々は効率を求め続けてきたが、自然破壊もそうだが、地域の諸問題はさまざまな関係の破壊から表出した、当然の結果なのだと考えるようになった。
こうした状況を解決するために、イベントという手法で、世代と分野を超えて人をつなぎ合わせ、まさに持続可能な社会を作るための手始めとして、ソーシャルキャピタルを創出することが重要であると思うようになった。
さて、あらためて、今回の授業を通して、ソーシャル・キャピタルの現状を調べてみると、その研究はさまざまな分野に広がっており、ソーシャル・キャピタルの注目の高さがよく分かる。個人的な感想としては、ソーシャルキャピタルはまだまだ理論としての実証性は物足りなさを感じる。アンケート結果からはたしかに、ソーシャルキャピタルと呼ばれるようなものがありそうな気もするが、その相関関数は「それらしくみえる」という感想にもなりえてしまう。
しかしながら、実際の自分の体験からも考えてみて、たしかに市民参加型のイベントを実施する中で、多くの市民が関わり、ネットワークが生まれ、それぞれの活動は(本人が嫌う言葉だとしても)市民活動として広がりを見せているようにも思う。
イベントという政策プログラムに参加した市民の数がアウトプットだとして、そこでつながった人々の関係から、地域防犯や地域の環境活動、地域教育、地域福祉とつながっていけば、そのアウトカムはとして社会的に高い効果をもたらしたといえる。まさにこれこそ、市民参加型イベントの成果なのであり、持続可能な社会を切り開く、ローカルアプローチではないだろうか?
修士論文では、マーサ・ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチを加えて、「ソーシャル・キャピタル」のより人間的な側面での状況と活動一体型の成果を示したい。
- 石原 剛
【授業の感想並び、研究テーマとの関連】
講義を受講し終わって「ソーシアル・キャピタル」の重要性を認識すると共に、これから社会で少しでも「うまく」やっていくためには、これを努力して創っていかなければならないと痛感した。
パットナムによれば、「ソーシアル・キャピタル」の定義として、「調整された諸活動を活発化することによって、社会の効率性を改善できる信頼・規範・ネットワークといった社会組織」と定義している。よって、パットナムの示した「一人でボウリングをする」という現象に関しては、社会にとっては非効率ということがいえる。
それは、ボウリング経営者にとっての打撃(GDPが 増加しない損失)といったことよりも、ボウリングをしながらの会話等で情報の交換がないことの損失の方がはるかに大きいということは全くその通りだと思う。さしずめ、今の日本の身近な現象でいうと、「おひとり様」という言葉が思い浮かぶ。それは、カラオケ、ファミレス 等、通常は 友人達と連れたって行くところを、一人で行き、カラオケの練習や会話をせずにもくもく食事のみをするといったところであろうか。傍から見た場合は、「痛々しい」と思われても当の本人は、割り切って一人でも平気であるという者もいる。
このような「ソーシアル・キャピタル」の崩壊を表す現象は、先進国の共通の傾向でもあり、時代の流れで仕方がないといったといった見方もある。
しかし、イタリア系住民の間では、隣人同士が互いに気遣いをし、共通の目的意識と仲間意識で差別を感じるといったことが決っして起こらないように配慮しているケースもある。その結果、そこでは、突然死や心筋梗塞といったものが、極めて低い値となっている。
このようなケースが実際としてあるので、決して「ソーシアル・キャピタル」の崩壊に対して、時代の流れで仕方がないといってただ指を銜えて見ているだけではなく、何かの行動が必要であると思う。
「ソーシアル・キャピタル」の利点としては、
- 契約、訴訟のコストの削減できる。
- 必要な情報交換を促進する。
- ビジネスチャンスが拡大する。
- 社会的消費を促進する。
等があげられる。
これらの中でも、これからの日本の高齢化社会、それも単身高齢者世帯が多く現れるとおもうため、高齢者に積極的に「ソーシアルキャピタル」を身につけてもらいたいと考える。何故なら、ボケ、心臓発作の割合、うつになる割合、感染症の疾患率、死亡率等が 「ソーシアル・キャピタル」をより多くもっている者はそうでない者に比べ明らかに低いからである。
以前からそうであるが、これからの高齢化のキーワードは、「ソーシアル・キャピタル」ということがますますクローズ・アップされてくると思われる。
それにしても、講義でやったように、同じ「ソーシアルキャピタル」でも、社会学者と政治学者とでは、その見方やアプローチの仕方がまるっきり異なっていることは非常に興味深い点であった。
特に、猪口氏の造語である、KARAOKE Democracyという概念は非常に面白く思った。政治家は、官僚の意のままに操られているというのはとても実感する。ここ数年、政治家が、「政治を官僚主導から政治家主導へ取り戻す」といった言動を耳にする。しかし、その流れは、未だに政治家は官僚の「手の上の孫悟空状態」のような、いいように操られているという感がしてならない。
先の参議院選挙にしても、自民党の歴史的敗北といったことが取り上げられているが、この結果に対し、官僚の中には、もしかしたら、してやったりといったようなことを思っている者もいるかもしれない。
というのも、与党が少しだけ本気になって、「天下り規制法案」なるものを更に改革しようとしていることに対し、官僚が少し危機感を抱いて、今回のような結果になるような、シナリオを描いていたかもしれない。
与党への政治運営審判の機会としては、今回の参議院選挙より、むしろ、一昨年の郵政民営化選挙の際だったのではないかと強く思えて仕方がない。後から、振り返っていると、いろいろな意味で、あの時が今後の日本のターニングポイントであったような気がする。よって、今回のような時こそ、選挙、政治について、「ソーシアル・キャピタル」で互いに情報交換をするような社会になったらいいと思ってしまう。
「ソーシアルキャピタル」はそれを多く持っている者ほどまた、それを、使えば使うほど、更に増えていくといった性質がある。そのためには、序々に自ら努力していかないと創れないものである。
- 組織の内部の人と人との同質的な結びつきといった「結合型」は比較的簡単に創れそうであるが、
- 異なる組織間で異質の者を結びつけていく「橋渡し型」は、努力して初めて創れるものであると思える。
この講義は、私の研究分野にどのように関連性があるかといった(狭い範囲の)性質のものではなく、今後の人生にとっての課題を考えさせてくれるものであった。学部時の「政策科学」の補完的でダイナミックな講義であった。
2006年度後期メンバーによるリポート(at random)

授業教室にて(T.Kさん撮影)
- 稲垣太郎
【修士論文のテーマ】
私の修士論文のテーマは、フリーペーパー(無料紙誌媒体)の研究である。
フリーペーパーは@コミュニティペーペー(地域生活情報紙誌)Aニュースペーパー(報道を目的とするもの)Bターゲットペーパー・マガジン(特定の想定読者層に絞ったもの)の3種類に大別できる。有料の新聞・雑誌と異なるのは、いずれも、その収入を広告だけに依存していることだ。一方、フリーペーパーがチラシ広告と異なるのは、広告から独立した記事内容(コンテンツ)が紙面に掲載されることである。
フリーペーパーは@コンテンツ(記事内容)A広告Bデリバリー(流通)手段の3つの要素で成り立つ。@とAは有料の新聞・雑誌と共通するが、Bの流通手段は、フリーペーパー独自の要素である。新聞は販売店による宅配に、雑誌は本屋に、それぞれ既存の流通ルートに依存して運ばれ、読者が金を払って買っていく。これに対し、フリーペーパーは@ハンディング(街頭などでの手渡し)A全戸配布B職域配布Cラック置き、の4つの方法で読者の手に運ばれる。読者や読者の自宅に直接渡される@とAをプッシュ(PUSH)型、読者が自ら手に取るBとCをプル(PULL)型と呼び分類されることもある。
フリーペーパーの種類により、デリバリー手段は変わる。例えば、主婦や高齢者を想定読者層とする地域生活情報紙は全戸配布が、OLや若いビジネスマンを狙ったターゲットマガジンは職域配布が適切な方法になる。転職を促す求人誌の場合は、職場に送り届けることはできないから、多くの就労者が通り過ぎる駅構内のラック設置が最適になる。創刊時のPRやリニューアルをアピールする場合は、ハンディングが効果的だ。これら4つのデリバリー手段を組み合わせ、総発行部数を最も適切な比率に分けて配布する方法、すなわち「デリバリー・ミックス」も現実に行われている。
フリーペーパーが広告収入を確保するためには、広告主に対し、どんな読者にどのような情報をどのような配布手段で届けるかを明確にしなければならない。その鍵を握るのが、配布ポイントである。想定読者の動線上にラック設置したり、自宅や職場に届けたりする接触ポイントが重要になる。つまり、配布ポイントがフリーペーパーの想定読者を、また想定読者を求める広告主と広告記事を、さらには想定読者を満足させるべき記事コンテンツを決定づけることになる。前に掲げたフリーペーパーの3大要素の中で、記事コンテンツと広告はデリバリー手段によって、その内容が決定づけられるということである。これが私が考える「フリーペーパーにおけるデリバリー決定論」の仮説であり、その論証を修士論文で展開する。
「デリバリー決定論」の狙いは、記事内容の選定から広告主の確保、販路の選択といった順序で決められてきた既存の有料紙誌ビジネスに警鐘を鳴らすことだ。読者が読みたいと欲する情報を、適切な場所で届けるフリーペーパーのビジネスモデルは、読者へ大量な情報を一方的に流してきたマスの紙媒体に、編集方針の転換や販売政策の修正を迫るものになると考えている。
【政策科学Tから学んだこと】
政策科学Tでは、小島廣光著『政策形成とNPO法』と大嶽秀夫著『政策過程』、秋吉貴雄著『政策変容における政策分析と議論』、ジョン・W・キングダン著『Agendas,Alternatives,and Public Policies 第10章Some Further Reflections』を教材に、いくつかの政策過程分析理論モデルを学んだ。すなわち、サバティアの「唱道連携モデル」、リンドブロムらの「増分主義モデル」、コーエン、マーチ、オールセンの「ゴミ箱モデル」、キングダンの「政策の窓モデル」である。
「唱道連携モデル」は政策が長期的に変化するプロセスを総合的に分析しようとする。連続的・増分的な政策変化が、@対抗的な唱道連携グループの相互作用の重視、A政策変化の説明要因の分析、B唱道連携グループの信念システムの解明、の3点にもとづいて分析される。このモデルが主に分析対象とする「小さな政策変化」は、複数の唱道連携グループの受動的な政策志向的学習によって生起されるものとして捉えられる。
「増分主義モデル」によれば、政策形成者は特定の問題を新たに考察することはなく、その代わり、取り組んでいる問題を所与のものとして捉え、現在の行動をわずかに増減させることにより調整を図る。膨大な数の大きな諸変化を詳細に調べなるなど、多くの時間を割いて目標を定義する必要はない。現在の複数の状況間の比較や、現在の行動のわずかな調整だけで済む。この結果、「漸進的で小さな政策変化」が形成される。政府の予算編成がこのモデルで決定されていることが多い。
「ゴミ箱モデル」では政策形成に関する組織を「組織化された無秩序」とした上で、意思決定構造に@問題の流れ、A解の流れ、B参加者の流れ、C選択機会の流れが存在するとし、その選択機会は「さまざまな種類の問題、解、参加者が投げ込まれるゴミ箱」と考える。問題は解決される場合もあるし、未解決のまま別のゴミ箱に移っていく場合もある。上記二つのモデルとの違いは、さまざまは流れの合流(結び付き)によって、急激な政策変化を生み出す可能性が大きくなるということである。
「政策の窓モデル」は、アジェンダ設定と政策案の決定までを対象とする。政策形成システムにおいては@問題の流れ、A政策の流れ、B政治の流れの3つの流れがあり、決定的な時点に政策の窓(問題の窓と政治の窓)が開くことによって、政策案の決定が推し進められることを示す。数ある問題(イシュー)の中から、ある問題(イシュー)が議題(アジェンダ)の俎上に上るのか。その答えがここにある。
【修士論文へのヒント】
数ある政策案の中から、なぜあるものは取り上げられ、あるものは取り上げられないのか。会社組織になぞらえれば、経営方針案しかり新商品開発案しかりである。これらは、消費者のニーズや景気動向、社内組織の体制など、さまざまな要素(流れ)がタイミングよく一致してこそ実現される。私自身が長年かかわった新聞を作る仕事の中でも同じような実感を持った。新聞記者が書いた原稿が、新聞紙面のどこの面にどれくらいの大きさで掲載されるか。紙面を作る編集者の価値判断はどのような要素によって決定されるか。思いつくまま挙げてみると、@官僚や議員、財界首脳など主な情報提供者取材対象者の意識の流れA読者や国民全体のムードの流れB他紙との競争関係の流れ、C景気や金融市場の流れD米国を中心にした国際情勢の流れ、などが考えられる。
これは、私の研究テーマであるフリーペーパーの経営についても共通する問題である。フリーペーパーを発行するタイミングは、@特定のテーマに注目する特定読者層の価値観や意識の流れA広告主の経営戦略の流れB新聞、テレビなどマス4媒体やインターネットが提供する情報の偏りの流れ、などを見た上で、決定されるべきだろうからだ。
「政策の窓モデル」に代表される政策過程の理論モデルは、ある目的を持った提案行為を実現するための戦略論である。立案者は、提案の実現を決定づける要素(流れ)の存在を意識し注視しながら、それぞれの窓が開く瞬間に即座に対応できるように、提案の準備をしなければならない。絶好のタイミングがいつ訪れるかを逆算することも出来るかもしれない。単純に数式化すると、ある変数を含む方程式がいくつか存在し、関数の増減に応じて式の値が一致したときが窓の開いた瞬間になるのだろうか。企画提案や起業、発行など、あらゆる戦略立案に大きな手がかりを与えるものである。
- T.K
【授業の感想】
とても興味深く受講することができました。とくに最後のディスカッションが印象的でした。マスコミ、移民問題、ジェンダーと様々な研究対象について授業で学んだキングダンのアプローチを通して見てみると、それぞれについて問題点が浮かび上がってきて、それらの視点を得たことは非常に有意義であったと感じています。同時に共通性についても認識することができ、アジェンダセッティングに焦点をあてたキングダンのアプローチの力強さを実感しました。
これらの議論をさらに深めることができれば、多くの政策領域をカバーする普遍的なアプローチが見えてきたかもしれない、というくらい価値のあるディスカッションであったと思います。
半年間の先生のご指導を通じて、価値観が多様化しているからこそ様々な価値観を包含し、かつそれらを超えたところでの「政策」を研究することの意義を改めて認識することができたように思います。本当にありがとうございました。
【自分の研究との関連】
私の場合、ある地域政策の形成過程を研究対象とし、当該地域における様々な主体の合意形成プロセスが重要であるという結論に達しました。今度はそれを理論的に説明したいと考えており、フィットする理論的枠組みはないかと探していました。そんな折「ゴミ缶モデル」や「政策の窓モデル」という理論モデルについて関心を抱きました。
理論構築ということについて言うと、社会科学の場合とくに経済学を例にとると仮説の設定がポイントとなります。その仮説の設定の仕方に研究者としてのセンスが問われるといっても過言ではないでしょう。このセンスを磨く方法としては多くの仮説(理論といってもよいかもしれません)を見ていき、その現実妥当性を一つひとつ確認していく以外には ないのではないかと考えています。
この作業を続けていくとある一つの結論にたどりつきます。それは、世の中はすべて仮説の上に成り立っているということです。そして様々な仮説によって世の中の見え方が異なるということです。つまり世の中の見え方自体が、各人の頭の中にある仮説によって決まっているということに気付くことになります。
その自分の頭の中に生まれてきた仮説を検証するために事実のデータを集めますが、そもそも頭の中にはその仮説によって決められた枠組みがあり、その中でデータを解釈することになります。だから、データをいくら積み重ねてみても既存の仮説を覆すことはできないことがわかります。要するにある理論を超えるのは、データの積み重ねではなく自分の頭の中で考えた仮説に基づいた理論だけということになります。
この仮説はどうやら突然生まれてくるわけではなく、先達が積み上げ発展させてきた概念と理論的枠組みを根気強く現実社会に妥当するようです。そして後世が現実社会にアプローチする方法として引継がれていくようなレベルにしていくことに意義があるように思います。この連続性こそが学問の醍醐味であり、最高の状態で引継ぎ、また最高の状態で引き渡していくことが研究者の存在価値であると考える次第です。
- Singapore Sling
【修士論文のテーマ】
女性の賃金労働が出産というイベントによってどれほど制限され、また規制を受けているかを議論の中心にする予定である。
家族と仕事の緊張は女性にとって就業機会の選択に大きな影響を及ぼす。家事労働が女性に期待されているから、女性は家族のために派遣やパートタイム労働など、時間や会社組織から比較的拘束のない働き方を選びがちである。労働市場もまた、男性に比べると圧倒的な数のパートタイム労働の機会を女性に提供している。このような女性の雇用形態の特徴は、女性は子どもを産むという社会的期待から派生しているのではないのか。
女性の新たしい働き方として90年代以降増えてきた派遣労働を通し、女性に登録型派遣労働者(非正規雇用者)が多いことは、社会が女性に期待する出産を含む性役割規範の表れであることを証明したいと考えている。
【授業を受けて】
法と女性の関係は重要である。女性の社会参画は参政権から始まっているし、男女雇用均等法、育児・介護休業法など、女性の社会進出を促進・応援する法律も制定されている。しかし、まだ女性の労働環境には厳しいものがある。これからもいっそうの社会政策が女性には必要だ−−−と考え、政策決定の背後には何があるのかを確認するために本講義を受講した。
講義の中で取り上げられたJohn W. Kingdonの"Agendas, Alternatives, and Public Policies"は大変に興味深く、そこから修士論文をまとめていく上で意識すべき事項を学ぶことができた。その中でも1)政策の窓の概念と2)政策アクティビストの存在については常に念頭においておきたいと思う。
政策の窓は様々な要因が重ならなければ開かないし、もしかしたら開かないかもしれない。では、その窓を開かせるためには、その開くタイミングを知るにはどうすればいいのか。つまり、現時点の作業を積み重ねていくだけではなく、目標の着地地点を常に見極めていることが政策形成には大切であるということだ。そのために、政策アクティビストの存在は重要になってくる。もし、アクティビストたちにアジェンダに対して偏見があったらどうなるだろうか。もちろん、窓は開かないし、そのアジェンダはゴミ缶から取り出されることがないかもしれない。
このことをジェンダー問題に置き換えると非常に分かりやすい。もし、政策形成にかかわるアクティビストが男性優位社会の思想を持っていたら−−−女性の社会参画を促進する政策は制定されない。そこで、本講義で痛感したことは、政策形成のためには人の意識形成も大切だということである。
そうした一連の政策決定の流れを、客観的に論じた文献を通して学ぶことは自分にとって大変有意義であった。政策を学ぶ大学院生には必ず受講してたいクラスである。
- 竹之下夏彦
【授業の感想】
ある社会において「何が政治的問題とされるのか」ということおよび、「ある社会における政治的意思決定」が、それぞれの社会の特殊性(文化的要因)を強く反映したものであることは、与件として抑えていました。しかし、アジェンダ・セッティングから政策成立にいたる過程については、詳しく考察したことがありませんでした。このたび、政策科学を受講したことで、多少なりともその不備を補えたと感じております。本当にありがとうございました。
【自分の専門との関連について】
日本は、権力機構を共同体の外部へと分離することで成立した国家ということが出来ましょう。これは、共同体がその構造を保持したまま国家へと変化した西欧諸国と対照的であります。そのためか、日本国民の国民性の基層には、「政治とはお上のするもの」という意識が根強く残存しているものと考えられます。現に欧米諸国と比較しても、日本国民の政治に対する関心の低さは明らかであります。
この日本社会の特徴は、政治的意思決定を、いかに社会の実情に適合したものにしてゆくかを考える上で重要な意味を持っていると考えられます。なぜなら、日本社会の特徴と、現代政治における政策過程の複雑さに鑑みれば、政治的意思決定が国民の意思および社会の実情から乖離したものになってしまう可能性が増すことは明らかだからであります。いかに、より良い合意形成を実現してゆくかを考える上で、この抗議は大きな示唆を与えてくれたと感じております。
2006年度前期メンバーによるリポート

事務所にて( )
【政策科学で学んだこと】
政策科学では、ソーシャルキャピタルについて学んだ。ソーシャルキャピタルとは、概念としては古くからあったものの、最近のブームに火をつけたのは、アメリカのロバート・パットナムの行ったイタリアでの実証研究である。
授業ではソーシャルキャピタル研究の基礎知識をロバート・パットナムが所属するSaguaro SeminarのWebPageを通して学び、ついで、猪口孝の論文を読み、日本のソーシャルキャピタルの現状を学んだ。
【自らの研究との関連】
私が修士課程で研究のテーマとしているのが、「システム論」である。システム論というとかなり多義的であるが、私の場合、実存の原理のより具体的な展開を目指しているその際問題となってくるのが、システムのダイナミックな側面をどのように説明するか、ということである。この点をこの授業で読んだ猪口孝の論文を参考にしていければ、と考えている。
猪口によれば、日本のソーシャルキャピタルの変遷は、社会機構の変遷とパラレルである。
猪口はまず、池上英子の考えを用いて日本社会の性格付けをする。それは中世初期において日本はそれまでの名誉型個人主義から名誉型集団主義への変遷が始まり、それが徳川時代に決定的なものになる。さらに、明治時代に入ると、中央集権化を狙った明治政府による“教育”により、日本における集団主義の拡大を決定づけた。ただこのような名誉や集団主義という性格は、現代においてゆっくりではあるが確実に変わりつつある、としている。
さて、戦後の繁栄を享受した日本は、それと同時にリスクを回避する志向を身につけることとなった。このような集団主義でリスク回避的な日米における他者への信頼形成の違いにあるのではないかというのが、論の流れであろう。
他国と日本の信頼形成の違いについては、よく指摘されることである。例えば、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの違いだとか、アメリカが広く開かれた信頼形成をするのに対し、日本では狭く閉じられた信頼形成をするといった、ものである。
ただ日本社会の性格は次の三つの大きな流れのなかで変わりつつある。その三つの大きな流れとは、@非政府非営利組織の劇的な増加Aポスト物質主義の価値観の流布B地域住民との社会活動、というものである。
これらの流れにより、日本社会の性格は、名誉型集団主義から、Emile Durkheimのいう協調的個人主義 cooperati-ve individualism へと変わりつつある。このような流れが日本と同様に権威主義的であったドイツが20世紀中期に辿った道を日本も辿ると予想されている。
このような日本社会の変遷の中で猪口は、小泉政策の方向性を肯定的に解釈する。つまり、小泉政策は、日本の旧来のreassurance-oriented social capitalの一連の政策を放棄し、構造改革路線を採用することは、日本社会の性格の変遷とうまく合致していると。
確かに、今まで見てきたように、日本社会の性格は変わりつつある。そのため、これまでの政策の方向性を転換することについては異論はないが、これからの社会の方向と小泉政策の方向を、ただ旧来からの転換というだけで結びつけて評価するのはあまりにも短絡的な観は否めない。
上記のような問題点はあるものの、ソーシャルキャピタルの変遷から社会の動的な側面を語ることには大きな関連がありそうである。だからこそ、私はこれらの研究が浮き彫りにしたダイナミクスの要因を視野に入れながらこれからの研究をしていきたいと思う。
2005年度後期メンバーによるリポート(at random)

授業教室にて(山田君撮影)
- 山田 太郎
【授業の感想】
ボーリング・アローンという話が面白かったです。今は働いていても対人関係が以前ほど強烈ではなくても済みますし、幸い自分のところは違いますが、「隣の席の社員とも会話しないで働いている」なんていう人達が出始めているという話を思い出しながら、他人とのコミュニケーションが不足してきているのかなと感じました。
ボーリングではありませんが、そういえば誰かと遊びに行ったりするときに、勿論誰かと何処かに遊びに行くときには誰かと一緒に行くのですけども、その前段階に、ちょっと何処に遊びに行こうかとかそういう話をあまりしなくなったような気がします。今はその前のうちに、取り敢えず携帯で連絡が取れてしまい、そこでの会話なりメールなりで合う約束や、それ以外にも、簡単な要件であれば結構携帯だけで済ませてしまうようになっているのですが、これは一体いつ頃からのことでしょうか。
コミュニケーションの為の道具として所謂IT機器が普及してきたことと、人間同士の付き合いが疎遠になってきていることについて、短絡的にこれが直結していると見なしてしまうのは危険とは思いますが、コミュニケーションの質が変容しつつあるのは間違いないことでしょう。自分は丁度携帯電話であるとかパソコンであるようなものが進化し始めたあたりから道具を使い始め、何年か前まではそれらを、周囲の人々も含めて使わないことが当たり前だったはずなのですが、今ではそういった電子機器がなければまるで仕事も出来ないですし、誰かと連絡を取ることもできないですし、それらが無くなるどころかちょこっと停電が起きただけでもあわてふためいて全く仕事にならなくなってしまいます。どこでどう変わったと明快な線引きをすることは出来ないのですが、この数年の間に、一見それらがもたらす結果、「固定電話でも携帯電話でも誰か通話ということをしている」という点では同じように見える行為が、生活の流れ全体を変化させており、この変化は、何がしらかの形で、人々のコミュニケーションを良くも悪くも変質させているのではないでしょうか。
昔は少なくとも通信には固定電話を使っていた記憶がぼんやりとあるのですが、街で見かける今の子供達は、携帯電話を結構手にしていて、彼らは物心ついたころから携帯電話で通話するのが当たり前なのだと思います。友達に電話するときには、友達がかつてなら電話に出られなかった、例えば外出中であるとか家族が別件で電話を使っているような場合にも、また時間を気にせず連絡がつけられますし、昔ならばfaxでなければ難しかった、相手の受信時間を考えない連絡も可能になっているわけです。今、二〇歳より上の人間であれば電気機械がコミュニケーションの中で特別な地位を占めていた時期をすごした経験が多かれ少なかれあるでしょうが、これからはそれが希薄な、電気機械が生活、コミュニケーションの中で常態化していた世代がふえていきます。そうなると、今度は一人でボーリングをするどころか、全くボーリングに関心を示さない、何か別のことで意思疎通を図る世代が形成されていくのではないでしょうか。
アナログ主体のコミュニケーションが中心であった我々と、そうでない、全くコミュニケーションの形が我々旧世代(?)と異なる人々というのは、自らの世代に人々に接するようにして異なった世代に触れるとき、何がしらかの齟齬をきたしてしまうのだろうかと不思議に思いました。
【自身の研究と関連するところで】
選んで頂いた、ネットワーク越しに人々の付き合い方が変わるか、また、他人と付き合う上で、人々は自らが選好する集団を基本的に選ぼうとするのだという話は、これから更に避けて通れない問題になるのではないかと思います。
可逆、不可逆で言えば、インターネット他、ネットワーク関連技術は問答無用で便利でありこれを取り払うことは、それに代替する革新的技術の出現が無ければどだい不可能なレベルまで我々を浸食しているわけですが、今現在、そしてこれからもネットワーク技術が我々におけるコミュニケーションに必要な時間をより一層短縮していく方向に無花押であろうことだけは疑いの余地がありません。
お互いの顔が見えるようになるとか、手書きで書いたことが伝わるとかいった各種の技術的革新は、それはそれで偉大だとは思いますが、それらはひとからげで、つまるところコミュニケーションの為に消費される機能であるといえましょう。東京からニューヨークにメールを送ったり、テレビ電話で通話したりといった行為は、これまででは決してありえなかったコミュニケーション行為であり、船や馬車が連絡の手段として当然であった時代からすれば劇的に高速化・正確化しているわけですけれども、実際に我々の行動というものは、変質しているようであり、変質してないものでもあります。
変質している面とは、第一に速度の面です。いうまでもなくコミュニケーションの処理にかかる時間が加速度的に短縮されたことで、我々の生活リズムは飛躍的に加速しています。加速した分豊かになっているかというとこれは疑問でありますが、何はともあれ一度電子技術がコミュニケーションの内側に根を張ると、それを無視した生活リズムは、例えおくりたくとも周囲の環境によって否応なしに変質させられてしまうわけです。
第二に多様化の面です。インターネットを通じて色々な情報が手に入れられるようになった、というのは良く言われることですが、インターネットを通すことの出来る情報の質が多様化しているのが、この側面としてあげられます。音声のまま会話したり、或いはテレビ電話を実現したり、文字のみのメールを送ったり、データベースを用意したり……と、単にコミュニケーションを図ると行っても、その手段が、コンピュータという方法の内部でさらに分岐を起こすことで、より多様な可能性を産み出しているといえるでしょう。例えば、遠隔地において、医師が患者に簡単な診察を施すようなことは、技術の進化無しには不可能でした。
逆に変質していない面とは、我々のコミュニケーションは、常に我々の意志の元にあるということです。幾ら多様なコミュニケーション手段が「産まれた」からといって、それが行使されるとは限りません。最近はあまり話題にも上りませんが、日本車に仕事を奪われた!と怒り狂っているアメリカ人の人に、「日本人と楽しくお話し出来るソフトを作りました。自動で翻訳もします」とお勧めしても、多分怒ってケーブルを引き抜かれるのが関の山でしょう。時に、結果として手段が我々の意志を変質させることもあるでしょうが、その効果は、手段が我々の意志を加速させている程度と比べてあまりに小さなように思われます。
コミュニケーションにかかる手間やコスト、敷居はどんどん引き下げられていますが、我々の中身がそれにあわせて最適化されているわけではありません。情報格差社会という言葉が叫ばれるようになって久しいですが、自分は、それよりも情報化済みの人々の合間に起きる、技術の進歩に伴わない人々の中身が産み出す軋轢の方が、意思疎通のかえっての失敗を招くのではないか、という危険を感じます。
- H.T.
【講義の感想】
大学院では、貨幣・金融論を研究テーマとしています。現在、ヨーロッパにおけるEUROの創出や地域通貨の興隆など、必ずしも一国一通貨というモデルが自明のものではないような現象が起きていますが、こうしたなかで貨幣と国家の関係性が、今後いかなる変態を遂げるのかについて関心をもっています。
さて、今回の講義ですが、Social Capitalに関する概念整理、そして、JICAで実施されているプロジェクトなどを通して、こうしたテーマが実際にどのように研究され実践されているのかを学んできました。
Social Capital 研究の第一人者、Robert David Putnamによると、「人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼や規範、ネットワークといった社会組織の特徴」と定義されるSocial Capitalですが、それらを現実に評価、測定することは、かなりの困難を伴うものと思われました。
現在、Social Capitalの測定に関しては、包括的な指標体系を構築しようと、国際機関や様々な国々で取り組みがなされているとのことですが、こうした信頼や規範といった抽象的な概念を、いかに客観的・実践的な測定手法へと変換していくのか、より一層の分析手法の精緻化が求められていると思われます。
また、実際の事例として触れたマイクロ・ファイナンスに関してですが、金融資本へのアクセスが困難である貧困層への融資を可能としたこうした制度は、地域通貨のように、より住民に身近なコミュニティレベルにおける新たな活性化の手法として、その経済的側面とともに、社会的側面も注目されるものだと思われます。
【自分の研究との関連】
以上のような講義で学んだことと、研究テーマの関連でいいますと、貨幣はよく、社会的紐帯の象徴だとか、凝集性をもたらすものであるといわれ、評価指標としての機能を果たしていますが、現在では、人間生活を測定する指標として必ずしも、貨幣評価が全てではなくなっていると思われます。そうした人間生活の貨幣評価がなされない側面に関して検討していくためにはSocial Capital研究は有効な分析手法であると思われました。 また、ある貨幣・金融制度が一定の社会やコミュニティで機能していくためには、まさしく、Social Capital研究でなされているように、その制度に対する人々の「信認」が存在するかどうかにかかっていると考えられます。本講義で学んだことは、研究テーマを探求するうえで有意義な議論だったと思います。
最後に、こうした議論を通して、規範的・理念的な模索とともに、それらをいかに社会改良に結び付けていくことが重要なのかを学ばせていただきました。ありがとうございました。
- 深沢 淳子
【修士論文テーマ】
修士論文のテーマは「外部委託と雇用の変化―公共図書館の事例−」である。
中曽根内閣から行政改革が行われ、JRやNTTなどの公社が完全民営化されたことは随分昔の話になるが、今回の小泉内閣でも構造改革として公共部門の民営化が提案され、市場化テストなどこれまで行政が実施してきたサービスを企業に開放する試みが続いている。
この改革により地方自治体も公的サービスを外部に委託する事例が増えた。保育園や介護施設などの外部委託はかなり進み、既に論文にまとめられている事例もあるが、公共図書館を扱った論文はほとんど見当たらない。外部委託が進んでいる公的部門は女性の多い職場であり、最も公務員の削減が進んでいる部門でもある。
私の専攻はジェンダー論であり、現在全国的に活発に外部委託が進んでいる公共図書館に焦点を当てて、男女別に雇用の変化について調査することにした。
【講義との関連性】
公的サービスを外部委託すること自体、特に否定するつもりはない。しかし、委託したことによるデメリットに仕事の蓄積効果の減少がよく言われる。保育園や図書館の職員はほぼ全員パートタイムに切り替わり、地域・住民とのつながりは短期間で消滅することが殆どである。
地方自治特有の地域性・社会性の維持という点では、何かしら代替施策を講じなければ人的・社会的資本を構築し、安全な社会を維持することは困難であるように予想される。小さな政府といっても予算規模の話であり、従来からの社会の連携まで小さくすることは大きな社会的損失ではないのか? この疑問が出発点となりこの講義を受講した次第である。
社会的資本と行政との関わりが私の主な関心事である。法治国家として行政が担うべき社会的資本の構築・維持が何であるのか、民間部門が担うべき社会的資本とは何なのか?その線引きが明確になることはないと思われるが、好影響をもたらす社会資本が存在すること、それなくして社会の健全な発展は困難であること、は認識できた。
新たな認識を得られた政策科学研究を受講できたことを深く感謝申し上げます。
- 宮本 泰輔
前期に引き続き、政策科学を受講した。後期はソーシャルキャピタルについて学んだが、特に、開発との関係についてJICAの文献に接することが出来たのはありがたかった。
【修士論文のテーマ】
修士論文研究のテーマとしては、社会的弱者と呼ばれる人々へグローバル化がどのような影響を及ぼすかを見ていくことを中心に据えている。
97年からのアジア経済危機において顕在化した、これらの人々へのグローバル化のネガティブインパクトはどのように避けられるか。特に自分の関心分野として障害者へのインパクトを考えていきたいと思っている。こうした問題を考えていく上では、大きな国レベルでの開発戦略がどうあるべきか(あるいは経済成長のパターンはどうあるべきか)という議論と、特にマイナスの影響を被りやすい層にターゲットを当てた直接手当てはどうあるべきかという2つの議論が交錯する。
【ソーシャルキャピタルの意義】
この議論でいうと、ソーシャルキャピタルは、どちらかといえば、直接手当てがどのように貧困層に有効に届くのかを考えていく上で有用な資源として捉えられるであろう。
特に、行政と住民組織との間のシナジーの構築は、住民組織の強化と同時に行政組織の変革を求めている点で重要である。この授業では、JICAの「タカラール・モデル」に関する文献を発表する機会を得た。
シナジー形成に至るまでに必要なアクターとさまざまなソーシャルキャピタルがうまく組み合わされたモデルであり、自分にはソーシャルキャピタルを理解するうえでわかりやすい事例であったと感じた。しかし、一方で、形成されたソーシャルキャピタルをどう評価するのか、どう計測するのかについては、その定義の広がりも含めて、私の中では疑問が氷解したとは言いがたい。
今後の研究の中でこうしたソーシャルキャピタルの概念がどの程度生かされるかは、まだはっきりしていないが、この10年ほど開発の分野で「流行り」の感もあるエンパワメント同様、ネガティブインパクトを克服する上で、ソーシャルキャピタルが重要なキーワードであることは間違いない。
2005年度前期メンバーによるリポート(名簿順)

授業教室にて(山田君撮影)
- 阿部 絵里子
【修士論文テーマ】
修士論文のテーマは「民が担う公共」である。まだ漠然としたテーマではあるが、NPOやNGOの登場とその役割について、歴史的背景を調べつつ日本を中心に研究していく。
その際には「公」「官」「民」「私」「公共」をキーワードとする。自分なりにそれぞれの言葉の意味を定義しながら、市民社会の将来展望を検討したい。
現在の日本は旧来からのシステムが崩れ、社会が根底からかつ短期間で変容している。
その現れが生活保護受給世帯や低・無貯蓄世帯の増加であり、ニートやフリータの存在であり、止まらない自殺や少子高齢化などである。
さらに視野を広げると、争いや貧困、人権や環境など、地球規模で取り組むべき問題が山積している。NPOやNGOはこれら社会変容がもたらす国内の影響や国際的な諸問題に対して活動する、「公」と「私」の中間に位置する集団であり、歴史的な「公=官」の思想に変革をもたらした存在である。
これらを研究する事はこれからの日本の社会のあり方を研究する事とほぼ同義であり、不安定な現在において意義があるものと考えている。
【講義で学んだことの関連】
理論と実践の両方をおろそかにしてはならないという信条をもっており、政策に関する講義を受講しようと決めたのは自然の流れだった。研究では「公共哲学」という概念から着手したのだが、そのテキストに「公共哲学」が取るべきアプローチが挙げられている。
それは、理想と現実を分析の後、「実現可能性の熟慮」するということである。これが、今回の講義で学んだ事と関るところである。
今期はKingdonの政策の窓モデルを中心に学んだ。NPOやNGOはアドボカシー活動も期待されることから、政策の窓モデルの、アジェンダの設定と政策案の生成・特定化のプロセスの説明は、これからの研究に示唆を与えてくれるもであった。
注目されるアジェンダが特定のものだけで他は無視される事、また政策の窓が開かれる期間はわずかである事はつまり、提言が必ずしも早期に、確実に、実現するとは限らないという事である。
では、市民社会のアドボカシー活動が有効になるのはどのような場合か。
研究がまだ絞り込めておらず関連を具体的に記す事が出来なかったが、市民社会の活動を捉える上で講義終了後も復習と更なる知識が必要になるところと思う。また、このモデルは研究に限らず、これからもし何か実務をしていくとしても、一つの考え方として有意義と感じた。
最後に、半期という短い期間ではありましたが、ご指導いただきありがとうございました。
- 山田 太郎
【修士論文のテーマ】
自分はコンピュータのユーザインターフェイスに関心を抱き、これをきっかけにインターフェースについて調査しております。
インターフェースという単語は、例えばキーボードや画面に表示されるアイコンなどで多用される言葉ではありますけれども、いざこれがどのようなものかということについて、となると、なかなかわかりにくく、また、それらのユーザインターフェースを内包する「インターフェース」とはそもそも何であるか、またそれがどのような役割を、どのようにして果たすのかということについて考えております。
インターフェースというものは、いってみれば1と0の間にある数のようなもので、0.5の皮のようなものといいかえることができるでしょうか。0と1の間には1の厚みがあると言えます。
ここで、0に0.1足せば0.1の分1に近づきますし、1から0.1引けば0に0.1近づく訳ですが、では0.5というものの数値に厚みはあるのかというと、これは厚みが無いと考えられています。 インターフェースというのもこの厚みの無い厚さのようなもので、我々がキーボードを操作する時に、果たして何処までが我々の意識の端末なのか、またどこからが機械の機能であるのかというのは突き詰めて考えていくと非常にあやふやなものでしかありません。
このあやふやさの中で我々は例えば有る品物を「使いやすい」と感じたり、また同じ品物でも場合によっては「使いにくい」と感じたりします。一般に言われるインターフェースというものは主にコンピュータに関連したところでいわれるものですが、我々の身の回りに好むと好まざるとに関わらず紛れ込んでいるインターフェースを洗い出し、それが我々にどのような影響を与えるかについて考察していきます。
【講義との関連性】
インターフェースを前にするとき、我々にあるのは「好きなものを選ぶ自由」では無く、「好まないものを選ばない自由」があるだけと言うことが出来ます。
東京からニューヨークへテレポートしたいと考えるのは誰でも出来ますが、大体の人間はテレポートだとか瞬間移動のようなことは出来ませんから、飛行機、旅行会社という選択肢などを選好していくことで自分にとって、例えば予算の制約であるとか慣れ親しんでいる為に扱いやすいとかいった要因を勘案していくなかで、自分にとって都合の悪いインターフェースの可能性を処分していると言えます。
意志決定過程のお話の中であった「誰かの意見を摺り合わせることが大事なのだ」という考え方は、このインターフェースの可能性が、外部からの圧力に応じて可変的なものであることを示唆していると考えました。
我々は、手元にある千円の使い道を、例えばテレビで可哀相な貧しい人々の番組がやっていた翌日には募金したり、友達に誘われれば映画を見に行ったり、先輩がお勧めしてくれたオヤツを買ってみたりすることに使うわけですが、これを突き詰めると、究極的には我々固有の意志というものは外部概念の摺り合わせに過ぎないのではないかと仮定することが出来ないでしょうか。
我々は多くのことを「知って」いるような気になっていますが、その圧倒的大多数は、それが誘発した要因を含めるならば全てが、外部からの入力によるものです。
この文章を書くとき自分は「書いている」つもりになっていますが、実際には、ここに並んでいる全ての単語、文法、キーボードを叩くという行為、パソコンの使い方……等などは、これまで自分が生まれてから入力されてきた外部からの刺激を反映しているものに過ぎません。
風が吹けば桶屋が儲かるということではありませんけれども、もしも自分がこの前の地震の日に歩いて自宅に帰ることを選択せず電車をまっていたらこの文章は書けなかったかもしれませんし、或いはもっと良いものがかけていたかもしれませんが、我々にとって意志決定というのは「どれを選ばないことを選ぶ」ことであり、その根幹には他人の干渉が常につきまとわざるを得ないものだと感じました。
- 針貝 有佳
【修士論文テーマ】
日本における少子・高齢化対策の一つとしての次世代育成に注目する。
特に、子どもを産める身体をもち、産むことを望みながら、キャリア継続との関係で理想子ども数を産むことを断念した女性に焦点を合わせる。そして、キャリアの継続をしながら理想子ども数を産み育てている女性と比較しつつ、出産育児期におけるキャリア継続の条件を探る。さらに、この問題に関する官・民の取り組みの濃度差についても明らかにしていく。
なお、論理展開の過程で不本意な死についても言及したい。
不本意な死とは、病気・災害・交通事故などの外的な要因による死、人工中絶などの人為的な要因による死、そして精神的に追いつめられて自ら命を絶たざるを得なかった結果としての死を含む。
なぜなら、不本意な死に方をする人びとの存在に目を瞑りながら、新たな生命の誕生を推進するというのは市民生活の成熟化を目指す社会の姿勢として大きな論理矛盾を孕むように思われるからである。
生命の誕生を促進するのであれば、誕生した生命を支える社会的土壌を形成していく努力をする必要があるのではないだろうか。
【講義で学んだことのとの関連】
ある事柄が「問題」として認識されるようになり、活動家が動きはじめ、政府が政策対応に乗りだすまで・・・この流れは予測可能なものではない。
突然なぜかはわからないが、問題は問題として認識されるようになり、政策実現のチャンスが舞い込んでくる。だが、そのチャンスは一瞬に過ぎず、それを逃すと二度と政策決定は行われないかもしれない。こんな微妙な緊張感のなかで政策は形成される。講義で学んだことだ。
一人の人間の未来は予測できない。一人一人が集合した人間社会の未来もまた予測できない。偶然に突き動かされることも大きい。政策決定の流れが予測できないのも、そんな理由からだろうか。こんなにも科学が発達しているのに、なお「偶然」に支配されている私たち・・・。「社会科学」研究科で、そんなことを考えていた。
「偶然」が政策さえも左右してしまうのであれば、何のための研究だろう。何のための活動だろう。そんな思いもあった。だが、「偶然」を引き起こすものは何かを考えてみると、そこにはやはり人間の意志があるように思える。そして、研究者もまたその意志の担い手になる大きな可能性を秘めているのではないだろうか。
現在、大きく取り上げられている問題の一つに少子・高齢化がある。そのための対策の一つとして次世代育成の必要性が強調されている。ならば、次世代育成政策というアジェンダ上の項目に結び付けて、未だアジェンダに乗っていない項目をアジェンダ上に引き上げることもできるのではないか。そう考えた。
出産育児期におけるキャリア継続の条件を探ること、この問題に関する官民の取り組みの濃度差を明らかにすること、そして社会における生命(いのち)のあり方を分析すること、これらを次世代育成政策の一環として研究しようと思った。政策提言にも、研究にも、《旬》があるように思われる。
講義で学んだことは知識で終わったら意義をもたない。私自身がその知識を実践に活かしていくことで意義になるであろう。
- 松元 孝義
【修士論文のテーマ】
私の修士論文のテーマは、「国際経営おける後発日本企業の優位性」−ある日本企業の事例をもとにーです。
国際市場への進出に際しては、その企業スタイル、又は、その所属する業界で、それぞれ企業理念と行動性において違いがあると考えられるが、国際市場への進出方法は、「直接投資」、「国際提携」、「合弁会社設立」等の手段の中で、進出する会社としてどのスタイルを選択するかである。
その選択に際しては、国際市場の現状と進出しようと試みている会社の資本力および業界での優位性等が基本的に重要な意思決定へと繋がっていくのではと考えます。
国際市場への進出は、必然のごとくその進出国の文化、政治、法律等に左右される高いリスクを伴うことを考慮に入れなければならないであろう。しかしながら、営利を目的として企業活動を遂行している以上、そのリスクを克服し、或いは、味方につけるような経営のマネジメントが要求されるのではと考えます。
実際に、国際市場での競争の中でビジネスをする一人として、実戦と理論を組み合わせることは難解かもしれませんが、後発日本企業が先行する外資系企業といかにして互角に渡り合えることができるのか。日本企業としての優位性をいかにして構築するべきなのか。
このテーマの糸口又は、目安に一歩でも近づけたいと考えています。
【講義との関連性】
講義では、John W. Kingdon “Agenda, Alternatives, and Public Policies”を担当者によって輪読したが、その政策(提言)過程に着目し、アプローチとはどんなものか。どういう意味合いがあるのか。前政策が何故決定されたのか。その形成ー決定ー実行にいたる過程において、その形成の前段階として三つのモデルがあることを学んだ。
その政策決定に際して、その流れの中で、問題とは何か、政治の駆け引き等、アジェンダと政治状況との関係、その問題を明らかにすることが大事である事も学ぶことができました。 全ては、政治の世界ではあるが、実社会の中で、所属する会社において、事業計画書を作成し、その実行に結びつける際、当然のごとく社内においての事前の調整、報告、理解を求めることは重要な行動となる。
その流れにおいては、政治とは違う世界ではあるが、その承認、通過においては共通点があると感じました。また、海外進出においても、その進出国の政治スタイルも考慮にいれる重要な項目であると認識することも出来ました。
初めて学ぶ学問で新鮮に受け入れることが出来ました。前期だけではありましたが、ご指導有難うございました。
- 宮本
【修士論文のテーマ】
まず、自らの研究テーマとの関係性だが、テーマを「障害者の貧困削減」という漠然なものとしたまま、1年目の前期を終えた。
自分の中では、「こうあるべきではないか」という「思い」あるいは「目指したい解」は持ち合わせているのだが、それを経済学のフレームワークの中でうまく問題を見つけ切れていないのに気づかされる。 修士論文のテーマとではなく、自分の修士論文の現状と重ね合わせると、まさに「解を持って問題を探している、問題の窓が開くのを待っている様子」そのものである。
【講義との関連性】
それはさておき、以下、この授業で学んだKingdonのモデルについて自分なりの感想を述べたい。
このモデルはアメリカの政治情勢を基本にして作成されている。具体的に当てはめようと考えたときには、ステークホルダー(このモデルではparticipantとされている)のありようについてより詳細に見ていく必要があるように思える。
マスメディアを例にとろう。
メディアは政府・国会周辺の参加者であることは間違いない。しかし、メディアは政府・国会から完全に独立した存在ではない。有力な政治家は「番記者」を抱え、各省庁には「記者クラブ」が置かれている。有力なマスメディアは市民団体からの意見提起を掲載するにあたっては、これらのアンテナから収集した情報も加味し、ときには取捨選択をする。市民団体が推進しようとしているアジェンダが政府の利害と相違点がある場合、メディアは市民団体からの問題提起と記者クラブにおいて行われる省庁からのレクチャーとの比較を行う。その際に記者クラブにおけるマスメディアと省庁との力関係はどう反映されるのだろうか。
アメリカと日本の政治風土の違いとして政治家個人への政党の影響力の差がある。
日本では、政党の指示と異なる議会での投票行動は厳に戒められているのが常である。議員個人の政策決定全体に及ぼしうる影響力はもちろん否定しないが、それ以上に政党の政務調査会の決定にどの程度影響力を及ぼしうるかを考慮した方が議員の力を分析する上では重要であろう。とにかくよほどのことがない限り、議員個人が所属政党の決定に反した投票行動を行うことはありえない。
また、ひとつの政策選択肢(解)を巡って、参加者によって想定しているアジェンダが異なる場合が考えられる。
たとえば公的介護保険であるが、財務省にとっては、国家財政の逼迫(サービス存続可能な予算配分)が問題となろうし、厚生労働省にとっては公平な介助サービス提供(サービス供給範囲の普遍化)が問題となろう。しかし、利用者を中心とした一般市民からすれば、質の高い介助サービス提供(保険料を支払うに納得のいくサービス)が生活実感からもたらされる問題であろう。同じ「公的介護保険の導入」という政策選択肢を巡って、実はアジェンダは一致していないのではないか。そして、5年後の見直し時に、介護保険財政の赤字が明らかになった時にこのアジェンダのずれは白日の下にさらされた。
この場合は、実は各々の参加者が異なる解を持ちよったにもかかわらず、高齢化社会の到来という不安感の一致によって窓が開いた瞬間に、解を一致させようという試みがあったのではないか。
Kingdonの提示したモデルは、大変私にとって興味深いものであった。と同時に、自らの研究テーマや日常的に起こる事象について考えるのに適用するに際しては、その適用したい場所の固有の事情を踏まえて、参加者(ステークホルダー)の分析を改めて行ってみる必要があるように思えた。
2004年度メンバーによる講義感想リポート(名簿順)

授業教室にて。
- 須藤 歩
私は、日本における外国人の法的な地位(権利)をもとに、出入国管理行政のありかたについて研究している。
出入国管理行政は、国の政策的性格を持つことから行政の裁量権が広範に認められやすい領域と言われ続けた。よって当然として事後的な司法統制を排除し、立法統制のみを事前的に受けてきた。
そのような状況は80年代頃より少しずつ国際基準が見直された結果変化し、次第に外国人の人権に配慮した判例を積み重ね、その法的な地位が認められるようになった。またそれに伴い出入国管理行政の裁量権のあり方にも限界が問われるようになった。
しかし行政の適正手続きを規定した「行政手続法」において出入国管理行政が適用除外項目となるなど、公正な行政手続を保障する枠組みはできていない。どのように外国人の地位を守る行政手続が実施されるべきか、を事後的な法律・判例解釈を方法として、行政に対する法適用のあり方を研究することが現在の研究領域である。
ところで、本講義においては、政治的な思惑をもったActorが政策を選択するという前提のもと、スウェーデンとアメリカにおける「大気汚染浄化政策」の政策過程を取り上げた。
同じ環境汚染問題であり、似たような時代・物理的環境にあった2つの国がどのように異なった政策を選択・修正していくか、科学技術的・社会経済的な要因に優先した政治的要因の作用について検証した。
政策選択過程を一つ一つ解きほぐしていくと、国の方向性が見えてくる。
私が研究するのは、特に「誰もが公正と認める」出入国管理行政である。そのコンセプトは大変相対的・恣意的になりがちである。なぜなら行き過ぎて外国人に寛大な出入国管理行政は国の主権を脅かすことにもなりかねないからである。
ここには誰かにとって利益であることは他の誰かにとって不利益であるという状況を常にはらんでいる。一方、時代環境や利益団体の意思を反映する政治的な選択も恣意的であり、全ての民意を反映することにも限界がある。しかしそれでも日本の政策過程が立法府と行政府のみに集中した政策選択権限を与えられている状況を反省し、できあがった法律に対してだけでなく、その選択過程に注目することは、国民の立法に対する統制を実現する重要な鍵である。
講義を終え、私はスターティングポイントに立ったと認識する。
当初は政治的な作用を確認していくことに対し、今後の変容を分析する効果があるのか疑問をもっていた。
しかし、結局は、足元を見ずに前に進むことができないのと同じであり、今後は法律制定過程における政治的判断を、法的根拠としての正当性とみなす観点で行政のあり方を問うという取り組みを、新たに始めようと考える。
結論として、講義の感想としては、研究領域はある一分野からのみ語られることは決してないのだ、という自分の従来の考えを裏付けることにもなった。
- 文村 権彦
私は、市民のニーズを吸収し現実の政策のなかに実現させていく手法について研究している。
【before】
『社会科学研究科 政策科学論専攻』
社会科学研究科の合格通知をみて親が言った。「政策科学ってどんな学問?」と。
言った本人としては何気ない質問だったのだろうが、私はその質問にギクッとした。 なぜなら、私自身が政策科学についてよくわからなかったからだ。
せめて人から「どんなことをやっているの?」ときかれたら、それに対してしっかりと答えられるようになりたいと思った。
【after】
政策科学とは一言でいえば「政策を科学する」ということである。
今年、使ったテキストはLennart J. Lundqvist著The hare and the tortoise。
アメリカとスウェーデンにおける『大気汚染防止政策』をとりあげ、なぜ両国で異なる経過をたどったかについて論じられている。
この論文でいっていることは政策形成をとりまく状況次第で政策そのものが変化するということである。
例えばアメリカは大統領制のため、議会における野党は比較的自由な発言を行うことができる。
しかしスウェーデンでは議院内閣制のため、議会における野党はあまり自由な発言を行うことを好まない。
なぜならば議院内閣制の場合、政権交代がおきて野党が与党になると、今度は自分たちが野党時代に主張していたことを実行しなくてはならなくなるからだ。
こういった事情が結果として、政策の規模や実施スピードに影響してくる・・・みたいな分析をひとつひとつ解きほぐすようにしているのが本論文である。
「政策」というとなんだか洗練されたかっこよさを感じる。
しかし、実際には複雑な糸がからあって形成されるものであり、政策科学はそういった糸をひとつひとつ解きほぐして分析・統合していく地道な作業だ。
その分析・統合手法があまりにも広範にわたり、かつ緻密さを求められているゆえに「科学」という言葉がつけられたのではなかろうか。
【政策科学論で学んだことと私の研究について】
「政策形成の際にpolicy makerにもっとも強い影響を与えるのは何なのであろうか」という問題設定の元で、影響要因として市民・経済事情・政治的バランス・公衆衛生など多様な視点から分析していく Lennart に学んだことは多い。
私自身は政策形成にもっとも影響を与えるものはニーズであるという仮定のもとで研究を進めているので、この講義を受けてすこし気持ちが揺らぎそうになった。
時間の関係上、どうしてもあきらめなくてはいけないので Lennartの行ったような各要因に対する緻密な検討はできずに終わりそうだが、時間があればいずれしてみたいと思った。
【ps.】
正月、実家に帰省した。
勢い勇んで政策科学っていうのはこういうものなんだ、と教えてあげるつもりだったが、そのことについて何もきいてこなかったので何もいわずにおいた。
たぶん、約1年前に自分がした質問を忘れているのだと思う。
両親に「どう?2年で卒業できそう?」とはきかれたが。「無理かも。」と答えておいた。
親にとっては政策科学云々よりもちゃんと卒業できるかどうかのほうが重要らしい。
2003年度メンバーによる講義感想リポート(名簿順)

担任は後列、撮影者はLisaさん
- Lisa Simpson (匿名)
政策科学と自身の研究領域の関連性を問う:
『政策科学』の講義と、自分自身の研究との関連性について問う、という課題であるが、正直、当初講義が始まったばかりの頃は、研究領域とまるっきり重なっていない気がして、これは履修科目の選択ミスだったのではないか、と危惧したりした。
おそらく修士1年目は、大体やりたいことが決まっていたとしても、構想ばかりが大きくテーマは絞れていないといった状態が往々にしてあるが、その顕著な例でもある自分自身が、研究領域と直結していない「政策科学」の講義によって得たものは(意外にも)大きい。
我々は、いわゆるグローバリゼーションと言われる歴史的変動の渦中を生きている。さまざまに入り組んだ網の目の中で生活を営んでいて、あらゆる現象は大きな連関性を有している。
「政策」が誕生し実施されるまで、それは「政治」といった領域に限定されて生じるものなのではない。もちろん、「政治」も挙げられるのではあるが、「経済」や「社会」、「技術」ときには「文化」といった、決して"たったひとつ"ではありえない様々な領域との関連付けによって生起するものなのである。
もしも「政策」による成果が思うように上がらなかったとしても、もしくは、それに伴う弊害が生じたとしても、当然のことながら、「一義的な理由」に起因するといったことはありえない。
政治的空間の公共性を支える様々な理念や思想、歴史的動向や哲学的要因から、政策の文脈的背景に迫っていくことは、現在の急激な変容を遂げつづける社会を前にして、提起すべき「政策」とは一体何であるのか…を再考させてくれる機会となった。と同時に、それは、「問題視する」という最も基本的な視座の重要性をも再確認することに繋がった。
時として、「アトミックな個人性」と「社会やコミュニティの中での個人性」は両立し得ない属性を伴っていると思うが、だからといって個人の属性を、実践的・経験的な生活世界から完全に切り離して考えることも適当ではない。
現在のワレワレは、歴史的・文化的な背景を内在していて、現在の公共社会もまた、自己にとっては所与の対象でありながら、自己の社会化にとって必要欠くべからざるモノで、歴史的・文化的構成物であるという事実からは、決して切り離すことは出来ない。つまり、「政策」への今日的課題を問う場合、その社会や共同体・国家の歴史的・文化的な背景への配慮を忘れて進めていくことは、不可能なのである。
問題そのものへの分析や、政策過程における分析/プロセスへの着目など、注目すべき点が明らかにされることにより、政策分析に、ただひとつの定義が存在するということはありえないと確信できたし、またEaston によって言明された、公共政策を構成している「網の目のような決定事項」といった複雑さを克服するには、唯一の理論やモデルを用いてのぞむといったことが適切ではないと知ることが出来た。
また実証主義的なアプローチとして、「メディアの問題の立て方」や「社会問題が認識されていくプロセス」が挙げられていた。それらが社会的に構築されていると考えるのなら、その方法や過程にまで分析が要請されることになる。
私自身が最も疑問に思ったことは、まず「何を以って"客観的な事実"と捉え得るのか」という点であった。加えて、問題の設定そのものが曖昧な場合、公共政策と世論の相互作用が存在したとしても、大きな成果を望むことの難しさが挙げられていたが、そういった点から考えても「客観的な事実」に対する認識が問われているのだと感じた。
現代社会における公共性の問題は、「デモクラシー」という万能の神話が、その地位を危うくしたことに起因していると考える。かつては「行政」に対し、民主的な妥当性(もしくは「正当性」と言ったほうが適切かもしれない)を、誰もが共有していたように感じる。だが「数の原理」が、そもそもの政治空間への関与の棄権を行使する多くの「市民」によって、ある意味、その当然の帰結として、「公共性」の概念に対する認識が変容の一途を辿らざるをえなくなってしまった。つまり政策の決定に対し、「確かに正しいことが行なわれている」という意識は、保証されえなくなってしまった。
現代の「公共圏」の問題を問うのなら、なぜそのような変化が起こったのか…の詳しい背景を明らかにし、そして再度、これからの時代に採用されるべき公共性の概念とはいかなるものであるのかを模索することも、課題のひとつではないか。「新たな公共概念」、つまり「公共性の脱構築」が要請されていると言っても過言ではない。
「公共政策」が、公共的な社会の「合意形成」の上に成り立たず、行政によって施行されているといった側面を強調して解釈するのであれば、ある問いがコンセンサスに達するか否かということ=共通の基盤を見出すこと、そして、それを継続して省察するといった時間制を伴う対応が、喫緊の課題としてたち現れてくるのではなかろうか。
ワレワレが、自らを生きる公共世界の歴史的背景=過去、そして現在を洞察することによって、実践的な課題や理論は、積極性を伴ってワレワレの未来に投企されなくてはならない。「政策研究」そのものに課せられた課題は、限りなく大きく重いモノなのである。
- 及川健二
◆地球環境問題のフレーム 〜公害の時代から地球環境問題へ〜
日本は経済成長期にあっては、"公害の時代"にあった。
水俣病や大気汚染など、企業が環境対策をとらない故に問題が数々、生じた。人体に有害な影響を与える物質をとりしまったり、汚染ガスを削減するための環境規制が、今日まで整備されていっている。1960年代に叫ばれたほどには、公害は強調されない。
そして、1990年代以降、地球環境問題が顕在化した。地球を無限でなく、有限な一つの生命システムとして捉える視点から、危機が指摘されるようになった。そして、必然的に地球規模で環境対策をとる必要性に目が向けられた。日本が国内に置いて厳しい環境規制を敷き、有害物質の削減や森林保全に成功したとしても、他の国がその成果を相殺するほどに、汚染ガスを大気にばらまき、汚染物質を川や海に垂れ流し、森林伐採を強行すれば、長期的かつ大局的にみれば、日本にも害悪を及ぼすことになる。各々国が単独で取り組むのでなく、協調して環境問題に取り組もうとする理由は、ここにある。
ワールドウォッチ研究所の前所長レスター・ブラウンは地球環境危機の原因を、経済と地球の自然システムとの衝突に求める。衝突の証拠として、漁場の崩壊、森林減少、土壌浸食、放牧地の劣化、砂漠化、二酸化炭素濃度の上昇、地位水位の低下、気温上昇、より破壊的な暴風雨、氷河の融解、海面上昇、サンゴ礁の死滅、生物種の消失などをあげている。経済成長が世界規模で続くにつれ、環境に負荷がかかり、成長による社会的便益を相殺する社会的損失が生じる。そして、そのような危機的な未来の到来を阻止するために、環境的に持続可能な経済、即ち"エコエコノミー"の実現が必要とされる。【レスター・ブラウン[2002]】以上が、ブラウンの基本的な議論である。
ブラウンの視点は、経済の理論的枠組み(frameweork)の変化を示唆している。フロンティアが無限に拡がっているという前提に立って、経済システムの外部環境を「公共財」と捉える視点から、誰かが取れば誰かが失う「共有財(コモンズ)」として捉える視点への移行がはかられている。つまり、「成長の限界」が、環境問題を語る前提となっている。
◆環境で利潤損失か、利潤追求か
さて、ではこの前提は企業にどのような影響を与えるのであろうか。
企業は利潤最大化原理に依って、運営される。収益を上昇させるか費用を低下させるかして、その差額の増大化をはかることが、利潤を最大化するための企業の手段である。そして、利潤最大化を目的とした企業同士が競争することにより、産業社会と市場経済は成り立つ。企業間競争は利潤最大化原理とその利潤による再投資化による生産力の増強と費用の低下の徹底化を通して遂行される。
この最大利潤化原理のもとでは、環境問題に企業が取り組まないことが、理に適っているという見方が根強い。生産工程において汚染物質の削減・消失を出さないために投資することは、社会的な便益につながりはすれ、企業の利益にはならない。なぜならば、汚染物質削減などの環境対策は往々にして、費用の上昇につながるからだ。
しかし、果たして、環境に取り組むことが企業の競争優位(competitive advantage)の剥奪になるのであろうか。私はあえて、「地球環境問題に取り組む多国籍企業は、競争優位をえられる」という仮説をたて、それを修士論文で実証したいと考えている。
まず、はじめに、「地球環境問題に取り組む」ことを定義づけしなければならない。産業連関の議論を受け、私は「地球環境問題に取り組む」企業の定義として、@二酸化炭素の削減 A汚染物質の削減 に成功した企業と位置づける。
では、「環境問題に取り組む」ことによって得られる競争優位(=これをマイケル・ポーターに倣ってgreen advantage、緑の優位性と名付けたい)として、どのようなものが考えられるであろうか。先行研究として、マイケル・ポーターがいる。ポーターは、次のように議論した【Porter, E. Micahel and Claas van der Linde.[1995b]】。
往々にして環境規制を順守するためにはコストがかかり、自国企業の国際競争力を殺ぐと考えられてきた。しかし、ポーターによれば、適切に設計された環境基準は、その基準に従うことによるコストを部分的に、あるいは、それ以上に相殺できるだけの技術革新をおこす引き金になりうると、指摘する。"技術革新による相殺効果"(=innovation offset)は、環境基準の存在しない外国企業に比べて、絶対的な優位性をもたらしうる。その理由として、汚染物質を減らすことはしばし、資源の有効利用と一致する傾向を挙げている。そして、ポーターは実際には、技術革新をもたらすことで、厳しい環境規制は競争力を高められると結論づける。
要約すれば、ポーターいうところの緑の優位性は、技術革新による資源の有効利用に、限定している。しかし、次のような疑問が生じる。
@:資源の有効利用がおきえない環境対策も、企業に競争優位性を与えるのか。
A:資源の有効利用によるコスト削減の他には、優位性を与え得ないのか。
@の問題について検討すれば、資源の有効利用によるコスト削減以外に発生する緑の優位性は、次のような要因によってもたらされるであろう。思いつくままに列挙すると、
@:グリーン・コンシューマー
A:環境規制
@は、「環境にやさしい」商品・企業は消費者に支持される。だから、企業に優位性を与えうる、といえる。Aについていうと、ある国が環境規制を実施し、それが別の国々の先取りになるのであれば、当該国企業は環境規制をクリアできる経営資源を他国企業に比べて早く、獲得できる可能性が高く、先行者利得をえられよう。
◆政策科学と研究テーマ
私の研究テーマに、「政策科学」講義は次の一点で、重要な示唆を与えてくれた。
つまり、どのような政策が環境に適するのか・・・ということである。その問題を処理するためのフレームワークを政策科学で学べた。大いに、修士論文に活かしたいと思う。
- 大窪高明
修士論文テーマはシュンペーター研究です。”体系”を残した経済学最後の巨人と向き合い社会科学的な分析力や把握力、応用力を身につけるのが目的です。シュンペーターが残した仕事は多岐に経済政策、経済学史、純粋経済学など広範にわたるのでそのなかからどこかを選んで読み込み、その当時から現在に至るまでの文脈と現在における意義を考えることが論文の中で行えればと考えています。
経済政策は突き詰めればケインズのハーヴェイロードの前提と合成の誤謬の概念と、ハイエクによる自由主義概念の対立関係にあるとされます。
政策科学の授業で学んだことはその二つが本当に妥当なものであるのかを問いただす道筋です。官僚の独立は本当にありうるのか。価値自由は達成可能なのか。もしその二つがなりたたないとするならば理由はどこに求めるべきなのか。政策共同体なのか、ユング的な無意識なのか。それらのカテゴリーは共同体を喪失した現代においても成り立つものなのか。
ハーヴェイロードの前提一つを取り上げたとしてもこれだけ多くの選択肢が生じます。さらにそれらを選択し視座を確定させることが正しいことなのかさえも問われるのだと思います。
無理矢理ですが昨今話題の自衛隊派遣を考えると、その是非を問うとともにより代替的な政策提案もありえるというような考え方もあり得るのではないか、そしてなぜそれが議論のテーブルに登らなかったのか。それを考えるのには政策決定の過程に関する認識というのは大きな役割を果たします。
たとえば、援助であることを示すために迷彩服を着用しないことを義務づけることを法制化するといった肯定派否定派問わず議論のできる要素が存在できたのではないか。肯定するにしろしないにしろある程度の意義を持つことのできる提案だと思います。それがなぜ議論されなかったのか。その原因は政治制度にそぐわなかったからかもしれませんし、国民性がそのような発想を許さなかったのかもしれません。
制度から精神性にまで縦横にそれが発生しなかった原因が求められます。さらにそれによる未来の変化も押し寄せるとともに、過去のとらえ直しも必然的に起こります。
それらをどのように定式化し、認識の範囲内に置くことができるかがよりよい政策提議のために必要になると思います。
私個人としてはなぜそのような発想が(自分も含めて)出てこなかったのかが非常に気になります。自分でも知らないうちになんらかの政策コミュニティに属していたのでしょうか。
シュンペーターが提示するのも、より思想的、構造的な世界のあり方だと思います。経済学は一元的に物をとらえるようにし向ける傾向があります。それに対抗するのが戦後の政策科学の分岐であったのだろうと思います。どちらにも利点はあるので両方を片手に持ちながら研究を続けていきたいと考えています。
- 栗林兵冶
1.修士論文のテーマ:「競争優位を求めるFDI・コラボレイション戦略:化学産業のコラボレイション戦略」
伝統的な多国籍企業の行動理論は自社の所有する競争優位を海外で展開するを目的に直接投資(FDI)を行う、所謂「自前」主義による活動が中心を占めたが、90年代以降は、自社の所有優位だけでなく、他者の競争優位にアクセス・利用する国際的な提携・ネットワークの活動が増加し、かかる「協働」的活動、コラボレイション活動が今後の多国籍企業の成長の重要な要素となると思われる。この新たな潮流の先行研究の考察と、その流れを化学産業における最近の国際的活動において実証することが現在のテーマとなっています。
2.多国籍企業研究では企業の競争優位の源泉として、国際経営論での競争戦略論、資源ベース論等、さまざまなアプローチがあり、一方、その優位の創造・維持・発展には自国の競争優位、投資受入国の対応が重要で、現在では共生のシナリオにより、投資受入国においても過去の対立から融和・WIN-WINを目指す政策がとられている。この投資受入国の政策の変遷も多国籍企業研究の一画であり、近年では社会関係資本の充実が多国籍企業の立地要因に大きく影響している。よって、この社会関係資本を自社の競争優位に結びつける活動も、企業間連携・ネットワークと共に多国籍企業の行動と優位の源泉となる。
3.本講義では、Parsonsの”Public Policy”を輪読したが、膨大な社会哲学・経済学・政治学の歴史的変遷を参照し、公共政策プロセスの分析と、対応について体系的に説明されている。
専攻の関係からどうしても経済的側面に目を向けがちであったが、根底に流れる思想・アプローチの多様性に触れる事ができた。私の研究は公共政策に直接関わる分野研究ではないが、すべてが直接・間接に影響しあって個人・団体の経済行為に帰する事になるわけで、その根源的動機としてのSociologyの理解は継続していこうと考えている。
最後に、グローバリゼーションによる主体間の相互依存の進化と、産業社会の収斂は、政策プロセスのみならず、あらゆるプロセスに影響し、私の研究分野である多国籍企業研究においても、「競争優位の行き着くところは効率性の追求なのだろうか?参加者にとって、何が目標なのだろうか」との新たな課題を自らに提起されたところで受講の感想とさせていただきます。
私が一番の年長者と思い、皆さんに迷惑をかけないよう、無遅刻・無欠勤でなんとか終講できました。一年にわたるご指導有難う御座いました。
- 平田純一
本講義では1年間、Wayne Parsonsの"Public Policy"をテキストとして、先生のご指導のもと、受講者の皆で輪読するという形式がとられた。
テキストでは、公共政策が科学として取り扱われるようになった歴史に始まり、政策分析研究に関する様々な代表的枠組み・モデルが示される等し、政策科学についての理解を深めるための基礎を築くことに、大いに役立った。
テキストで取り扱われた内容は、どれも興味深い内容であったが、中でも特に私自身が関心を持ったのは、講義後半で扱われた次の事柄である。
すなわち、社会においては、様々な、政策的に取り組むべき諸問題が数多く存在するが、政策決定・実施主体が、そのうちのあるもののみを政策issueとして取り扱いagenda設定する一方で、他の問題をissueから除外するといった、過程についてである。
政策実施主体が有する資源(予算等)には限りがあり、また一方、政策的諸問題の普遍性の度合い等(例:ある問題は、ある集団にとっては重要な政策issueたりうるが、他の集団にとっては全く問題にもならないような場合がある)にも差異等があるため、全ての問題が政策issueとして取り上げられるわけではないのは、自明の理である。
しかし、ある特定の時代において、ある問題群のうち、特定の問題だけが政策issueとして取り上げられるということは、決して偶然の産物ではなく、様々な要因の作用の結果として生じているということが、忘れられてはならない。この時特に重要なのは、偶然の要因ではなく、議員・官僚・利益集団等による合目的的な活動の要因であると思われる。
講義では、政策過程における、政策形成・実施・評価の過程については、時間の制約もありあまり触れられなかったが、前述の政策issue形成・agenda設定同様、これらの過程についても、議員・官僚・利益集団等による合目的的な活動が大きな役割を果たしているものと思われる。
様々な要因の作用の結果生じる政策形成過程については、その分析の枠組みとして、制度主義、合理主義、増分主義、ゴミ箱モデル、公共選択、システム論モデル等、有効なものが検討されてきているが、それぞれの有効性は万能とは言い切れない。つまり、それら各々の枠組みで、現に生じている政策過程を完璧に説明し尽くせるものではない。
本講義では、これら枠組みの概要・特徴を理解することができた。
今後は、その基礎的な理解を土台にしてさらに理解を深め、私自身の研究を進める上での拠り所となるような枠組み(研究上の視点)を見つけ出し、その枠組みを使いこなし、修士論文において説得力のある議論を展開して行きたい、と考えている。
本講義からは、様々な有益な知識・アイデアを頂いたが、私自身の修士論文作成(あるいは修士課程における研究)に限って言えば、上述のように、研究遂行上の拠り所を形成する礎を提供して頂いた、という点で、大変感謝している。
ところで、肝心の私自身の研究テーマについて簡単にご紹介し、本論をしめくくりたい。
もともと私は、限られた資源を最大限有効に活用し、最大の効果を得るような政策実施の在り方、について強い関心を抱いている。
資源と言っても様々であるが、特に政府の歳出予算、あるいは歳入予算(税収)に関心を抱いている。
このような中で、特に現在、研究テーマとして考えているのは、公益法人をめぐる諸制度の在り方である。とかく限られた資源というと、歳出予算に目が行きがちであるが、普遍的な課税原則の中で採られている、非課税制度も、影響が大きいという意味で、大きな問題である。
現在わが国政府は、「公益法人制度の抜本的改革に関する基本方針」(平成15年6月閣議決定)を受け、公益法人をめぐる諸制度の抜本改革に着手しているところであり、非収益事業の法人税が原則非課税扱いである等、様々な税制上の優遇措置を受ける公益法人の今後の取扱いが注目されるが、このような中で私としては、財政学的見地から、公益法人をめぐる望ましい税制の在り方について検討して行きたいと考えている。
検討に当たっては、経済分析手法の導入も考えているが、そのほか、現在の税制ができるまでの歴史も俯瞰したいと思っているほか、今回の改革に際しての政府の検討状況についても概観して行きたいと思っている。このような中で、さきほど述べたような政策過程の分析枠組みの使いこなしが、重要になってくるものと思われる。
現時点でのゴール(修士論文完成)に至る道はかなり険しいが、頑張って突き進んで行きたいと思う。
- 山崎慎吾
修論テーマ「経済政策における自由、効率、正義の問題」
経済政策によって政府が目指している社会像はどのようなものか、また、どうあるべきなのかについてを自由、効率、正義の観点から研究する。その際に自由、効率、正義の各概念を整理する。特に正義は、自由と効率をどのようなバランスで扱うかをも決定するので最重要な概念である。ここではロールズの『正義論』を中心にセンやその他の議論を参照しつつ研究する。そして正義とのかかわりの中で自由、効率についての考察を行い、どのような自由、どのような効率が望ましいのかについて研究する。
現在、経済政策によって目指されているものは市場主義社会であると言われる。つまり経済的自由と効率を第一義に追求している社会である。正義の問題は考慮に入れられているが、その比率は少ない。逆に、計画統制経済とは正義が追求されている社会である。この両者ともそれぞれの純粋な形では存在できない事が現在では常識のように言われる。市場主義社会では多くの敗者が生まれ、計画統制経済では経済の効率性が確保できなくなるといった具合にである。
そして自由、効率、正義を現実の政策としてどう表現するのか、またどのように表現されているのか、について修士論文では研究する予定である。
この「政策科学」において学んだことは、政策が決定される場で何が起こっているのか、どのような意図が働いているのか、なぜ政策は徐々にその姿を変えるのかといった「過程」に関わる事柄である。利益団体や政策エリート、民間の研究所やメディアといった登場人物が政策過程のどこに関わり政策が決定されているのか、また関わる過程で何が起こっているのかについて多くのことを学べた。
特に、政策が過程において当初の形とは違った中途半端なものに変わっていく可能性や筋道は、「何が望ましい政策か」ということを研究テーマに含む私としては大いに有意義なものであった。
2002年度メンバーによる講義感想リポート(名簿順)
- 匿名希望 さん
- 課題1:あなたの修士論文において政策論はどのように位置付けられるか。
私の修士論文のテーマは、「中央政府と地方政府との財源配分のあり方について」であるが、政策論は、現実に行われている配分方法から離れて、あるべき配分方々を考えていく上で一つの試金石となると考えられる。
現在、地方への財源の委譲は、使う用途の決められている国庫支出金と地方の自由財源とされる地方交付税交付金とがあるが、自由財源とされる地方交付税ですら、その配分基準となる基準財政需要額はあらかじめ決められた算出方法によって決められていっており、そこには効率性、必要性の視点が欠落している様に思われる。
そして、この配分を効率性や必要性の観点から今一度見直してみるとき、政策論は、その方向性を決定していく上で大きな役割を果たすと考える。
- 課題2:いかなる要因が政策を生み出すと考えるか。(今回、授業で取り上げたソーシャルキャピタルとの関連で)
ソーシャルキャピタルは、通りを安全で犯罪のないものにし、よく目の行き届いた地域環境を作り、健康を改善し、死亡率を低くする、などの効果をもっている。
このように地域を再建することは重要な意味を持っているが、現在行われている多くの政策ー教育やヘルスケアや住宅政策などの政策―は、その直接的な目標を達成する以外にも、間接的に地域再建という問題において影響を与えている。
住宅政策は、誰が誰の隣に住むかということを決定することで、異なる集団が互いに影響するのを易しくしたり困難にしたりする。教育政策もまた、どこに人々が住むかを決定し、さらには地域の子供達や両親達がネットワークを築き上げることができるか、できないかを決定する。反犯罪政策は地域内で関係の発展に影響を及ぼす。また地方政府の、通りの清掃やごみの収集への支出の決定は人々のその地域へのプライドに影響を与える。
政策を決定するときには、このように特定の政策がもたらす直接的な目標への影響だけではなく、ソーシャルキャピタルを強化するという間接的な目標に対してどのような影響を及ぼすかということも大きな要素となってくる。
どのような政策においても良い影響と有害な影響とを持ち合わせており、トレードオフとなる。政策を決定する際には、直接的な目的に関わる結果より、ソーシャルキャピタルに対する悪影響のほうが大きいかどうか、あるいは、政策の直接的な目的を強化するのを助けるようにソーシャルキャピタルが影響を及ぼすかということを見極めながら政策を決定することになる。
- N さん
修論テーマ(予定):イギリスの土地収用制度と所有権
副題:サステイナブル・シティを目指す政策を基点とした一考察
【概説】
80年代以降、環境問題は大規模産業型から都市・生活型へと変化し、都市において環境保護に努めることが重要になっている。
欧州のサステイナビリティへの取組みの一環として、EU第五次環境行動計画の中でサステイナブル・シティという概念が生まれた。
サステイナブル・シティの具体的モデルとしてコンパクトシティとグリーンシティという2つのタイプが考案されたが、結局コンパクトシティを目指すべきとの結論に達した。
コンパクトシティを実現するための1つの要因として、土地収用制度がある。その歴史的な流れから英国における所有権という権利のとらえ方を考察する。(予定)
【補説】
修論のメインとなるのは土地収用制度なのですが、現時点ではそれに対して考察をするだけの材料を持っていません(ただいま勉強中)。そこで今回は、コンパクトシティを対象にしたいと思います。ちなみに副題ともなっているサステイナブル・シティですが、この政策自体は論文の表側に出てくることはなく、前提というか土台のような存在に留めておきたいと考えています。
【概念定義】コンパクトシティ
サステイナブル・シティの空間形態として提起された1つの都市政策モデル。
都市と農村を明確に区分し、環境を保全するための都市拡張の抑制を基本とする形態。
都市の再生と公共交通システムによって支えられ、強化された土地利用と関連づけられる。高密化され、自動車利用に依存せず徒歩圏で日常生活を充足させるため、公共交通機関を張り巡らせ、移動性の高さよりもサービスの利用可能性を重視する。
この移動パターンの見直しを中心に据えた、構造面・行動面でのコンパクト化が、エネルギー効率を高め環境負荷を減らし、持続可能な都市につながると考えられている。
【本論】
コンパクトシティは財政的には有利であるが、高度な社会的コントロールを必要とする。そのため、適切な都市運営・情報公開・行政の説明責任・住民参加といった社会基盤があらかじめ整備されていない地域にとっては、実現そのものが困難となる。→ この社会基盤の中に、Social Capitalが含まれる。
コンパクトシティと一言で表現しても、その実態は一様ではない。またこのモデル自体も賛成・反対の各意見が入り混じり、モデルの適用が都市にどのような影響を与えるかは、結局のところ都市があらかじめ備えている性質(物質的・社会的資本)に依るところが大きいと言ってよいだろう。
つまり財政的裏付けは十分か、どのような既存ストック(不動産)を有しているか、従来のコミュニティの組織力や影響力はどの程度か、といった問題である。
そもそも都市とは各々の特性の上に成り立つものであり、そのため統一的な手法を全てにあてはめることは現実的ではない。数多くの政策メニューの中からその都市にふさわしい項目を選択し、運営に取り込んでいく。そして成功例を周囲に紹介し、参考にし合い評価し合う。同じ目標を持った個々の事例を外部と連結させる、そうしたネットワークそのものがコンパクトシティ・プロジェクトなのかもしれない。
つまりコンパクトシティという政策が成功するもしないも、最終的にどのような形に変化するのかも、結局は都市がそれまでに培ってきたSocial Capital次第ということである。
しかしそうなると逆に、コンパクトシティが何たるか、を説明することは難しい。コンパクトシティとは概念であり、概念とは一般的かつ曖昧なものである。適用された1つ1つの事例において個々の解釈を行わない限り、形は見えてこない。
普遍的な原則を探ろうとすればするほど、各都市の諸状況を基とした具体的事例の調査に入り込んでしまい、すでに一般的な何かではなくなっている。単に「ここではこのような取組みがなされています」的な紹介に終始し、他に応用はできてもコンパクトシティを説明したことにはならない。
コンパクトシティでは密度が高く近隣生活が活発になるため、コミュニティ活動が盛んになり、住民による自治能力も高まると言われている。しかし一方で集住形態のためプライバシーが侵害され、また既存コミュニティが衰退するとの反対意見もある。
バートンは、都市のコンパクトさと社会的公平さとの関連を、既存文献のレビューと英国内の25都市の調査によって検討した。
結論として、コンパクトシティのマイナス面として @居住スペースの少なさ A購入可能な住宅の欠如 B身近な緑地の欠如C犯罪の増加 D呼吸器系の病気による死因の多さ;プラス面として @公共交通の改善 A心理的要因による死因の少なさ B徒歩や自転車利用の利便性 C社会的分離の減少 D非熟練工の就業の機会の多さ E施設へのアクセシビリティ、を指摘した。
以上を見ても、Social Capitalとコンパクトシティの関連について、プラス面もマイナス面もあり一概に結論を下せないことが分かる。
個人主義では健全な都市は成り立たず、いわゆるコミュニティ主義が重要なことは確かである。思うに、重要なのはコミュニティ(Social Capital)が在るかどうかではなく、コミュニティの能力をどう生かすかという「手段」の質なのではないだろうか。
つまりは全体活動へのアクセシビリティの問題である。人々の行動範囲や都市の建築構造、コミュニティへの考え方は推移する。それに合わせてSocial Capitalの生かし方も変化が求められるのだと考える。
例えば、コンパクトシティの実現には住民参加が求められており、コミュニティの能力が期待されている。
確かに土地の利用権を制限する場合、住民参加の手法を用いれば「自ら決定した事項に自ら従う」という根拠を得ることができる。しかし現実的に全員合意というのは不可能で、それそれ利害を有する住民の参加により、かえって話がまとまらないという事態も考えられる。
意思決定の過程が透明化するのは望ましいが、どの段階での参加を求めるかを考慮する必要があるだろう。住民参加には、説明し学習する理解の段階・活動の組織を作り情報を共有する巻き込みの段階・討論し意見を求める合意形成の段階、という3段階のプロセスがある。この中のどの段階・どの過程を手段(参加手続)に採用するかは、各コミュニティの性質にもよる。しかし住民参加を単なる外見上のセレモニーに終わらせないためには、情報提供・討論・評価の全てに構成員が関ることが望ましい。
Social Capitalが必要なのは確かである。しかし私の修論においては、それをどう形成するかという問題よりもむしろ、どう生かすかといった手段の検討の方が、考察を深めるのに活用できると考える。
- H さん
【論文主題】
「訪日観光振興に関する一考察」
【概要】
国土交通省は、2003年を「訪日ツーリズム元年」と位置づけ、外国人観光客を日本に呼び込む作戦を始める。
外国人観光客の増加は、経済・産業の活性化、雇用の拡大につながるだけではなく、日本人と外国人との相互理解を深め、国際社会が日本を認知する国際交流の場ともなる等、重要な意義を持つ。だが、日本の国際観光の現状は、日本人海外旅行者数が16,216千人に対して、訪日外国人旅行者数は4,772千人と1/4にとどまっている(2001年)。
私は、国際観光振興が地域の活性化を促すことを目的として論じたい。
特に、都市再生が叫ばれている中で、観光はその起爆剤となると期待できる。なぜなら、近年、訪日外国人数の上位国には、中国をはじめとするアジア各国が多くを占め、これらの国の人々は日本の伝統文化だけでなく、アジアの先進国である日本の先進的な現代文化を求めて都市を訪れる傾向にあるからである。
そして、他の先進都市との差異性をもたせ、競争性を高めるためには、日本独自の魅力も際立たせなくてはいけない。そのためには、先進的で洗練された現代文化と独自の伝統文化を融合し、日本の都市のブランド化を図る必要がある。
このような視点にたち、訪日観光振興に関する現状と課題を考査する。
【修士論文における政策論の位置づけ】
日本が現在、観光小国に甘んじているのは、日本は今まで工業国家として発展してきたが、今後は観光産業をはじめとするホスピタリティー産業が重要になるということを認識せず、対応が不十分であったからである。そして、その責任のひとつは観光政策にあるといえる。
日本の観光政策は、外貨獲得の必要性から、鉄道省国際観光局(1930〜42)が設置されたことにはじまり、戦後、運輸省鉄道総局業務部観光課(1946〜49)で再開され、いくつかの変遷を経て、現在、国土交通省総合政策局観光部が担当している。また、観光の基本的性格を定めるために、交通政策審議会の分科会として観光政策審議会が設置されている。 ここから、日本では一貫して、新幹線の建設に見られるように、ハード行政が観光を担っていることがわかる。そのため、日本経済が高度成長をとげ、重要な目的であった外貨事情が好転するにしたがい、観光政策は、外国人観光客誘致そのものよりも、内需拡大政策の一つとして、道路・港湾・空港整備や施設整備等のインフラ整備が重視されるようになってきた。
観光政策の理念と目標を明記した「観光基本法」(1963)の中で、「観光は、国際平和と国民生活の安定を象徴するものであって、その発達は、恒久の平和と国際社会の相互理解の増進を念願し、健康で文化的な生活を享受しようとするわれらの理想とするところである。また、観光は、国際親善の増進のみならず、国際収支の改善、国民生活の緊張の緩和等国民経済の発展と国民生活の安定向上に寄与するものである。われらは、このような観光の使命が今後においても変わることなく、民主的で文化的な国家の建設と国際社会における名誉ある地位の保持にとってきわめて重要な意義を持ち続けると確信する」と記された。
ここでは、明らかに、観光は、ソフト行政として考えられている。特に、観光を経済の発展に寄与すると捉えていることは注目すべきである。
訪日外国人旅行者数が日本人海外旅行者数の1/4というアンバランスな状態となったこと、バブル崩壊後の経済不況を考え合わせると、単なるインフラ整備にとどまらず、外国人観光客の誘致につながる政策を行う必要がある。
そのためには、「観光基本法」の理念にたちかえり、観光をソフト行政としてとらえ、総合的な観光政策を進めることが求められる。
外国人観光客受入数上位国である欧米諸国の観光政策を見てみると、所管する省庁は様々であるが、「観光」という名を付けた省に所管させているか、総理府等の仲立・調整を行う省庁に所管させるか、観光の経済面を重視して通商・産業・経済等を担う省に所管させており、観光政策を国家事業として十分に認識している結果であるといえる。
観光振興事業は、法的・制度的規制や、巨額の資金を必要とする事業であり、また、一部に非営利事業も含まれることから、政策として行うべきである。
そして、今後の重要性を考慮すると、国家事業として取組む必要があるが、従来と同じ観光政策では、有効な観光振興につながるとは考えられない。もちろん、観光政策のみが外国人観光客の多少につながるわけではないが、大きく関係するといえるのではないであろうか。
そのため、修士論文では、政策論を、観光産業や観光地の住民が政策を生み出す一要因となるべきであるという面からとらえて論じたい。
【政策を生み出す要因】
前述したように、日本において観光政策は、道路・港湾・空港整備やリゾート施設整備等のハード面が重視されてきた。これは、戦後日本が、工業国家として成功したため、その後長い間、ものづくりに比重を置きすぎたこと、中央集権的な中央・地方関係の中で、予算確保のため、地方自治体が積極的にインフラ整備を行ったことに要因がある。
だが、旅行先としての日本の問題は、観光に関する情報が乏しい、空港からの交通機関が利用しづらい、まちが美しくない等があげられ、従来の観光政策では不十分であることが分かる。
今、求められているのは、公共事業を増やすことではなく、海外でのPR活動や交通案内板の設置、魅力的なまちづくり等のソフト面の観光政策である。
そして、従来の観光政策として、伝統的なまち並みを無視したインフラ整備を行った結果、今までの地域社会としてのつながりまでもが破壊され、地域全体として、地域の魅力をPRする力や、観光客をもてなす心、伝統を保存し、その文化を発信すること等ができなくなってきている。
これは、ロバート・パットナムが主張するソーシャル・キャピタルの減退の現われだと考えられる。観光振興は、地域社会の力が弱くてはなす事ができない。なぜなら、地域の社会的基盤のない、箱ものだけの画一的な社会は、魅力がないからである。そのため、訪日観光振興の主役は観光産業や住民であるべきである。
このことから、今後の観光政策を生み出す要因は、観光産業や住民が地域の魅力を発揮することにあると考えられる。
具体的には、海外でのPR活動等の観光市場を広げるための振興策と、観光産業や住民が必要としているソフト的なインフラ整備を行なう等の政策づくりを促進すべきである。
最近の事例としては、日本と韓国で共同開催された2002年ワールドカップは、観光事業の活性化を図る絶好の機会であった。
試合開催を誘致するために、各自治体の政策はスタジアムの建設に力を入れ、ハード面中心であったが、同時に、各地の魅力をアピールし、輸送対策をたてる等、ソフト面の必要性に気づいていった。そして、ワールドカップの開催が近づくにつれ、外国語表示板の設置や観光情報センターの開設、観光ボランティアの配置等ソフト面に重点をおくようになったのである。また、各地域でも、地域をあげて、積極的にPR活動を行なった。これは、社会資本が増進され、社会的交流が広がった現われといえる。
しかし、観光政策は、ワールドカップが終わると、以前とほぼ同じ状態に戻ってしまっている。
ワールドカップにより行った観光政策が一時的なものとされ、継続できなかったのである。だが、地域では、細々とではあるが、交流のあった国との親交を深めるための活動を行なう等、増進された社会資本が途切れることなく続いているものも見られる。
ワールドカップにより培った社会資本の経験が完全に失われる前に、活かす努力をすることが必要である。
【参考文献・資料】
・日本経済新聞
・岡本伸之編(2001)『観光学入門』有斐閣アルマ
・徳久球雄(2002)『キーワードで読む観光【第二版】』学文社
・進藤敦丸(1999)『観光行政と政策』明現社
- 椎谷さん
近代とりわけ明治初期の皇室制度の考察を大学院での研究テーマとしております。
幕末の動乱期から明治期への移行は、政治的あるいは経済的な行き詰まりで身動きできなくなった封建体制がその内部矛盾ゆえに自己崩壊したとも言えますが、内在していた歴史的、文化的エネルギー(潜在力と言い換えてもいいかも知れません)が西欧列強による外圧で目覚めて起きた「革命」だったと考えることもできると思います。
そうした歴史の流れの中で、皇室制度が変化または継続していく過程、さらには法的に整備されていく経緯を研究しようと考えています。そこでは、当時の知識人たちの歴史や文化に対する考え方だけでなく、大衆が支える「社会の枠組み」をも広く考証する必要があると考えます。
そこにおいて「政策論」をどのように位置づけるかということでありますが、私は研究テーマと政策論が無縁のものとは考えません。「社会の枠組み」を考える上で、政策論、とりわけ「ソーシャル・キャピタル」という概念は、大きな意味を持っているように思います。
ソーシャル・キャピタルは、従来使われてきた日本語の「社会資本」と区別するため、あえて「社会関係資本」と訳してもよいと思いますが、人的ネットワークから得られる「人間関係」、あるいはそれを規定する「規範」「信頼」をも指していると思います。
変化の激しい現代社会に於いては、個々の有能な人材を少しでも多く集めて有機的に管理するという考え方は壁に突き当たり、いかに豊富な人的ネットワークを構築するかが組織の命運を決するまでになっています。
特に会社組織にあってはこれが顕著ですが、政治、経済、社会の全般に言えることかも知れません。
人的ネットワークを、先に触れたように「信頼」と置き換えるならば、日本にはもともと、その信頼をベースとするカルチャーがあったのではないかと考えます。
例えば経済活動における契約ひとつを取って見ても、西欧ではまずはあらゆることを疑うことから始まりますが、日本では今でも契約条項に「甲乙(両者)は誠意を持って云々」という文言が書かれるケースは少なくありません。
しかし、いつしかこうしたカルチャーも米国流のグローバルスタンダードによって蔑まされ、多くの人が避けるようになってきました。そして今、その見直しが、経済活動だけでなくすべての社会生活においても行なわれようとしています。
このようにソーシャル・キャピタルを日本的カルチャーという視点から捉えるならば、やはり近・現代の出発地点である明治期、とりわけ明治初期に、それがどのように社会を規範し、また、現代人の意識にも潜在しているかを探るのは意義あることと考えます。 今日的な意味のソーシャル・キャピタルという言葉のなかった明治期の荒々しくエネルギッシュな時代に於いて、「社会的枠組み」がいかにして造られ、保たれていたのかを自分なりに考証していこうと思います。
- 藤崎敬洋さん
この1年間の総括として以下の2点について関心を抱いた。
まず第一点として、各国の内在する社会問題の経済的側面との関連性についてである。
換言すれば貧富格差が市民の社会意識を促した側面は注目すべきものである。
産業革命以前の、経済格差が社会的身分と同じ意味の共同体における公共政策とは、税徴収や治安維持といった一次的なものに限定された。
しかし近代における貧富格差を放置しない、国家による保護の必要性が生じてきたことが公共政策の根本にはある。国家に対する社会的自由の要求が、政治的意図だけでなく、経済活動の前提たりうると考え始められた。
その意味において、Putnumの論文に端的に示されているように、各国の表出する社会問題は多様であっても、その本質は共通する要素が散見される。ただしその政策効果の進捗程度は各国によって差異があると言える。
その違いは何に起因するのか。そこで第二点として言及されるのが、Social Capitalである。
現在までの公共政策は、(本来的な公共政策の意味合いとは若干異なるが)ケインズ理論に代表されるように、経済主義としての有効性が常に中心であった。
費用便益性が前提として存在し、公共性は経済効果と同義である部分が大きい。しかし今日における諸問題は先生のご指摘どおり「重層的で複合的な諸要因と種々のアクター間の相互作用とによって規定」されており、画一的な公共政策には限界がきている。
違う角度から見れば、昨今世界的な関心の高いローカル通貨やEUにおける補完性原理の導入は、従来の経済主義の克服を目指した新たな社会的アプローチであるともいえる。 Social Capitalという社会構成員の共同意識を基礎とした社会参加は、このような時代背景のもとで公共政策との多大な相互影響を持ち、その成熟が今後の社会的安定により意味を持つであろう。
最後に研究テーマとの関連性であるが、政策過程の特徴と差異を解明、更にそれらを歴史的に形成して来た各社会・時代の組織原理と統合構造を探るという部分において、そのリサーチ手法を多くの点でご教授いただいたと思う。
今後の課題として、公共政策の具体的事例を通じて、その意義と手法を実証的に検証することで、今後のモデルとしての原理と政策論を考察できればと考えている。
- 佐伯恭子さん
「"研究すること"と"政策科学"」「"医療と福祉の連携"と"Social Capital"」
自分の修士論文と政策論の関係については、私の場合、段階の違いから二点あげることができると思っている。
ひとつは、今回の課題のメインとして考えてよいと思うのだが、自分が修士論文でテーマにしているものが政策論とどのように関係してくるのかという部分。
そしてもうひとつが、修士論文を書くにあたって"政策科学"で用いられる方法論が参考になるのではないかということである。
まず、方法論として参考になる点から述べていく。
これは、わたしが研究というものをわかっていない証拠だとも思うので、ここで挙げることではないかもしれないのだが、自分が疑問に感じたこと・わからないと思うことを、どのように解き明かしていけばよいのか、どう考え調べていけばいいのかということを学ぶことができたという点で、わたしにとっては大きな意味があったと思うので、少しふれておきたい。
それは、前期にたくさんの配布資料をもとに教えていただいた「政策科学とは?」という部分である。
あることをただ漠然と問題だと思っているだけではだめで、その問題がどういう構造になっているかといった詳細な分析が必要なこと、また、その問題を解決するにはどうしたらいいのか、ここにもまた段階があり、すぐには結論・提言に結びつかないことなどである。
政策というものを、国をどのように動かしていくかということだと考えると、例えば、患者さん中心の病院にするためにどのように病院を動かしていくかを考えることは、国に当てはめてみると政策を考えることといえるだろう。
政策分析の三つのパターンを、病院運営分析と対応させて考えてみると、以下ようになるのではないだろうか。
政策分析
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病院運営分析
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政策決定システムの分析
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医療制度についての分析
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個々の政策の政策過程の分析
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病院の運営方針作成過程の分析
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事実は何か?⇒言説分析
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どこから(患者、医者、看護師など)意見や問題提起を吸いあげるかの検討
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この中の「事実」ということについても、政策として的確なものを作るためには、まず事実を知ることが大切だということであったが、これは修士論文を書く=研究するということとも共通することだと思う。
事実を知ることがいかに難しいのか、現状の詳細な分析をすることがいかに大切かということとあわせて、その重要性を学んだように思う。
この「事実とは?」について、もう少しつっこんで言うなら、"本当のこととは?""正確な情報とは?"といったことをどうやって調べればいいのかわからなかった私にとって、政策レベルでも言説分析が必要だということを知ったときは、多くの社会学者が言う"最初に社会問題があるのではなく、日々のさまざまな活動の中で問題が作られ、確かなものになってしまう"という考え方を知ったときと同じくらい驚きを感じたのである。
また、事実を知ろうとするための情報収集について。
今は、インターネット上だけでも、本当に多くの情報が入手できることがわかった。授業中にいろいろな記事を読んでいく中で、わからないことがあった場合には、それをひとつひとつ丹念に調べていくことまで皆で一緒にやっていくことによって、それを学ぶことができたのだと思う。
とくに、この授業では「政策」を対象にしていることもあって、国が提供している情報にアクセスしてみることも多かったが、考えていた以上に多くの情報に接することができることを知った。
国側の情報隠しによって起きた薬害エイズ事件や、発表が二転三転した狂牛病の件などがいい例だと思うが、日本では国の情報はあてにならない、大事なこと・国側に不利になるようなことはどうせ隠しているから、と決めつけてしまい、実際に調べてみようとすることがなかった。
しかし、この授業の中で「政策評価」や「白書」「報告書」などをHPで探したことをきっかけに、自分の興味がある分野ではどうなっているのか、試しに厚生労働省のサイトを見てみたりしたのだが、さまざまな研究や調査が行われ、多くの報告書が出ていることも知ることができた。
事実を知ろうとするためには、あらゆる情報にあたる必要がある。その際、入手した情報がどういう種類/質なのかということには常に注意を払いながら、新聞記事や国が出している情報にあたってみることもひとつの方法であることを学んだ。
次に、今回の課題のメインである、自分の修士論文のテーマとするものと政策論との関係について考えてみたい。
問題意識としては、看護師として働く中で、医療と福祉が縦割り制度になっているために困っているたくさんの人たちを目にしてきたことから始まる。
医療サービスも福祉サービスも、それを利用する人たちのニーズあってこそのものであり、利用する人が中心であるべきなのに、長い間問題になっているように、制度のほうが中心で、利用する人がそれに合わせなければならないという状態は介護保険が導入された今もあまり変わっていない。
その結果、生活を支える福祉サービスをベースに医療サービスもいつ必要になるかわからない要介護高齢者や難病患者は、その縦割りの制度の中でサービス提供側に都合のいいように扱われてしまうのである。
こういった状況を変えていくために必要なことは、まず利用する本人のニーズを最大限尊重すること、そして医療と福祉の連携を現実のものとしていくことだと思う。
しかし、とくに医療においては、本人のニーズを尊重することがおろそかにされがちである。
その理由にはさまざまあるが、それについて詳しく検討することがここでの目的ではないと思うので、簡単に述べてみる。
それは、医療の現場では、患者本人が主張しにくい心理状態・環境状態にあること、医者−患者関係にあるパターナリズムなどである。
病院では、患者は知識不足・情報不足によって"知らないから言えない・言いにくい"という状況におかれていることに加えて、病院側にこれを補うための時間的(人員的)・空間的余裕がない――つまり、患者さんが納得のいく説明を受けることができていない――といった現状がある。
このような中で求められるのは、カルテ開示の法制化や、患者が納得のいく説明を受けることができるような時間的(人員的)空間的条件を確保するための医療法の検討、診療報酬の検討など、すでに政策過程にのっているものの再検討ということになると思う。
また、理念としては以前から言われてきている医療と福祉の連携が、利用者のニーズを中心に現実として有効に機能していくためにはどうしたらよいのか。この点については、Social Capitalとの関連で述べてみたいと思う。
何度も言うようだが、医療と福祉の連携について考えたとき、現状で問題だと思うのは、利用する側が制度に合わせなければならないようになっているために、制度の枠組みの間からこぼれ落ちる人がたくさんいることである。
そうならないよう、この隙間を埋めていくためには、Social Capitalを活用していくことが必要になってくるのではないだろうか。
医療と福祉は制度であり、制度であるということは法で規定されているということでもある。それぞれの制度がどんなに充実しても、それだけでは利用者が制度に合わせなければならないことに変わりはない。
制度間の隙間を埋めてこそ、それぞれの制度の不備も補われるのであり、そこからこぼれ落ちる人も減らすことができるのではないだろうか。
そして、管理運営上、医療と福祉を制度として分けた形をとることが避けられないとすると、その隙間を埋めることができるのは、制度で作られたシステムの中で実際に動いている人間ではないか、それがSocial Capitalの活用ではないかと思うのである。
このSocial Capitalの点から、医療サービスと福祉サービスの間を埋めるための方法としてどのようなものが考えられるか、実際にサービスを提供している人間――例えば、医者・看護師・ヘルパーで考えてみよう。
一つの方法として、これらの中で看護師は、両方の制度でサービスを提供していることから、両者の連携に大きな役割を果たすことができるように思われる。
例えば、大きな病院を退院したあとも在宅で療養を続けるために医療によるフォローが必要な場合には、看護師が仲介となって病院の医者と診療所の医者との間をつなぐ、あるいは自宅に退院後も介護を必要とする人には、病院看護師と訪問看護師・ヘルパーがうまく連携し、医療サービスから福祉サービスへ移行するにあたっての隙間ができないようにする、といったことが考えられる。
さらに、医療と福祉の連携を、制度という抽象的なレベルではなく、病院と老人ホーム、病院と家庭(地域)というように具体的なレベルで考えてみる。
それら具体的なレベルの連携とは、周囲とは一線を画してみられがちな病院が、地域に開かれた状態のことではないだろうか。
ここでのSocial Capitalの活用もまた、人間同士の交流ということがいえると思う。 例えば、地域から病院へは住民によるボランティア活動、病院から地域へは医療専門職者による健康教室や病気予防の講座開催などといったように。
こうした交流の存在は、健康増進を医療制度の中だけで考えるよりはるかに効果的だろうし、ボランティア活動は、住民だけでなく入院している患者さんの幸せにも何らかの貢献ができるのではないかと考えるのは、ちょっと期待しすぎだろうか。
最後のまとめとして、自分の修士論文の中に政策論としてなんらかの提案ができるかどうか、その見通しを考えてみると、最初にも述べたように、事実を知ること、いろいろな面から現状を眺め正確に把握しようとすることが精一杯で、そこまでは到達できないように思う。
もちろん、わたしたちの社会を動かしている大きな枠組みである政策について考えていくことは常に頭においておきたいと思うし、そこから変革していかないと問題の根本の解決にはつながらないことも多いだろう。
しかし、修士論文でより多く力を注ぎたいとわたしが考えるのは、今現在困っている人たちがいるのだから、それを少しでも解消するために現場レベルでは何ができるか、何をするべきかということになると思う。
そして、余力があれば、どのくらいふれることができるかわからないが、現場レベルの問題解決をさらに広く発展させるためにも、一年間政策科学を学んだ成果として、政策論からはどのように考えることができるかについても検討してみたいと思っている。
(人間科学研究科)
2001年度メンバー
(但し下のイメージには担任は含まれていません)
2001年度メンバーの自己評価
- (講義前の自己評価)
35年前に海上保安学(船舶運航、法律学等)を勉学して以来、大学での勉学の機会はなく、行政官(海上保安官)として、海上の治安の維持、犯罪取締、海難救助、交通安全の業務に従事し、2年前に退職。受験準備後社会科学研究科にて研究を始めました。
刑法及び特別刑法としての道路交通法に関する研究をテーマに選択。社会科学研究科では、政策科学のほか、社会規範論、比較憲法、刑事関係論、行政組織論を受講し、刑事関係法の演習に参加しながら、自分の研究テーマの研究領域の絞り込みに努めようとしました。
自分のこれまでの専門分野が海上であったことから、海上交通に関する視点はある程度ものを持っていたと考えていました。自分の研究テーマの焦点をしぼるために、慎重に検討し、上記講義科目を選択して、研究論文を作成するための勉学の方法について、常に考慮しつつ、受講したいと考えていました。中でも、政策科学に関しては、法律の背景や、法律を遵守する社会と政策との関係に興味があり、勉学の必要があると考えましたので、上沼教授の政策科学を選択しました。
(講義終了後の自己評価)
講義では、(1)海外の情報の活用方法 (2)社会資本と共同体に対する研究方法 の2点について、会得できたと考えます。
ハーバード大学のロバートパットナム教授の「ボーリングアローン」を基本文献とした、同書の批評、要約、その他の文献をインターネットで渉猟しつつ、社会資本と共同体構成員の社会活動の分析手法を学ぶことができました。
政策科学での講義を受講した成果として、修士研究論文のテーマを「道路交通犯罪の刑事政策上の課題に関する考察」に絞りこむことができました。
道路交通は現代社会において、便利な自動車と、大きな負担である事故の問題を抱えた社会問題です。政策科学の講義を通じて、社会資本と共同体活動の関係を学んだことにより、道路交通犯罪の犯則制度、交通刑務所制度、自動車免許制度という社会的な問題に焦点を当て、安全向上という問題解決のため、国際的な文献をインターネットも利用しつつ、刑事政策上の課題として捉えて考察する方向を定めることができました。
道路交通犯罪について、社会科学の視点から、問題点を考察する重大な示唆を得ることができ、1年間の政策科学の講義の成果があったと高く評価しています。
(政策科学論専攻 公共政策研究 刑事関係研究 修士1年 高橋 迪(すすむ))
- 「文化遺産政策研究におけるSocial Capitalの援用可能性について」
現代社会における行政と市民との関係を、文化遺産政策(文化財の保存・活用、文化財・世界文化遺産を活用したまちづくり等)の分析を通じて考察することが、修士論文の主たる研究目的である。
これを「文化遺産政策研究」と呼ぶならば、そのアプローチは次の二つ、すなわち@文化遺産自体の価値の論述・測定(政策価値論)、A文化遺産に関する行政・政治・社会システムの分析(政策過程論)、に大別できると思われる。
換言すれば、アプローチ@は、「なぜ文化遺産は保全しなければいけないのか」について、Aは、「いかに文化遺産を保全すべきか」について考察するものとなる。そして下記の表は、文化遺産政策を研究対象とする学問領域における、アプローチ@・Aの分類である。アプローチ@は、環境経済学を除いて規範的要素が強い一方、Aは説明的要素が強くなる。
@政策価値論
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・考古学・文化遺産学・世界遺産学・環境経済学
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A政策過程論
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・文化政策学・文化経済学・環境行政学・環境政治学・環境社会学
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こうした認識に基づき、本稿では、「政策科学」の講義で修学したSocial Capitalをどれほど修士論文『文化遺産政策研究』において援用可能か、「Before:政策科学受講前」と「After:政策科学受講後」に区分して記述し、そして今後の課題についても言及したい。
<Before:政策科学受講前>
受講前は、主に上記アプローチ@から分析しようと考えており、「文化遺産は、その過去の歴史的・学術的価値から重要なだけではなく、現在の住民(市民)と地域の歴史そして地域社会を繋ぎ、また異なる文化の人々ともネットワーキングをし、さらに住民(市民)が主体的に社会へ関与する機会をもたらし、ひいては民主主義が育まれる重要な未来への遺産である。」という大変抽象的な仮説を提示し、検証を試みようとしていた。しかし、この時は、歴史的・学術的価値、または観光収入等の金銭的価値とは異なる、文化遺産の「新しい価値」とは果たして「何か」、それを具体的に提示することができなかった。
<After:政策科学受講後>
受講後は、人・歴史・地域社会を繋ぎ、そして文化遺産を地域住民が自治意識に基づいて保全する、つまり地方自治に基づいた住民(市民)の民主主義的能力を育成する文化遺産の「新しい価値」と、Social Capitalとの関連性を見出すことができた。Social Capitalとは、「例えば、ネットワーク、規範そして社会信頼のような社会的組織の特徴であり、それは、共通利益のための調整と協働を促進する」ものであると定義される。
確かに、このSocial Capitalを新しい価値と同意義に捉えるのは、あまりにも短絡的である。しかしながら、例えば、【仮説1(アプローチ@):文化遺産がSocial Capitalという新しい価値を創発し、向上させることができる】、として、文化遺産を積極的に保存・活用している自治体とそうでない自治体(これは文化遺産の保存・活用数、文化遺産の政策・制度的位置づけ、予算配分等により分類)において、Social Capitalを測定し、比較することにより、その仮説を検証することができるのではないか。
または、【仮説2(アプローチA):Social Capitalの高低がグッド・ガバナンス(市民や非政府組織(NGO)、非営利活動団体(NPO)、企業や業界等の関連活動主体等の多元的アクターが、政府組織と同じレベルに立って問題ごとに各役割を担い、よりよい市民社会を目指して協働すること)を実現できるかどうか左右する】として、ガバナンス・レベルとSocial Capitalの相関関係を示し、仮説を検証することができるだろう。
以上のように、修士論文にSocial Capitalを援用することは可能であろう。しかしながら、文化遺産政策研究を発展させるためには、前述の二つのアプローチを一つのフレームワークに収斂させ、分析・考察する必要性があると考えている。なぜなら、文化遺産政策研究をする場合、いくらアプローチAから分析を進展させたとしても、最終的にはアプローチ@による「なぜ文化遺産を保全するか」「残す価値はあるのか」という命題に行き着くように思われる。
政策科学を受講したことにより、Social Capitalは、文化遺産政策研究にとって、新しい価値として、そしてアプローチ@・Aが収斂していく一つの分析枠組み(政策価値・過程論)として、極めて重要な概念であると認識している。したがって、今後は、いかに実証的に測定可能な程度までSocial Capitalを精緻化していくかが課題である。
(政治学研究科行政学専攻 古坂 正人)
- (Before)
私の研究テーマは、”環境政策における意思決定”です。
このテーマの意図は、まず初めに、環境税や排出権取引といった地球温暖化防止を目的とした環境政策の経済分析を行い、次に、実際の環境政策の導入にあたって、産業界や環境団体が、政策の決定過程においてどのように利益表出を行い、政策形成に影響を与えているのかを明らかにしようというものです。
こうした観点より、アメリカやヨーロッパにおける環境政策を検証し、日本における今後の環境政策のあり方を探求しようというのが、修士論文の主旨(予定)です。
この講義を受ける前は、政策評価は主に、その政策が最少の費用で行われているかという費用効果性(cost-effectiveness)の基準で行い、それにより政策の優劣を評価するという考え方をしていました。
(After)
この講義でPutnamの論文を読んで、最も共感したことは、公共政策がどのようにsocial capitalの形成に影響を与えているのかを明らかにしなければならないということです。
これまでの公共政策では、費用便益分析の中に、社会的信頼関係や市民参加といった、social capitalの要素を考慮せずに行われてきました。その結果、social capitalが侵食され、集合行動やコモンズの悲劇といったジレンマが生じ、政策の有効性が低下してしまったといえます。これは、social capitalそれ自身が持つ正の外部性を軽視してきたことが要因ではないでしょうか。
環境政策にも全く同じことが当てはまると思います。
環境税のような環境政策の多くは、環境汚染という負の外部性を内部化することを意図していますが、残念ながら、これまでの環境政策では、social capitalの持つ正の外部性は考慮することなく行われてきたといえます。
例えば、1986年からアメリカで行われた排出取引プログラム(Emisson Trading Program)では、取引数が少なく費用節約が十分でなかったという評価がなされています。
しかし、このプログラムは本来、新規企業の参入を促進し、地域活性化を促すことを目的としていました。
したがって、単に費用節約という基準からだけではなく、このプログラムが地域のsocial capitalの形成に如何に貢献したのかという視点からも評価し直す必要があると感じました。
もう一つ印象的だったのが、アメリカにおける市民参加への関心の高さです。
Putmamの論文ではsocial capitalの衰退を懸念していましたが、日本と比較するとsocial capitalの水準が非常に高いといえます。これは恐らく、多元的なアメリカ社会の中で、人々が政策形成に参加するという意識が非常に高いことの現われだと思います。官僚が政策決定権限を独占せず、市民も政策決定に参加できるような多元的なシステムを、日本も早急に構築していくことが必要だと改めて感じました。
最後に、これはPutnamの論文を読んで常に感じたことですが、social capitalのような、一見抽象的な概念を、規範理論に終わらせることなく、実証的かつ論理的に議論していることに感銘を受けました。社会科学を専攻する学生として、その姿勢を見習っていきたいと思います。
( 荒 山 龍 史)
- (Before)
私は、多国籍企業の企業倫理の実現条件を研究しています。倫理を実現する方法として、各国の政策も考えてみようと思い受講しました。
(After)
Putnam教授の『ボーリング・アローン』を輪読する中で、social capitalという概念を中心に、社会がどうあるべきか、では政策はどうすべきかということを考えた一年でした。
政策は、どういう目標を持っているものかが一番重要で、また他の政策によってその目標が捩れない様に、政策全体として目標を明確にできるなら理想的だと感じました。
自分のテーマの倫理を実現する政策に関しても、もし倫理実現のための政策の一方で、何か妨げるような別の政策がある場合効果が無と化すか、事態が悪化してしまうかもしれません。
まだ、これからいろいろ考え続けなければなりませんが、いろいろと示唆に富んだ授業でした。ありがとうございました。
(A.I)
-
この講義を受けて、初めて自分が生きる今の時代を客観視することが出来ました。
社会資本(市民参加)について学びましたが、私たちが科学の発達によって得た、個々人に快適な生活と引き換えに失った地域社会への参加、それに伴う信頼、また家族の絆は、現代社会の多くの問題を解く鍵で
あると知り、今後自分が取り組んでいく研究に対しても、本講義を受講する以前と比べ、より多角的な検証を可能にしてくれるものと思います。
また、一年を通して英語の教材を使用したことにより、訳す力や語彙力といった基本的な英語能力が向上したことも大きな収穫です。
(原 貴子)
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